上 下
3 / 71

三、真美と智世

しおりを挟む
「文香…ちゃん?」
始業前の廊下。登校して一年A組の教室に入ろうとする私に、背後から声がかかる。振り向くとそこには、屋代真美さんと徳永智世さんがいた。
「えへへ…。文香ちゃんでいいよね?」
屋代さんが首をすくめて微笑む。ふっくらした真っ白な頬は、やっぱりお菓子みたい。雪見だいふくかな。それにしてもいきなり名前で呼ばれた。人懐っこい子だな。
「え…、う、うん。いいけど…」
「じゃあ文香ちゃんって呼ぶね。あ、呼び捨てでもいい?真美たちのことも真美と智世でいいんだよ」
「うん…」
真美は顔を綻ばせて手を振った。この子、自分のこと真美って呼ぶんだ。でも瞳がぱっちりと大きくて、かわいい子だと思う。私は目が小さくて細いから、ちょっと羨ましい。でも智世はその隣にいてニコリともしない。私と同じ細い目。その向こうの瞳には、相変わらず暗い輝きがある。
「それでさ文香、今日一限目自習なんだよ。その時間使って、班ごとに集まって、遠足のこと話し合おうってなってるんだよ」
ハスキーで柔らかなアルトがふわふわとそう言う。この顔に似つかわしい声だ。
「真美案内係だからさぁ、梁山渓(りょうざんけい)のこといろいろ調べとかなきゃなんだけど、怠けちゃって何にもしてないんだよ。どうするかねー」
どうするかねと言うわりに、ちっとも困った感じがない。ユーモラスな子だな。でもその脇で相変わらず何も言わずに無表情な智世が気になる…。ちなみに梁山渓というのは、今回の遠足の目的地だ。
「文香は、何をレクリエーションにするか、考えた?」
「あ、えーと…。考えてない…」
「そうだよねぇ、そうだよそうだよ」
真美はほがらかに、私の腕に手を添えた。ボディタッチ⁉︎私は一瞬びくりとした。けれど、なんか嬉しい。
「自分から案内係やるって引き受けといて、こんなこと言うのもなんだけど、いちいち細かくやってらんないんだよこんなの」
真美はお気楽に笑う。そうやって笑われると、何も考えてきてない私でもまあいいかという気にさせられる。…でも隣の智世は笑ってくれない。無表情に、じっと私を見つめている。なんかその視線が、私に緊張を呼んだ。
「さ、文香。教室入るんだよ」
真美の手が、私の背中にかかった。論理先生みたいな温かみはないけれど、ふわりとした感触が優しい。教室の中では、すでに五つの班がそれぞれに集まって座っていた。
「あ、来た来た。おーいっ」
教室の奥で遥が手を振る。その脇には、長岡千恵美さんと宮城浩くんがいる。
「おはようだよ、みんな」
真美がそう言って手を振り返す。遥のもとに、班員全員が集まった。そんなみんなを見渡し、遥が口を開く。
「うんうん。それじゃあ、この自習の時間を使って、班の話し合いをするよ。みんな準備は進んでいるかー?」
私は視線を泳がせた。真美がニヤニヤ笑いながら私を見ている。
「智世、どうだ、連絡係は?」
遥が、いきなり智世に話を振る。遥ったら、怖くないのかな。当てられた智世は、しばらく小首を傾げて考える様子だったが、やがてこう言い出す。
「あたしは連絡係だから、事前準備らしいものはないわ。当日、先生の言うことをみんなに滞りなく伝えられればと思ってる」
自己紹介の時ちょっと耳にしたけれど、今ほとんど生まれて初めて智世の声を聞いた。か細くて小さい、高い声だった。でも滑舌はよくて聞き取りやすい。意志の強さを含んだ声のように聞こえた。でもやっぱり人を緊張させる声だと思う…。
「そうか。この前連絡係だけ先生のとこ集められてたみたいだったけど、何かあったか」
遥にそう問われた智世は、小麦色の顔にかかったスーパーロングの黒髪を手でかきあげる。顔立ちはあどけないのに、大人っぽい仕草が妙に似合う人だ。
「先生が連絡係に指示を出すタイミングとか聞いた」
「了解。間違いのないようにな」
「わかった」
次に宮城くんが話し出す。部活で忙しいだろうに、みんなに配るパンフレットのことを細かく考えて実行してて、すごいなと思った。お弁当係の長岡さんは、遠足当日に家の都合でお弁当を持って来られない子のために、カフェテリアにお弁当を発注するのが役目だ。私も遥もお世話になる。それにしても、宮城くんと長岡さん、カップルなんだよな。普段二人でどんな話してるんだろう。
