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第五章 マヌケは誰だ?
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自動ドアが開いて外へでた瞬間、セミの合唱と熱い空気に包まれる。霧崎は脱いだ背広を右手にひっかけ、ワイシャツの袖を捲り上げていた。こうしておけば、他の武器を持っていないことがわかるだろう。
ナナシが、女の子の手を離れて歩み寄ってきた。茂みから、屋根の上から、駐輪場の影から、色も大きさも様々なネコが静かに姿を現した。ザッと二十匹はいるだろうか。ツンと獣の匂いがした。
「ふえ……」
異様な雰囲気に驚いて、女の子が深く息を吸った。
(あの子、将来ネコ嫌いにならないといいんだが)
女の子の目には見る見る涙が溜まっていった。
「うわああん!」
それを合図に、ネコが一斉に襲い掛かってきた。まるで霧崎に無数のボールが投げつけられたように。
霧崎は、右手に隠していたライターをすった。ガスの量を最大にした火は、意外なほど高く上がった。背広と、その下に隠してあった雑誌に燃え移る。
霧崎に喰いつこうとしていたネコたちは急ブレーキをかけた。
「ま、十秒で考えたにしちゃそこそこな案だろ?」
ヤケドしないうちに背広と雑誌を振り落として、霧崎は駆け出した。
「何をやってるんでやんす! 追うんでやんすよ!」
ブービーの声が後ろから聞こえたけれど、振り返る余裕はない。そして、それに「ニャア!」と答える声。
どうやらしゃべるネコはそう何匹もいないらしい。そしてそいつらが他のしゃべれないたくさんのネコを率いているのだ。
一匹が霧崎の背中に飛びついた。
「あだだだだ!」
振り落としながら霧崎はゾッとした。考えてみれば、ノラネコだって立派な野生動物だ。本気になって首やら手首やらの太い血管をかじられたらこっちは間違いなく死ぬ。
霧崎は図書館の窓に駆け寄った。大きなガラスの向こう側に、自分のバッグが見えた。窓を開こうとしたが、カギがかかって開かない。
フッと頭に風圧を感じて、霧崎は身をかがめた。霧崎の頭を引っかくはずだった黒猫の爪が窓ガラスをとらえた。
「ぐっはあ!」
イヤな音に精神的ダメージを受けながら、霧崎は窓を蹴破った。
クーラーの効いた冷たい空気が流れ出る。読書の途中だった人達が悲鳴を上げた。
「失礼!」
霧崎はバッグからトンファーを引き出した。手になじんだ感触に、ちょっとホッとする。
ネコたちが、枠だけになった窓から図書館に入り込んできた。スキをうかがうようにゆっくりと霧崎の周りを歩き回った。
「なるほど。こんなふうにしてミズキの友達は襲われたのか」
「当然の報いでやんすよ」
灰色の毛皮に金色の目を持つネコが、ブシュっと鼻を鳴らした。飼い猫らしく、迷彩ガラの首輪をつけていた。
「その声、お前がブービーだな」
「御名答」
客達がざわついた。
「今、ネコが……」
「まさか、腹話術だろう?」
霧崎が思わず「違う!」と突っ込みをいれたくなった。何が悲しゅうて大量のネコに囲まれてまで裏声使って一人芝居をしないといけないのか。
「ユキ姫の右耳…… なんでちぎれたんだと思いやす? さっきからアンタが同情してる田中君とやらがやったんでさあ。改造したおもちゃの銃でね。S&W社M29、6.5インチモデル」
自分が大きく目を見開いたのが、鏡を見ないでもわかった。
「アイツは幸せに暮らしていると思っていた。自由になって」
「それはそっちの勝手な思い込みでやんす」
「自分を傷つけたミズキのクラスメイト、自分を捨てた俺。二人への復讐がユキの目的か」
「その通り」
「ああ、どうせ捨てた者に復讐されるなら、ネコじゃなくてきれいな女性にされたかった。心当たりはないけれど。そうすれば、男冥利に尽きたのに」
