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七、一センチ切った髪

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遠足が過ぎると、中間考査まで残り半月になる。高校に上がって初めての考査なので、私も気合を入れて勉強した。特に古文を重点的にやる。国語って、それまでは得意でも不得意でもなかったけど、論理先生の採点する答案を、恥ずかしいものにはしたくなかった。そんなある日、私は先生の授業中にわからないところがあったので、放課後に職員室に質問に行った。考査前一週間になると職員室は立ち入り禁止になるけど、今はまだ入れた。扉を開け、入り口から中をのぞき込む。論理先生がいた。でも女子が二人そばにいる。褐色のセミロングレイヤーに、ぽちゃっとした後ろ姿。そして深い艶を放つ黒髪を腰まで伸ばした後ろ姿。真美と智世だ。真美が笑いながら先生と会話している。先生も先生で楽しそうだ。あぅぅ…。なんか入って行きにくくなってしまう。出直そう。立ち去りかけた、そのときだった。
「お!文香!文香じゃないか。どうした?」
先生!論理先生が呼び止めてくれた。思わず顔が赤くなる。先生と真美と智世。三人に見つめられた。
「あ…、その…、えっと…」
「俺に用か?」
「は…はい…」
その大きな温かい手で、論理先生が私を手招きする。
「だったらそんなところに突っ立ってないで、こっち来い」
「いいん…ですか…」
「いいぞいいぞ」
私は、おずおずと職員室の中に入り、論理先生の前に進み出た。室内は多くの生徒たちが、いろんな先生のところで話をしている。こういう、先生と生徒の間が近しいのも、北海国際の特徴の一つだ。
「文香、やっほーだよ。文香も論理とお話ししにきたんだ」
真美が相変わらずの人懐っこさで私に話しかける。真美、先生と何話してたんだろう。
「うん…まあ…」
「文香が職員室に話しに来てくれるなんて珍しいな。嬉しいぞ」
論理先生が私ににこにこと微笑みかけてくれる。その大きな黒い瞳が、私を吸い寄せた。
「文香、最近あまり窓の外一人で眺めていること、なくなったんじゃないのか。クラスにも溶け込んできたか」
「あ…、えっと…」
ダメだ、この瞳で見つめられると、まともに言葉が出なくなってしまう。顔がさらに赤くなってきた。
「遠足の班の六人でつるんでるんだよ。遥と、文香と、真美と、智世と、千恵美と浩だよ。休み時間とかお昼とか、みんなでダベってるんだよ。F組から秀馬がくることもあるんだよ」
真美のその言葉通り、私はこの五人や坂口くんと一緒に過ごしていることが多くなった。でも、ダベってるとは言うものの、私はほとんど口をきけていないけど。そういえばこの七人でグループラインも始めた。とは言っても私はあまり投稿できていない。それに智世も滅多に口を開かないし投稿もしないな。今も、しゃべっている真美の隣で、唇を引き結んでいる。
「そうか。大人数で盛り上がってるじゃないか」
論理先生はそう言って、また私を見つめる。
「文香、よかったなあ。あのとき遥に仲間に入れてもらって、万々歳じゃないか。文香の高校生活が始まったんだぞ。目一杯楽しめ」
「は、はい…」
私の高校生活…。いつか論理先生が私に、「文香には、文香にしか送れない学校生活というのもあるはずだ」と言ったけれど、これがそうなのだろうか。
「ところで真美、さっき言っていた同人誌、ほんとに作るのか?」
「うんっ」
真美は笑顔を弾けさせた。
「来月に即売会あるから、試験明けからそれに合わせて作るんだよ。製作メンバーは真美とねー、智世と、論理と文香だよ!遥も合唱部の合間に来てくれる予定だよ」
「えっ!」
私は思わず声を上げた。二重の意味でびっくりする。論理先生がメンバーに入っているということと、その中になぜか私がいるということと。
「でも…、でも私…、絵とか、全然だし」
「大丈夫だよ」
真美は笑って手を振る。
「論理だって絵ダメだもん。ねー、論理」