「それじゃあ次は案内係。真美、梁山渓の情報集めは進んでるか?」
「それが…さぁ」
遥にそう言われ、真美はいたずらっぽく首をすくめて見せる。
「手付かずなんだよ。ごめーん」
「こらー」
遥は真美に空手チョップをする真似をした。
「どうすんだー。もうあとちょっとで連休だぞ」
「ごめーん。真美、当日までには何とかして、案内ができるようにするから、許してだよ」
許してだよ、という言い方が愛嬌があって面白かった。
「ったく、なんとかしておけよ」
そう言った後、遥は私に向き直る。ああ…、私も何もやってない。
「んで、残るはレクリエーション係の文香だけど、どうだ、みんなで楽しめるようなこと、何か考えてきたか?」
「え…、えっと…」
みんなで楽しめるようなことなんて、何も思いつかない。だいいち、ひとり遊びだってろくに知らない。
「えっと…、その…、ごめんなさい」
私はみんなに向かって頭を下げた。
「えー、文香も手付かずかよ!ったくぅ!」
遥が困り顔で天を仰ぐ。ごめんね遥。
「何か遊べるようなこと知らねぇか」
遥にそう問い詰められるけれど、私も困ってしまう。
「ごめん…、私…、遊びとか苦手で…」
「ふう…」
ため息をつく遥。でもその目は笑っていた。
「まあ文香にレクリエーション係なんて、ちょっと無理だなとは思ってたけどな。しょうがねぇ、ちょうど時間も余ってることだし、みんなで遊べそうなこと、ここで話し合おうじゃねぇか」
みんなに異議はないようだった。その後六人で、遊べるようなことを話し合う。とは言っても私はだんまりだったけど。案はいろいろ出た。その中でも真美が出した「ナンバープレート競争」がみんなの注目を引いた。
「『ナンバープレート競争』?何だそれは?」
遥にそう聞かれて、真美はウキウキした調子で説明を始める。
「バスの右二列と左二列の対抗戦なんだよ。まず最前列の子がハンカチを持つんだよ。それで、対向車のナンバープレートの下一桁の数だけ、右の列のハンカチが後ろに送られるんだよ。次に左の列のハンカチが、次の車の下一桁の分、後ろに行く。そうやって交互にハンカチを送って、早く最前列に戻ってきた列が勝ちー」
へぇ、面白そう。なんか、真美が考えそうなことだな。遥も興味ありげだった。
「いいな。なかなか楽しそうじゃねぇか。文香、どう思う?」
どうと言われても…。
「え…、ま、まあいいんじゃない…」
「思うんだけどさぁ、勝った列の子から抽選で三人に景品を出すのはどうだろう。何か賞があったほうが盛り上がらないかな」
「ちょっとした手帳とか小物だとかなら、学校もお金出してくれるんじゃないかしら」
と、宮城くんと長岡さん。
「あ、それいい」
遥も乗り気だ。
「じゃあどうだ、ウチの班としてはこの『ナンバープレート競争』案でいかねぇか」
皆賛成だった。
「それじゃあこの案で。文香、今度のレクリエーション係の会議で、これ発表してくれ」
「え⁉︎わ、私…が…?」
遥の言葉に、私の顔が一気に赤くなる。そんな…。これを私がしゃべるの?みんなの前で?そんなの無理…。
「だって…、私…」
うつむく私の顔を、遥がのぞき込む。
「できねぇか」
「うぅぅ…」
うなるのがやっとの私に、遥が困った顔をする。しばらく場は沈黙に包まれた。でもそのとき、真美が急に声をあげた。
「あぁ、じゃあさぁ、会議、真美が行ってしゃべるんだよ。案内係何もしてなかったから、それくらいやらせてだよ」
「え?いいのか真美?」
遥に問われた真美が、コクコクとうなずく。
「いいよいいよ。この案の言い出しっぺ真美だしさぁ」
「……………」
言葉が出ない。でも真美が私の代わりに会議に出てくれる。謝らなきゃ。
「…ごめ、んね…。真美…」
「いーのいーの、気にしないんだよー」
真美はおおらかに笑った。でもそんな真美の隣で智世が、真美に甘えちゃった私を責めるでもなく、認めるでもない無表情で、私を見つめている。その視線が私をまた緊張させる。いいのかな、私。でも他にどうしようもない。うつむいてるしかなかった。