「ヒャッヒャッヒャ。くだらない事を」
ブービーが長い尻尾を優雅に振った。まるで罪人に死刑を命じる王族のように。
一抱えはありそうな、大きなネコが床を蹴る。霧崎はトンファーを握り締めた。目を細めて攻撃目標を見定める。殴るべき的、痛めつけるべき場所。あったかそうなふっわふわのおナカ。
「って、できるか~!」
思わず止めたトンファーを踏み台に、ネコが霧崎の頭にとびついた。
「いってぇ!」
慌てて頭に食い込む爪を引っぺがす。霧崎は、とんでもないことに気づいた。
(こっちは、攻撃できない……)
ミズキが聞いたら『さんざん私そっくりのバケモノは殴っておいて、ネコはダメなのかい!』と文句を言いそうだが、出来ない物は仕方ない。
明らかに魔術で造られていたニセミズキはともかく、このネコたちはブービーに命令されているだけの、正真正銘罪のないタダのネコなのだ。にゃんこ中毒者じゃなくてもぶん殴っていい物ではない。
(そういえば、なんかの格ゲーで、バグって敵に全然ダメージ喰らわせられなくなった事があったな。しょうがなくずっとガードしてたんだが、結局チビチビ削り殺されて……)
結果、どうなったか詳しく思い出したくなくてぶんぶん首を振る。
(でもあんとき、現実だったらさぞ辛いだろう、って思ったよ。だって、それってなぶり殺…… やめろ俺!)
もう一度強く首を振ると、さっきかじられた頭からスッと血が垂れてきた。皮膚が薄い分、頭というのは結構出血するのだ。目に入らないよう、霧崎は額をぬぐった。
勢いよく吹き出る蒸気のような唸り声をあげ、真っ白なネコが襲い掛かってきた。霧崎はゆっくりとトンファーを持つ腕を伸ばした。
殴られるというよりは押し返されて、ネコは宙を舞うとヒラッと地面に着地した。霧崎は手加減がうまくいって殺さずにすんだことにほっとする。
瞬間、右手に痛みが走る。肘の裏に、三本の細い引っかき傷ができていた。
「ああ、くそ!」
立ち止まったら集中攻撃を受ける。霧崎は窓から外へ飛び出して走り始めた。その後をネコが追いかけてくる。
「少しずつ、少しずつ」
いつの間にか並んで走っていたブービーが囁いた。
「じわじわと体力と肉を削り取って差し上げます。エモノをいたぶるのは誇り高いネコのたしなみですから」
ネコを引き連れて走る霧崎は、通りすがりの人達の注目を浴びるハメになった。
「ねえ、お母さん」
小さい女の子が母親の服の裾を引っ張った。けれど若い母親はメールに夢中で顔を上げもしない。
「お兄さんがネコちゃんに追いかけられてるよ~」
「何バカなこといってるのよ。嘘ついちゃダメって言ってるでしょ」
「嘘じゃないもん!」
(お嬢さん、君の言い分は正しい)
もし将来、自分に子供ができたとして、そいつが『ピンクのゾウさんがお空を飛んでる』と言ってきたら一応空を確認しておこうと霧崎は心に誓った。
「な~、な~、な~」
ネコ達は、低く不吉な声で鳴き交わした。たぶん霧崎がどの方向に向かっているか、情報を交換しているのだろう。
壁から三匹、ネコの影が降ってきた。一匹、二匹目を振り払う。三匹目がワイシャツを切り裂いて背中に血の筋を描いた。
「大体、人間は勝手なんでやんすよ! あっしら動物を捕らえたと思ったら捨てる! いじめる!」
「……」
「好物にこっそり治療薬を混ぜる! エサを投げるふりしてこっちをツッてピクッっとさせる!」
「前者二つは心底すまないが、後半は大目にみてくれないか。ってか、お前の飼い主、いい奴だな」
「否、否、否。あっしは人間どもに宣戦布告をするつもりでやんす」
ネコ達の声が重なり合って、得体のしれない大きな獣の咆哮に聞こえた。
「ユキ姫は、アンタと田中君二人だけを懲らしめればいいと思っていやすが、あっしは違いやす。この世界を、人間の手からネコの肉球の中に!」