「ああ。俺がそんな中に入って、何ができるんだろうと思うが」
「話の筋立てと絵は真美と智世がやるからさぁ、論理と文香は他のいろんなことやってくれればいいんだよ。消しゴムかけとか、スクリーントーン切り貼りするとか」
すくりーんとーん?何それ?なんか真美に強引に決められちゃったけど、いったい何やらされるんだろう。また不安になる。だけど私、論理先生と一緒に何かできるんだ…。そう思うと頬が緩む。
「よし。そういうことなら俺にも何かできそうだな。同人誌作りか…。俺も経験がないから、わくわくするよ。一緒に楽しもうぜ真美!」
「うん!」
さっきから真美が嬉しそうだ。それって、同人誌を作れるから嬉しいんだよね?それともまさか…論理先生と一緒に作業ができるから?また胸の内がモヤモヤしてきて、私は思わず、楽しそうに会話している真美と先生から目をそらした。すると智世と目が合う。智世は私を見つめていた。その顔は相変わらず無表情だった。
「論理ぃ、次のスクールバスまでまだ一時間もあるんだよ~」
真美が、どこか物欲しげな表情を見せながら、論理先生にそう言う。
「そうか。次の撫仏(ぶふつ)駅行き、四時半か。ちょっと間があるな。文香、下社行きは何時だった?」
「三時…四十五分です…」
「お、それならあと十五分くらいだな。そろそろ発着所に行くか」
「あ、で、でも…」
真美たちを、というか、真美を残して、私一人でこの場を離れたくなかった。
「まだ…、います…」
私のその言葉を聞くと、先生は笑った。
「そうかそうか。じゃあ一緒にいよう」
「ねえ論理ぃ」
真美はさっきから、物欲しげな表情をやめない。そしてこんなことを言う。
「次のスクールバスまで時間ありすぎるから、論理、真美たち送ってってだよ~」
真美の突然の申し出に、論理先生は口に手を当てつつ「ふむ…」と少し考えていた。先生、真美たちと行っちゃうの?
「よし。俺もちょうど手が空いたところだ。なら行くか」
先生…。私はうなだれた。でもそこに、思いがけず智世が口を開く。
「論理、あたしの家、今日お兄ちゃん遅いの。遊びに行っちゃって。だから家に遊びに来ない?真美も文香も一緒に」
え…。私、智世の家に行くの?真美も?なんか不安…。でも論理先生が行くって言うんなら…。
「おぉ、いいのかお邪魔して」
驚いた顔をしてそういう先生に、智世は滑舌のいい口調で答える。
「もちろん。大歓迎よ」
そう言って智世はかすかに微笑んだ。智世の笑った顔、初めて見たかもしれない。腰まである、智世の長くて潤った黒髪。その髪が、職員室の明かりを反射して艶やかに煌めいている。
「そうかそうか。なら、さっそく行こうじゃないか」
先生は明るく笑いながら、手早く帰り支度をする。そして私たちを促した。
「じゃあ行くぞ」
私は小走りにその後をついていく。やった、思いもかけず論理先生と一緒に帰れることになった!真美と智世はいるけど…。でも嬉しい。階段を降りて一階の玄関ホールを抜け、石畳が広がる中庭に出る。カレンダーは五月下旬になるところ。梅雨の走りの、ちょっと湿り気を帯びた風が、私の髪を揺らしていった。

「へー、これが論理の車なんだー」
バス発着所の隣に職員駐車場がある。十四番の枠に駐めてある車に先生が歩み寄ると、真美がふんふんとうなずいた。
「パジェロミニなんだよ。中古?」
「ああ。俺の経済力じゃ新車にはまだ手が出ない。さあ、乗れよ」
私たちは論理先生の車に乗り込む。なんか、ごく自然に、後部座席に真美と智世が乗り、私が助手席に座ることになる。私の隣に論理先生が乗り込んできた。うっ…、ち、近い。先生の左肩と私の右肩、十センチも離れていない。軽自動車の中って、こんなに狭いものだったんだ。
「えー、論理ぃ、この車まさかマニュアル?」
後ろの席から真美の驚いた声がする。
「ああ、マニュアルだ。オートマよりちょっと安かったからな」
「乗りにくくない?」
そう問う真美に、先生は事もなげに答える。
「確かにクラッチとギアレバーの操作は若干忙しいが、慣れれば大したことないぞ」