北海国際は、六時間中最初の三時間が午前中、後半三時間が午後の授業だ。この日の三時間目、午前中最後の授業が古文だった。太田先生が入ってきて教壇に立つ。その姿を早くも目で追う私。
「起立!礼!」
クラス委員長の前橋晴人くんの号令。私はいつも以上に深く礼をする。授業終わったら、あの時のこと謝らなきゃ。
「よーし、みんな元気そうだな」
太田先生がみんなの顔を見渡して、大きな声でそう言う。よく通るきれいな声だ。イケボ…。
「じゃあ出席を取る。一番、池田文香!」
「は…はい」
いけない、どもっちゃったよ。ちゃんと返事したいのに。
「どうだ、その後」
先生がにこやかに声をかけてくれる。嬉しい…。はい、もう大丈夫です、その節はご迷惑をおかけしましたって言いたい。でも声が出ない。
「あ…えと…大丈夫、です…」
ああもう!それだけじゃ足りないでしょ。私のバカ。でも先生は大きくうなずいてくれる。
「そうか。ならよかった。二番・石田達夫!」
先生の出席取りが続いていく。あの時、先生が手を置いてくれた背中が、まだ温かい気がした。

四十五分間の授業中、私は先生の整った顔を目で追ってばかりいたせいか、授業はあっという間に終わる。先生が教壇を降りる。私は席を立ち、先生に足を踏み出す。先生もそれに気づいて、私に歩み寄ってくれた。
「どうだ文香。どこかの班には入れたか?」
「あ…えと、そのぉ…」
「あたしの班に入れてあげたよ!」
不意に背後から声がかかる。振り返ると遥がいた。
「文香、今はウチのレクリエーション係だよ」
そう聞くと太田先生は優しく顔を綻ばせた。
「そうか…。それはよかったな文香。どうなることかと思ってたぞ」
太田先生はそう言って、私の頭をポンポンと撫でてくれる。その手が大きくてあったかい。先生…。あ、いけない、お礼言って謝らなきゃ。
「せ、先生…」
「うん?なんだ文香」
大きな黒い瞳が私をじっと見つめてくる。恥ずかしかったけれど、私もその目を見つめ返した。
「この前は…その…ありがとう、ございました」
私は頭を下げる。
「ははは、ありがとうございましたじゃないよ。あんなすごい勢いで泣いて、心配したんだぞ」
ありがとう太田先生。泣いてる私の背中に置いてくれた手のぬくもり、私決して忘れない。
「すみません…。ご迷惑を、おかけしました…」
「いやいや。俺でよければいつでも話を聞くぞ。で、遥、文香はちゃんと係やってるか?」
遥はニヤリと笑う。
「それが、さぁ。ね、文香」
「ううぅ…」
口ごもる私に、先生も笑った。
「なんだ文香。あんまり動けてないか」
「えっと…そのぉ…すみません」
「そうかそうか」
それでも先生は、私の頭をまたポンポンと撫でてくれた。
「文香は、今の文香にできることをすればいい。遥たちもそれを認めてくれるだろう」
先生の温かみが、私の頭から伝わって、全身を経巡り、胸の底に流れ込んでいく。先生、私…。

この日の夜も、遥とラインで語り合った。先生の言葉通り、遥は今の私の在り方を認めてくれていて、ホッとする。ラインが終わった後、私はベッドの上でツイッターを開いた。
『あの人の大きくて温かい手が、私の頭を撫でてくれた。嬉しい…。その手の温もり、私、決して忘れない。でも私、今、どんな気持ちをあの人に持っているんだろう』

しおりを挟む

処理中です...