「イマイチ取りこぼしそうだな、世界。ってか、お前個人の目標は復讐じゃなくて世界征服の野望か」
霧崎達は、いつの間にか大きな通りに出ていた。車道を右手に、霧崎は細い歩道を歩いた。疾走するネコの大群に、中古ゲーム屋の前で自転車を整理していたおじさんがポカンと口を開けていた。
新しいネコが、物置小屋の影から飛び出てきて行く手を遮る。ネコ達は機械のような正確さで霧崎を取り囲んだ。
猫の円の真中で、霧崎は焦った。あんまりいい状況じゃない。暑さと運動でびっしょりの背中に、さらに冷や汗がプラスされた。ネコだって、これだけたくさん集まれば結構重みになるだろう。いっぺんに体中にしがみつかれたら動けなくなる。後はブービーが首筋に喰らいつけばいい。
「行け!」
ブービーの命令に、ネコ達は一気に輪を縮めた。
霧崎はトンファーを一本縦に落とした。一瞬地面に立ったトンファーに足を引っ掛けた。そこを支点に、霧崎はバク転をして包囲を飛び越えた。
目標を見失ったネコが、ちょうど霧崎の首の高さで空中衝突した。
霧崎は、縁石の上に爪先をつける。『どうだ、ちょっとしたものだろ?』の視線をブービーにむけた。
ブービーは、笑っていた。
「計画通りでやんす」
え、と思った瞬間、小さな影がすぐ下を走った。攻撃に加わらず、待機していた奴がいたのだ。
クリーム色のそのネコは、霧崎の額を蹴りつける。着地したばかりで体勢が整い切っていない霧崎は、後ろの車道へグラッと傾いた。霧崎は空気にしがみつこうと、ワタワタと無意味に手を動かした。
タイヤがアスファルトを駆ける音。青いトラックが、ナンバーの横の塗料のハゲが分かるくらいの距離にまで近づいてくる。
おまけに、ドライバーは歩道に群がっている猫に気を取られていて、自分が運転している車の前に倒れこもうとしている霧崎に気づいていない。このままのスピードでひかれたら命がない。
霧崎は、残っていたトンファーを投げた。くもの巣状のヒビがフロントガラスに張り巡らされる。
「うわ!」
ドライバーの悲鳴。魂まで一緒に削られそうなブレーキ音。焼けたゴムの匂い。
それでもトラックはすぐに止まり切れずに霧崎の体をひっかけた。
クルッとブレイクダンスさながらの回転を決め、霧崎は歩道に倒れた。
「気をつけろ、バカ野郎!」
ドライバーはいろいろと面倒なことに関わりたくなかったのだろう。フロントガラスを割ったことを怒りもしなければ、その代わり人を引っ掛けたことを謝りもしないで走り去って行った。
霧崎は生まれたての小牛の気分を味わいながらふらふらと起き上がった。
「おや、しぶといでやんすね。まだ生きてるでやんすか」
入れる端から力が抜けていく足を何とか動かして、霧崎はコンビニの自動ドアをくぐった。雑誌売り場の隅にネジが切れたように座り込んだ。
冷房で汗が冷えて、熱があるように寒気がする。息が切れて、肺が痛い。トラックに当てられた肩が、しびれる。でも、まだ感覚が残っているだけマシか。筋は繋がっているらしく、指もきちんと動いた。
「最後に、何か言い残すことは?」
ブービーは体を伸ばして霧崎の顔を覗き込んできた。後ろには手下がぞろぞろ控えている。
「そうだな」
かすれた声で霧崎は言った。
「じゃあ、マンションの管理人さんに……」
「また微妙な所に来たでやんすね。家族とか、恋人に言うことはないんでやんすか」
「こ、恋人は募集中だ。こんな仕事をしているとなかなか」
「へえ、ほう、ふ~ん。本当に仕事のせいならいいでやんすけどね」
「仕舞いにゃ泣くぞ。とにかく管理人さんに、押入れの中の掃除機、生きたままゴキブリ吸い込んだはいい物の、パックを取り出すのが恐くてそのまんまなんでよろしくと。なんか、今だにカサカサ……」
「それぐらい自分で処理しないとダメでやんしょ! 男なんでやんすから!」