先生はギアレバーに手をかけ、エンジンキーを回す。先生がレバーを操作する。すると、先生の熱い左手が、私の右の太ももに当たる。
「あっ…」
私の口から小さな声が漏れる。先生はそれに気づいた。
「あ、すまん文香。ギア操作すると文香の足にさわっちまうな」
「あ…、べ、別に…構い、ません…」
先生の手に触られた太ももが、見る間に熱くなる。そして私の胸の中も、顔も。
「あーっ、論理、ギアにかこつけてセクハラしてるぅ~」
後ろから真美の遠慮のない声。セクハラ?ううん、論理先生になら少しくらいセクハラされてもいい。私はさらに熱くなった。
「こら。人聞きの悪いことを言うな真美。車が小さいからしかたないだろう」
先生が車を発進させ、加速する。その間にも先生はギアレバーを何度も操作し、そのたびごとに先生の左手が私に太ももに触る。あぁ、熱いよ論理先生。この熱さ、太もも越しに先生に伝わっていないかな。
「そうね、論理の手、文香の太ももによく触ってるわね」
智世までそんなことを言う。
「でしょー!こりゃもうセクハラだよ。校長先生に言~ってやろ」
「やめてくれぇ~、首が飛んじまう」
先生はおどけて首をすくめた。
「あ…、で、でも先生…、私、ほんとに…構いません、から…。車…かわいいから、…しかた、ありません、よね」
やっとのことでそう言う私に、先生は「ははは」と笑う。
「すまんなー文香。軽自動車しか買えないしがない男に免じて、許してやってくれ。それにしても本当に四人で乗ると狭いな。もうパンパンだ」
「早く出世して、もっと大きい車買えるようになるんだよ。いつまでも非常勤じゃ情けないんだよ」
真美ったら、先生に向かってずいぶん失礼なこと言うよ。でも先生はそんな真美の言葉も明るくおおらかに受け止める。
「そうだな。そのためにはまず、日頃の授業をしっかりやって、お前たちに古文の力をちゃんとつけてやらないとな。だから今度のテスト、みんなでいい成績取るんだぞ」
「おおっと、いきなり成績のお話になってしまいましたねぇー」
いたずらっぽい真美の声。その真美に、智世が問いかける。
「真美って、勉強はどれくらいできるの?英語は確か、いちばん上のクラスだったわよね」
北海国際の生徒の英語力は、上はネイティブスピーカーレベルから、下は普通の高校生以下まで幅広い。それに合わせて、全部で五レベルの、習熟度別クラスで授業が行われている。私はロサンゼルスにいたとはいえ、ずっと日本人学校育ちで、現地の人と繋がりは一切なかった。なので英語力が育つはずもなく、クラスはいちばん下のレベルにいる。中一の頃から、英語は苦手だった。
「真美ねー、ソルトレイクでは小学校から現地校だったからねー。いちお話せるんだよ」
「すごいよな真美、この前ブライス先生と流暢に話してたじゃないか。俺、学生時代から英語は苦手だったから、話せる人が羨ましいし尊敬する」
そう言う論理先生の言葉には、真美に憧れているような色合いがあった。また胸がモヤモヤする。先生、真美に憧れる?じゃあ私の髪にも憧れてくれる?赤信号で車が減速する。するとまた論理先生の左手が忙しく動いて、私の太ももに触れていく。熱い…。
「じゃあ真美、英語は得意だとして、他の科目はどうだ?特に古文は?」
「あちゃー」
バツの悪そうな真美の声。
「真美さぁ、基本的に勉強苦手なんだよ。論理、この学校の赤点って三十点未満?」
「いや、平均点の三割以下が赤点になる」
「そか。それならまだ真美にも、なんとかなるかもしれないんだよ」
さっきから論理先生と真美ばかり話ししてる。先生、私にも何か話しかけてよ。そんな気持ちを込めて私は、運転中の先生の横顔を見つめた。すると先生がチラリと私を見る。
「文香はどうだ。得意不得意とかあるか」
やった。先生が話しかけてくれた。
「えっと…、英語は、中一の時から…いちばん下のクラスです…。得意科目は…」
得意科目は、古文だ。古文だと言え私。
「えっと…」
言え私!
「…古文、です」
よし言った。先生、私の得意科目、先生の古文だよ!