「男だってイヤなもんはイヤなんだ! ついでにもう一つ。テレビの横にあるタンス。下から二段目は、決して、絶対、間違っても開けたりしないで、そのまま火を放って欲しい。もしアレが解き放たれたら、この世は……」
「何が入ってるんでやんすか何が! つくづく人に迷惑をかけないと生きていけない奴でやんすね!」
「それが人間という奴だ」
「そんな言葉で格好つけてるつもりでやんすか、まったく。そんな事伝えるのイヤでやんすよ」
「しょうがない。自分でなんとかすることにしよう!」
霧崎は、背中に隠していたとっておきの武器を取り出した。このコンビニ備え付けつけの消火器。
薄いピンク色の煙が、忍者の煙幕のように広がった。
「二ギャアア!」
驚いたネコが、スーパーボールかピンポン球のように店中を飛び回った。スナック菓子やらカップラーメンやらがボトボト落ちる。
「ちょ、ちょっと、お客さん!」
今までボーゼンとしていた店員さんが始めて非難の声を上げた。
「お、おのれ。コシャクなマネを! こんな事なら遊んでないでとっとと片づければよかったでやんす!」
「本当にな」
霧崎がブービーの首の後ろをつかんで持ち上げた。
「形勢逆転。色々吐いてもらおうか」
某テレビ雑誌の表紙のように、片手に持ったレモンをブービーに突きつける。
「図書館でコンビニの場所を調べておいてよかったぜ。そこの棚から取ってきた。ネコは柑橘《かんきつ》系の匂いが嫌いだからな。みかんとかオレンジとか」
ブービーは悔しそうに歯をむき出した。
「そんなに威嚇するなよブービー。色々教えてもらおうか。まずは……」
「こうなったら大人しくするしかありやせんがね。おしゃべりするのは場所を代えた方がいいんじゃありやせんか?」
遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
「いい隠れ場所を知ってやす。案内しやすから。それに、見せたい物もありやすし」
「……わかった」
レモンを放さないように注意しながら、霧崎はポケットから一万円札を数枚取り出した。
「はいよ、騒がして悪かったな。レモン代と店の掃除代だ」
店員さんは差し出されたお金を手にして、しばらくボーッとしていた。
霧崎が案内されたのは、一見の空家だった。
「さあ、ついたでやんすよ」
「よ、ようやく……?」
片手でブービーを抱えたまま、霧崎は近くの壁に寄りかかってゼーゼーと荒い息をした。
「情けないでやんすね。そんなにへばってるなんて」
「あのな。人間はネコみたいに身軽にできてないの。壁の穴をくぐって人んちの庭を突っ切れとか、屋根の上歩けとか、なんだその道案内。おまけに細い河に刺さってる杭を跳び石代わりに向こう岸に渡れ? テレビで無事成功したら百万円もらえるわ」
もちろんそんなことを全身ボロボロの霧崎ができるはずもなく。彼は目的地までひどく大回りすることになった。
「おまけに逃亡防止にずっとあんたを抱いたままだったぞ。いい大人の男が、どれだけネコ好きなんだよ」
このブービー、結構重い。散々走り回ってトラックにひかれかけた挙句にオモリを持ってウロウロしたのだ。疲れないほうがどうかしている。
「にしても、不気味な所だな。まるでリアルオバケ屋敷だ」
その家は建ってから二十年は経っているに違いない。壁はツタだらけで、窓には
内側から板が貼り付けられていた。
玄関にはカギがかかっていたが、ブービーが命じると中にいたネコが開けてくれた。(簡単なタイプのカギだったからネコの手でも開けやすかったのだろう)
「まっすぐ行くと階段があるから、二階へ上がってくだせえ」
「待ってろ。暗くてダメだ」
ブービーを落とさないように気をつけながら、霧崎は携帯を取り出した。折り畳みを開いてライト代わりにする。空気中に漂うホコリがキラキラダイヤモンドダストのようにきらめいた。
きしむ階段を上がって、霧崎はブービーの案内に従って二階の小さな部屋へ入って行った。家具はそのまま残されていて、このクソ暑いのにコタツが部屋の隅にでんと置かれている。今では絶滅した、チャンネルを変えるダイヤルがついたテレビの上には、ちょこんとこけしが乗っている。その隣でネコが一匹、目を光らせてこっちを見ていた。他にも光る目が影に隠れている。
「念のために言っておくが、ブービー。俺が手下に襲われたら、あんたも無事ではいられないからな」
「わかってやんすよ」
霧崎につかまれたまま、ブービーは不機嫌そうに鼻をならした。
「よくもまあ、こんな所を見つけたものだよ。隠れるのにぴったりだ」
「空気が湿ってるのが難点でやんすがね。あと、夜な夜なあそこの押入れの中からすすり泣きが……」
「あー、あー、聞きたくない、聞きたくない。お前らだけで手一杯なんだ。女か子供か知らないが、これ以上仕事増やされてたまるか」
「女? 子供? 何を言ってるんでやんすか? 聞こえてくるのは野太い男の声でやんすが」
「ジャマしたな。俺はもう行く。マッチョ野郎の世話なんて、ヒマな時でもしたくない」
「おや、それは残念。あんたが祓ってくれれば、夜も静かに安眠できると思ったのに」
「一日の大半眠ってるお気楽な生き物が、夜少し眠れないぐらいでガタガタ騒ぐな」
「夜はあっし達、神社で寝ることにしてるんでさあ。この時期、蚊さえガマンすれば夜の外は涼しいっすから。はい、座布団どーぞ」
といっても、ホコリで四角いきなこ餅みたいになった座布団に腰を下ろす気分にはなれず、霧崎は不良のようにしゃがみこむだけにした。
「そうそう。ユキ姫とあっしがあの人形女とであったのも、神社でやんした」
「人形女? ニセミズキのことか」
「あの呪われた女がミズキという名前なら、そうでやんす」
ブービーは、自分とユキが見たちょっとした怪奇現象を霧崎に教えた。呪いのわら人形がニセミズキになったことを。
「姫は、酷く関心をもたれたでやんす。いくら憎んでいるとはいえ、あの髪の長い女が親友のミズキを呪い殺すことができるのか、見届けてやろうと」
「ユキ……」
なんだか、霧崎にはユキの気持ちが分かる気がした。霧崎に裏切られたユキは、人間の心がどういうものか、分からなくなってしまったのだ。だから、試そうとしている。人間の良心を。
「ニセミズキは、神社の境内に隠れているはずでやんす」
「本当か?」
「ええ、下っ端どもが噂してやしたからねえ。ユキ姫は、あっしにアンタを使って本物のミズキを神社におびき寄せるように命じやして」
「は? 俺を使って? なめられたもんだな。この俺が、お前ごときにノコノコ従うとでも? それとも脅して無理にいう事を聞かせるつもりだったのか?」
「まさか。そんな手間のかかった事、あっしにはする根性はありやせんよ。そうそう、見てもらいたいことがあるって言ったでやんすよね」
ブービーは、「ニャア」と小さく鳴いた。
テレビの上のネコが、こけしにネコパンチを食らわせる。なんの罪もないのにぶんなぐられたかわいそうなこけしは、テレビの上から転がり落ちる。
「おい! 変な合図をしちゃ……」
ふわっと体が浮かんだ感覚で、言葉が途中で立ち消えた。思わず放した手から、ブービーが抜け出してひらりと畳に着地した。
霧崎の座っている場所、布団一枚分の畳がぱっくり割れていた。重力の法則には逆らえず、彼は闇の中へ落ちていく。その瞬間、視界の真上に消えたこけしの胴体に紐がついているのがチラリと見えた。
「トラップ!」
ようやくその時、霧崎は気がついた。
思わずいじりたくなる物に仕掛けられた爆弾。地面に埋められた地雷。そんな物をブービートラップ(マヌケがかかる罠)と呼ぶ事を。
霧崎の体は、一階の硬い板に叩きつけられた。痛みに体を仰け反らせる。背中を強く打ちつけたせいで、強制的に肺の空気が全部口から吐き出された。ぜえっと音を立てて息を吸い込む。