「おおー、そうかそうか!文香、古文が得意か!」
論理先生は顔を綻ばせ、とても嬉しそうにそう言う。
「俺の授業で古文が得意になったって言うんなら、それは教員冥利に尽きることだ。文香、今度の中間考査、期待してるからな!」
「はい…」
はい。論理先生。私、古文だけは一生懸命勉強してます。先生に採点されても、全然恥ずかしくない答案を出したいんです。そうやっていい成績を取っていたら、先生、きっと私のこと見てくれますよね。

先生の車は、いつも下社行きのスクールバスが通る「グリーンロード」とは全く違った国道を走っていく。
「そういえば三人とも、家はどのあたりなんだ?」
先生がそう尋ねる。
「あたしの家は、撫仏駅からそんなにない。車なら五分もかからない」と、智世。
「真美の家はねー、月の家(つきのや)駅からちょっと行ったとこ。撫仏からなら車で二十分くらいかな」と、真美。
「そうか。文香は…、バス下社線なら、尾風市内だよな。何区だ?」
「ひ、東区…です」
「おぉ、東区か。実は俺もなんだよ。東区のどこだ。俺は船東(せんとう)三丁目だ」
えっ?船東三丁目?
「そうなん…ですね。私、紫(むらさき)一丁目です」
運転しながら先生は、軽く目を見開いた。
「おー、そうかそうか。紫の一丁目か。じゃあ隣町じゃないか」
私が住む紫地区のいちばん東が一丁目、先生が住む船東地区のいちばん西が三丁目になる。歩いて楽に往復できる距離だ。
「文香、船東商店街、歩いたことあるか」
「は、はい…。何度も」
「俺の家、商店街でけっこう大きな表具屋やってるんだよ。見たことあるか」
船東商店街の表具屋さん…。あ、覚えてる。商店街の中程にあるお店だ。美しい掛け軸や美術品が、広いショウウィンドウにきれいに並べてあった。お金持ちの人じゃなきゃこんなお店行けないだろうなって思ったっけ。まさかあそこが、先生のお家だったなんて…。
「あ、あります…。きれいで大きなお店…ですよね…」
「ありがとうありがとう」
先生は嬉しそうな顔を満面に浮かべた。
「いやぁ、思いもよらず文香とはご近所さんだったな。それなら好都合だ、今日の帰りは真美を家まで送って行った後、文香と一緒に帰るか」
「あ…、は、はい…。ありがとう、ございます…」
文香と一緒に帰るか。論理先生のその言葉が頭の中をこだまする。嬉しい…。今日は先生とずっと一緒なんだ。

午後四時前、私たちは智世の家に着いた。町外れの、空き地が多い、もの寂しいところに、ポツンとたたずんだアパート。それが智世の家だった。
「どうぞ」
部屋の鍵を開けて扉を開き、智世は私たちを招き入れた。
「お邪魔するぞー」
まず最初に論理先生、次に真美、最後に私が、部屋に入る。小さな玄関のすぐ右が和室、左がトイレとお風呂、正面が台所とリビングという、簡素な造りだった。
「智世、ここで一家で暮らしてるのか」
「一家と言っても、お兄ちゃんと二人きりだけれど」
論理先生に聞かれてそう答える智世が寂しげだった。
「それで、公雅は今夜遅いのか」
「ええ。お友だちとカラオケで騒いでくるって言っていたわ。ついでに…、あまり大きな声で言えないけれど、飲んでくるらしい」
智世…、飲んでくるらしいって、教員の前でそんなこと言ったら、普通はその瞬間に無期停学だよ。でも論理先生はそんなこと気にもかけない様子だ。そこが先生が好かれる理由の一つでもあるんだろう。
「そうか。それじゃ智世、今夜は寂しいな」
「そうね。だから論理たちに来てもらったのよ。リビング座って。お茶入れるから」
招き入れられるままに、私たちはリビングのテーブルの前に座った。お兄ちゃんの公雅先輩と智世が、並んで写っている写真が飾られてある。先輩も智世と同じで、色が浅黒い。顔立ちも、眼鏡をかけたところまで似ている。そしてその脇にいる智世。なんか、すごく嬉しそうに、満面の笑みを浮かべている。智世、こんな顔もするんだ…。
「さあ、どうぞ」
智世がお盆に急須とお湯呑を盛って、台所からリビングにやってくる。そしてお茶を注ぎ分けてくれた。褐色の温かいお茶から、いい香りがしてくる。私は口をつけてみた。え…。何かすごく香味がある。日本茶でも紅茶でもない。どこのお茶だろう。
「おいしい?」
銀縁眼鏡の向こうの細い瞳が、私にそう聞いてきた。
「うん…。何の、お茶なの?」
私がそう聞き返すと、智世はかすかに微笑んだ。
「烏龍茶よ。台湾の。いつもお母さんが送ってくれるの」
「へぇ、烏龍茶なんだこれ。自販機で売ってるのとは全然違うんだよ」
真美も驚く。確かに、ペットボトルのウーロン茶は、味も違うし、だいいち、ここまで香味が立たない。
「中国の、ほんとの烏龍茶は、こういう味なの。ペットボトルなんて、まがい物もいいところね」
そういう智世は、ほんの少し得意げに見えた。私はまたお茶を一口飲む。きれいな香味だ。お茶をおいしく入れられる人に悪人はいない、なんて言葉、どっかで聞いたことあったな…。
「これはうまい。烏龍茶の本当の味がこれだと知っていたら、ペットボトルなんて飲めないな」
論理先生もうなる。
「そうでしょう?みんなおいしく飲んでくれてよかった」
智世はそう言って、またかすかに微笑む。表情も無表情なことが多くて、何を考えているのかわからないし、一緒にいると緊張する。そんな智世だけど、悪い子じゃないと思った。

お茶を飲み終わると、真美はスマホを取り出してゲームを始めた。
「お。真美、ゲームか」
「うん。『ドラドラドライブ』。論理もやったことある?」
「あるある。もうサービス開始の時からやってるぞ」
「えー、そうなんだぁ」
ドラドラドライブ?聞いたことないな。それに何より、私スマホゲームなんてしない。
「どこまで進んでる?」
「見てみる?」
「おぅ、見せてくれ」
論理先生は立ち膝になると、真美の背後に歩み寄った。うつむいて夢中でゲームをする真美と、その後ろに立ち膝で立つ論理先生。
「やっぱり『においぶくろ』使ってるのか」
「うん。部屋の中でやるときは要るよ」
「五分しかもたないのが難点だよな」
「だよねー。上級においぶくろは手に入りにくいし」
二人して訳のわからない会話をする真美と論理先生。そして真美はうつむいたまま、先生にこんなことを言う。
「知ってる論理、『ダイの大冒険』のヒュンケル、梶さんなんだよ」
「ああ、知ってる。梶裕貴な。けっこう低めの声だったから驚いた」
「だよねー、あんな声も出せたんだよ」
「俺はやっぱ梶裕貴と言ったら『進撃の巨人』のエレンだな」
「『俺は巨人を…、駆逐するっ!』ってね。あはは」
先生の視線が、どこかおかしい。後ろから真美のゲーム画面を見ているはずだけど、どっか視点がずれている。先生、画面を見てない。濃紺のダブルボタンブレザーに青と緑の斜め縞のネクタイをしめた制服姿の真美の…、真美のうなじを見てる?その私の憶測を裏付けるように、先生が真美にこう言った。
「そう言えば真美、髪、切ってきたのか?後ろが揃ってるぞ」
そう言われた真美は、画面から目を離さずに応える。
「えー、わかっちゃったぁ?」
息を継ぐ真美の肩が、呼吸につれてすっと上がる。
「真美ねー、昨日美容室行ってきたんだよ。でも伸ばしてる最中だから、切るのほんの一センチだったんだけどさぁ」
そんな…。先生、一センチ切っただけの真美の髪分かっちゃうなんて、よっぽど真美のこと見てるんだね。
嫌だよ論理先生、髪を見るなら私の髪を見てよ…。私は二人のことを見ていられなくなって、思わず目をそらす。するとまた智世と目があった。いつも通りの無表情さで、智世は私を見つめていた。

あまり遅くなるのもと思ったけど、智世が寂しそうだったから、私たちは結局九時近くまで智世の家にいた。ようやくお暇して、先生の車までやってくる。
「楽しかったね文香。お茶おいしかった」
「う、うん…」
私の腕にポンと触れた真美が、明るい口調でそう話しかけてくれる。でも、私はさっきの髪のことが気になって、真美の目をまともに見られない。
「よし、帰るか。二人とも乗れよ」
論理先生に促され、車に乗ろうとする。ふと考える。ここは真美と二人で後部座席に座るのが自然だよね。だけど…。触られた太ももが疼く。またあの熱い手で触られたい。ひょっとして論理先生、私の太ももに触ってくれたら、その勢いで私のこと見てくれるようになるかもしれない。よし…。私はぎゅっと奥歯を噛みしめて、左前のドアに手をかけた。勇気を、ください!私はドアを開けると、助手席にゆっくりと座った。
「よしよし、乗ったな。文香、シートベルト締めろよ」