「あっしの飼い主は、軍事マニアでしてねえ。私も一緒に暮らすうち、トラップの造り方を覚えちまったんでさあ。下に竹槍植えないだけ、親切でやんしょ?」
上からブービーの声が降ってくる。そういえば、やたら銃の名前に詳しかった。ユキを撃ったモデルガンを、確かスミス&何とかと言っていたっけ。
「二階の畳は特に傷みが激しくて。ネコの力でも道具をうまく使えばなんとか穴を開けることができやしたよ」
二階から差し込む薄っすらとした光は、落とし穴を通ったせいで歪な四角に見えた。その光から、ブービーの影が飛び降りてきた。
「あんたの携帯はいただきやすよ。ミズキの携帯番号、入ってやすよね。さて、何てあいさつしましょうか。ミズキ嬢に」
耳の中に水が入ったときのように、ブービーの声が頭蓋骨の中で響いた。懐を探られる感覚。
よせ! と叫んだはずなのに、自分の声は寝ぼけたうなり声にしかならなかった。四隅から煙のように闇が押し寄せてくる。
ぬるっとした感覚が頬に触れた。今はよく見えないけど、きっと指先は赤く染まっ他に違いない。
(ああ、乾いた額の傷、開いちまった)
気を失う瞬間、霧崎はそんなことを考えた。
ナナシが、女の子の手を離れて歩み寄ってきた。茂みから、屋根の上から、駐輪場の影から、色も大きさも様々なネコが静かに姿を現した。ザッと二十匹はいるだろうか。ツンと獣の匂いがした。
「ふえ……」
異様な雰囲気に驚いて、女の子が深く息を吸った。
(あの子、将来ネコ嫌いにならないといいんだが)
女の子の目には見る見る涙が溜まっていった。
「うわああん!」
それを合図に、ネコが一斉に襲い掛かってきた。まるで霧崎に無数のボールが投げつけられたように。
霧崎は、右手に隠していたライターをすった。ガスの量を最大にした火は、意外なほど高く上がった。背広と、その下に隠してあった雑誌に燃え移る。
霧崎に喰いつこうとしていたネコたちは急ブレーキをかけた。
「ま、十秒で考えたにしちゃそこそこな案だろ?」
ヤケドしないうちに背広と雑誌を振り落として、霧崎は駆け出した。
「何をやってるんでやんす! 追うんでやんすよ!」
ブービーの声が後ろから聞こえたけれど、振り返る余裕はない。そして、それに「ニャア!」と答える声。
どうやらしゃべるネコはそう何匹もいないらしい。そしてそいつらが他のしゃべれないたくさんのネコを率いているのだ。
一匹が霧崎の背中に飛びついた。
「あだだだだ!」
振り落としながら霧崎はゾッとした。考えてみれば、ノラネコだって立派な野生動物だ。本気になって首やら手首やらの太い血管をかじられたらこっちは間違いなく死ぬ。
霧崎は図書館の窓に駆け寄った。大きなガラスの向こう側に、自分のバッグが見えた。窓を開こうとしたが、カギがかかって開かない。
フッと頭に風圧を感じて、霧崎は身をかがめた。霧崎の頭を引っかくはずだった黒猫の爪が窓ガラスをとらえた。
「ぐっはあ!」
イヤな音に精神的ダメージを受けながら、霧崎は窓を蹴破った。
クーラーの効いた冷たい空気が流れ出る。読書の途中だった人達が悲鳴を上げた。
「失礼!」
霧崎はバッグからトンファーを引き出した。手になじんだ感触に、ちょっとホッとする。
ネコたちが、枠だけになった窓から図書館に入り込んできた。スキをうかがうようにゆっくりと霧崎の周りを歩き回った。
「なるほど。こんなふうにしてミズキの友達は襲われたのか」
「当然の報いでやんすよ」
灰色の毛皮に金色の目を持つネコが、ブシュっと鼻を鳴らした。飼い猫らしく、迷彩ガラの首輪をつけていた。
「その声、お前がブービーだな」
「御名答」
客達がざわついた。
「今、ネコが……」
「まさか、腹話術だろう?」
霧崎が思わず「違う!」と突っ込みをいれたくなった。何が悲しゅうて大量のネコに囲まれてまで裏声使って一人芝居をしないといけないのか。