論理先生は、私が助手席に乗ったことを、別段気に止めていないようだった。熱い手が私の太ももに触れ、車が発進する。触られたところがカッカする。触られたところだけじゃない。私の身体全体も、気持ちも、赤く火照っている。
「論理、宮野真守さんのベストアルバムって聴いたことある?」
「宮野真守か。歌は聴いたことないな。『文豪ストレイドッグス』の太宰治役だったか?」
「おぉ、そうそう。論理渋いところ知ってるねー」
そんな私に構わず、相変わらず声優さん?の話で盛り上がる二人。コミュ障な私だけど、たとえコミュ障じゃなくても、この中に入れと言うほうが無理な相談だろう。車は真美の道案内を受けながらスムーズに走り、やがて真美の家の前に着く。
「そんじゃね論理っ。また明日」
「おぅ、早く寝ろよ」
「文香もおやすみっ」
「う、うん…」
声になるかならないかという程度の声音で、私はやっと真美に返事をする。相変わらず目を合わせられない。やがて論理先生の手がまた私の太ももに触れて、車は動き出した。
「じゃあ俺の家のほうに向かうぞ」
「は、はい…」
先生のパジェロミニが滑らかに走る。その中、先生と二人きり。お互いの距離は十センチ。先生の呼吸まで聞こえてくる。さっきから身体が熱い。言葉が出てこない。嫌だよ私、何か言わなきゃ。黙ってたらヘンな子だって先生に思われちゃうよ。
「ぁ、あの!」
「ん?どうした文香」
先生が穏やかに答えてくれる。何を言おう…。やっぱり今、いちばん気になっていることかな。でもストレートには言えない。
「真美…、かわいいですよね」
「ああ。文香も智世も真美もかわいい。みんな俺の大事な生徒だ」
先生!「文香も」って、私を最初に挙げてくれた。嬉しい…。でも、文香も智世も真美もって、三人平等なのが寂しかった。
「先生は、その…、色が白くて、ふっくらしてて、ぽちゃっとした子が、えと…、好み、なんでしょう?」
「そうだな。付き合うなら、そういう人がいい」
ハンドルを握りしめ、前を向いたまま、先生はそう応えた。先生、だから今日、真美のこと見てて、ちょっと切っただけの髪にも気づいたの?
「真美…、そんな感じ…ですよね」
「そうだな、言われてみれば」
道のカーブに合わせ、論理先生は緩やかにハンドルを切る。
「あれで髪が真っ黒で、短めのおかっぱだったら、俺の好み通りかもしれん」
「先生…」
切なくなって、私は押し黙った。じゃあ先生、もし真美が髪を染めて、あのセミロングをバッサリおかっぱにしてきたら、好きになっちゃうの?
「真美のこと…、気になりますか」
「いや」
いや、までの間に、一瞬間があったような気がした。でも先生は、きっぱりとこう言う。
「生徒をそういう目で、見たことはない」
そういう目で見たことはない、か…。それは、真美をそういう目で見ないということでもあるし、私をそういう目で見ないということでもあるよね。なんか、ホッとしたような、がっかりしたような…。
「文香はどうなんだ。今気になる人でもいるのか」
「え…。わ、私、ですか…」
「ああ。いるんなら、相談に乗ってやるぞ」
運転する先生の横顔が、にこやかに微笑んでいる。
「い…、います…」
「ほう。誰だ。クラスのやつか」
論理先生です!…と、言えるはずもなく。
「な、内緒…です…」
「ははは。そうか内緒か」
小さな車内に、先生の笑い声が響いた。
「片想いか。それとも両想いになれそうか」
私はうつむいた。そう言われれば、こう答えるしかない。
「片想い…です。両想いには…、たぶん、なれません…」
「そうか?そうと決まったわけじゃないだろう」
先生は無邪気だった。良くも悪くも。
「いいか文香。人間は超能力者じゃない。人の気持ちを感じ取る能力はないんだ。黙っていたら、文香の気持ちは、ほぼ永遠に相手の知るところにはならないぞ。勇気を持て」
遥みたいなことを、当の論理先生から言われる。先生…。「生徒をそういう目で見たことはない」って言っておきながら、よくそんなこと言うよ。
「自慢にもならんが、俺はこれまで二十一人の人を好きになって、それらすべての人に告白して、すべての人に振られてきた」
先生ったら、そんな恋愛遍歴なの。二十一人だなんて、振られすぎだよ。やっぱりそのおかっぱ頭のせい?
「でもな文香。結果こそ残念なものだが、俺はこれでいいと思っている。押し隠したままでいる恋よりも、堂々と想いを告げて散る恋のほうが、ずっと素晴らしいと思うぞ」
想いを告げて散る恋か…。確かにそのほうが、想いが届かなくても後悔しないとは思う。でも、そんな積極的な姿勢なんて、私、到底ダメだ。こうして胸の奥に秘めているだけで、精一杯だよ。だけど…、だけどいつの日か、私が今のようなコミュ障じゃなくなって、遥や真美みたいに前向きな女の子になれたら、その時にきっと、私は…。

この日の夜。自宅。帰ってきたのは十時近くだった。両親の寝室をのぞいてみると、中から母親のいびきが聞こえてくる。先に寝たようだ。私は自室で制服を脱いだ後、お風呂に入ろうと、脱衣室に来た。裸になり、身体を鏡に映してみる。
「……………」
私の身長は百五十八センチ、体重は四十五キロだ。胸はDカップ。太り過ぎず、痩せ過ぎてもいない、バランスの取れた身体だと思っている。でも…。「色白」「ふっくら」「ぽちゃぽちゃ」という論理先生のキーワードが思い浮かぶ。色こそ私は白いほうだ。この黒髪がよく映える肌をしている自信がある。でも、胸こそあるけどあまりふっくらとはしていない。ぽちゃぽちゃでもない。その点では真美に先を越されている。真美は、私と身長は変わらない。ということは、体重はどれくらいあるんだろう。ぽちゃぽちゃか…。BMIで言ったら二十五くらいかな。身長百五十八でBMI二十五って、体重どれくらいだろう…。気になる。私は裸のまま脱衣室を出て、自分の部屋に戻った。計算機を取り出す。
「えーと、BMI=体重÷身長の二乗だから…、二十五に一・五八の二乗を掛ければいいんだよね…」
計算機のボタンを押す。
「六十二・四一…。うわぁ、そんなにあるの」
素っ裸のまま私は立ちすくんだ。六十二キロと言ったら、あと十七キロも太らないといけない。でも真美、きっとそれくらいあるよね。そして論理先生、ふっくらぽちゃぽちゃが好きなんだよね。
「よし。太るぞ」
私はお風呂に戻って、手早く髪と身体を洗った。そして湯上がりの熱さも冷めないうちに台所に行き、炊飯器に残っているご飯のありったけをおにぎりにした。大きなおにぎりが四個もできた。さっそく口をつける。夕食が食べられなくてお腹は空いていたけれど、それでも二個も食べるとお腹がいっぱいになってくる。
「がんばらなきゃ…」
ゲップが出てくるのも構わずに、私は残り二個を無理やり胃に押し込む。お水で口をゆすぐと、私はすぐに体重計に乗った。表示は四十六・一キロ。
「やった!」
一キロ増えてる。私は小躍りした。論理先生…。体重増やすの、ちょっと抵抗あるけど、でも…、太るから真美じゃなくて私を見て。ご飯も甘いものも脂っこいものも、いっぱい食べるから。

部屋に戻って髪を乾かす。私の髪は長さも長さだけれど、量も多いから、乾かすのも一苦労だ。でも、乾き上がると、もとの艶やかなサラサラヘアが戻ってくる。私は、その髪を手に取った。部屋の明かりを反射して、艶やかに煌めいている。
「先生…。それでもおかっぱのほうが、いいの?」
髪を取った手を握りしめる。いろんな人に褒めてもらえるこの髪。でも…、やっぱり本当に褒めてほしい人は、ただ一人だ。その人に、振り向いてほしい。その人に、認められたい。そんな思いがうずくまって、胸が苦しい。切ない…。私はしばらく、ベッドの上で悶々とする。この気持ち、誰かに聞いてほしい。そうだ、遥!まだ起きてるよね。私はスマホを取り出した。コール一回もしないうちに出てくれる。
『はろはろ文香~』
いつもながらの甲高いソプラノ。その声にホッとする。と同時に、涙がぽろっとこぼれてきた。