「ユキ姫の右耳…… なんでちぎれたんだと思いやす? さっきからアンタが同情してる田中君とやらがやったんでさあ。改造したおもちゃの銃でね。S&W社M29、6.5インチモデル」
自分が大きく目を見開いたのが、鏡を見ないでもわかった。
「アイツは幸せに暮らしていると思っていた。自由になって」
「それはそっちの勝手な思い込みでやんす」
「自分を傷つけたミズキのクラスメイト、自分を捨てた俺。二人への復讐がユキの目的か」
「その通り」
「ああ、どうせ捨てた者に復讐されるなら、ネコじゃなくてきれいな女性にされたかった。心当たりはないけれど。そうすれば、男冥利に尽きたのに」
「ヒャッヒャッヒャ。くだらない事を」
ブービーが長い尻尾を優雅に振った。まるで罪人に死刑を命じる王族のように。
一抱えはありそうな、大きなネコが床を蹴る。霧崎はトンファーを握り締めた。目を細めて攻撃目標を見定める。殴るべき的、痛めつけるべき場所。あったかそうなふっわふわのおナカ。
「って、できるか~!」
思わず止めたトンファーを踏み台に、ネコが霧崎の頭にとびついた。
「いってぇ!」
慌てて頭に食い込む爪を引っぺがす。霧崎は、とんでもないことに気づいた。
(こっちは、攻撃できない……)
ミズキが聞いたら『さんざん私そっくりのバケモノは殴っておいて、ネコはダメなのかい!』と文句を言いそうだが、出来ない物は仕方ない。
明らかに魔術で造られていたニセミズキはともかく、このネコたちはブービーに命令されているだけの、正真正銘罪のないタダのネコなのだ。にゃんこ中毒者じゃなくてもぶん殴っていい物ではない。
(そういえば、なんかの格ゲーで、バグって敵に全然ダメージ喰らわせられなくなった事があったな。しょうがなくずっとガードしてたんだが、結局チビチビ削り殺されて……)
結果、どうなったか詳しく思い出したくなくてぶんぶん首を振る。
(でもあんとき、現実だったらさぞ辛いだろう、って思ったよ。だって、それってなぶり殺…… やめろ俺!)
もう一度強く首を振ると、さっきかじられた頭からスッと血が垂れてきた。皮膚が薄い分、頭というのは結構出血するのだ。目に入らないよう、霧崎は額をぬぐった。
勢いよく吹き出る蒸気のような唸り声をあげ、真っ白なネコが襲い掛かってきた。霧崎はゆっくりとトンファーを持つ腕を伸ばした。
殴られるというよりは押し返されて、ネコは宙を舞うとヒラッと地面に着地した。霧崎は手加減がうまくいって殺さずにすんだことにほっとする。
瞬間、右手に痛みが走る。肘の裏に、三本の細い引っかき傷ができていた。
「ああ、くそ!」
立ち止まったら集中攻撃を受ける。霧崎は窓から外へ飛び出して走り始めた。その後をネコが追いかけてくる。
「少しずつ、少しずつ」
いつの間にか並んで走っていたブービーが囁いた。
「じわじわと体力と肉を削り取って差し上げます。エモノをいたぶるのは誇り高いネコのたしなみですから」
ネコを引き連れて走る霧崎は、通りすがりの人達の注目を浴びるハメになった。
「ねえ、お母さん」
小さい女の子が母親の服の裾を引っ張った。けれど若い母親はメールに夢中で顔を上げもしない。
「お兄さんがネコちゃんに追いかけられてるよ~」
「何バカなこといってるのよ。嘘ついちゃダメって言ってるでしょ」
「嘘じゃないもん!」
(お嬢さん、君の言い分は正しい)
もし将来、自分に子供ができたとして、そいつが『ピンクのゾウさんがお空を飛んでる』と言ってきたら一応空を確認しておこうと霧崎は心に誓った。
「な~、な~、な~」
ネコ達は、低く不吉な声で鳴き交わした。たぶん霧崎がどの方向に向かっているか、情報を交換しているのだろう。
壁から三匹、ネコの影が降ってきた。一匹、二匹目を振り払う。三匹目がワイシャツを切り裂いて背中に血の筋を描いた。