「遥…。ぐずっ…」
『おん?どうした文香?』
私は鼻水をすすり上げる。
「ぐずっ…。遥、切ないよ…」
『切ない?論理のことか』
「うん…」
『何かあったのか。話してみろ』
私は、垂れてくる鼻をすすりながら、今日のことを遥に聞かせた。
『うーん、一センチ切っただけの髪に気づいたのかぁ…。論理も目ざてぇな。ウチの秀馬なんて、あたしが毛先五センチ切っても気づかねぇのに』
「でしょう?論理先生、やっぱり真美のこと見てるよね…」
『論理が真美を、ねぇ。確かに真美のやつ色白だし、ぽちゃっとしてるよな。でも黒髪おかっぱじゃねぇぜ』
「そう。それだけが救いだよ。だけど…、もし真美が髪染めて切ったら、そのときは…」
不安が込み上げてきた。膝の上の拳をぎゅっと握る。そんな私に、遥が優しく声をかけてくれた。
『まあそう心配するな。まだ論理の気持ちも真美の気持ちも、はっきりしているわけじゃねぇだろ。文香の思い過ごしという可能性もある』
「だといいけど…」
『それにさぁ』
と言って遥は「はあああっ」と深く息を継いだ。
『論理が、仮にさ…、仮にだぞ、真美に熱を上げてたとしても、真美にその気がなくちゃしょうがない』
「その気がない?真美に?」
思わず身を乗り出してしまう私。
『真美の話すこと思い返してみろよ。見事にアニメとゲームと声優の話ばっかだぜ。男の『お』の字も出てこねぇ。ありゃ正真正銘のオタだ』
確かに真美の口からは、私にはわけのわからない、そっち関係の話しか出てこない。真美は男の子に全然興味がないんだろうか。遠足のときも「私にはアニメとゲームと声優さんがあればいい」って言っていたし。先生は、そうと知ったら、真美を諦めて、私を見てくれるんだろうか。
『だからさ文香、真美も気になるだろうけど、その前に文香自身を磨け。論理好みに近づくんだ。そんでもって告れ。当の論理自身が言ってたんだろ、人は超能力者じゃねぇって』
告る?だからそんなの無理だって…。だけど、「論理好みに近づく」か。まずはそこからだよね。私、一生懸命太るし、髪だって、いつか…。
「ねえ遥。前に『文香におかっぱ似合うかも』って言ってたよね」
『お!ついにイメチェンする気になったか?』
「あぅ…。そ、そうは言っても…」
いざとなると、とても勇気が出ない。魅力のない私に、唯一残されたこの髪だ。切ったら二度と取り返しがつかない。
『なんだ。踏ん切れねぇか』
「何年もかかって、ここまで伸ばしたんだもん…」
『だよなぁ』
遥は、何か考えるようにしばし沈黙する。
『じゃあさあ文香、髪、ちょっと揃えてみたらどうだ。たとえおかっぱにはできなくても、おかっぱ風に毛先を厚くするとかならできるぞ。前髪も文香今伸びっぱだろ、眉上でぱつーんと揃えるとかわいいと思う』
そっか。そうしてみてもいいな。いわゆる「おかっぱロング」ってやつ。前髪、眉上にするなら四センチは切る。顔つき変わるかも。そんでもって、論理先生に見てもらえるかも。
「あ、それいいね。わかった、今度切ってくる」
『がんばれ。論理に振り向いてもらうためだ。あたしも応援してるぞ』
「ありがとう遥」
遥に応援してもらえて、私の胸の中に温かさが戻る。とにかく私、論理先生のために今できることをしよう。そうだ、勉強。古文やらなきゃ。私は机に向かって、遅くまで古文の勉強をした。その合い間にツイッターを書く。
『一センチ切っただけのM美の髪にあの人が気づいた。そんな風に見ることはないって言うあの人だけど、不安だよぉ。いいんだ、私だってあの人の好みに近づくもん。手始めに毛先を揃えてくる』

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