「大体、人間は勝手なんでやんすよ! あっしら動物を捕らえたと思ったら捨てる! いじめる!」
「……」
「好物にこっそり治療薬を混ぜる! エサを投げるふりしてこっちをツッてピクッっとさせる!」
「前者二つは心底すまないが、後半は大目にみてくれないか。ってか、お前の飼い主、いい奴だな」
「否、否、否。あっしは人間どもに宣戦布告をするつもりでやんす」
ネコ達の声が重なり合って、得体のしれない大きな獣の咆哮に聞こえた。
「ユキ姫は、アンタと田中君二人だけを懲らしめればいいと思っていやすが、あっしは違いやす。この世界を、人間の手からネコの肉球の中に!」
「イマイチ取りこぼしそうだな、世界。ってか、お前個人の目標は復讐じゃなくて世界征服の野望か」
霧崎達は、いつの間にか大きな通りに出ていた。車道を右手に、霧崎は細い歩道を歩いた。疾走するネコの大群に、中古ゲーム屋の前で自転車を整理していたおじさんがポカンと口を開けていた。
新しいネコが、物置小屋の影から飛び出てきて行く手を遮る。ネコ達は機械のような正確さで霧崎を取り囲んだ。
猫の円の真中で、霧崎は焦った。あんまりいい状況じゃない。暑さと運動でびっしょりの背中に、さらに冷や汗がプラスされた。ネコだって、これだけたくさん集まれば結構重みになるだろう。いっぺんに体中にしがみつかれたら動けなくなる。後はブービーが首筋に喰らいつけばいい。
「行け!」
ブービーの命令に、ネコ達は一気に輪を縮めた。
霧崎はトンファーを一本縦に落とした。一瞬地面に立ったトンファーに足を引っ掛けた。そこを支点に、霧崎はバク転をして包囲を飛び越えた。
目標を見失ったネコが、ちょうど霧崎の首の高さで空中衝突した。
霧崎は、縁石の上に爪先をつける。『どうだ、ちょっとしたものだろ?』の視線をブービーにむけた。
ブービーは、笑っていた。
「計画通りでやんす」
え、と思った瞬間、小さな影がすぐ下を走った。攻撃に加わらず、待機していた奴がいたのだ。
クリーム色のそのネコは、霧崎の額を蹴りつける。着地したばかりで体勢が整い切っていない霧崎は、後ろの車道へグラッと傾いた。霧崎は空気にしがみつこうと、ワタワタと無意味に手を動かした。
タイヤがアスファルトを駆ける音。青いトラックが、ナンバーの横の塗料のハゲが分かるくらいの距離にまで近づいてくる。
おまけに、ドライバーは歩道に群がっている猫に気を取られていて、自分が運転している車の前に倒れこもうとしている霧崎に気づいていない。このままのスピードでひかれたら命がない。
霧崎は、残っていたトンファーを投げた。くもの巣状のヒビがフロントガラスに張り巡らされる。
「うわ!」
ドライバーの悲鳴。魂まで一緒に削られそうなブレーキ音。焼けたゴムの匂い。
それでもトラックはすぐに止まり切れずに霧崎の体をひっかけた。
クルッとブレイクダンスさながらの回転を決め、霧崎は歩道に倒れた。
「気をつけろ、バカ野郎!」
ドライバーはいろいろと面倒なことに関わりたくなかったのだろう。フロントガラスを割ったことを怒りもしなければ、その代わり人を引っ掛けたことを謝りもしないで走り去って行った。
霧崎は生まれたての小牛の気分を味わいながらふらふらと起き上がった。
「おや、しぶといでやんすね。まだ生きてるでやんすか」
入れる端から力が抜けていく足を何とか動かして、霧崎はコンビニの自動ドアをくぐった。雑誌売り場の隅にネジが切れたように座り込んだ。
冷房で汗が冷えて、熱があるように寒気がする。息が切れて、肺が痛い。トラックに当てられた肩が、しびれる。でも、まだ感覚が残っているだけマシか。筋は繋がっているらしく、指もきちんと動いた。
「最後に、何か言い残すことは?」
ブービーは体を伸ばして霧崎の顔を覗き込んできた。後ろには手下がぞろぞろ控えている。
「そうだな」
かすれた声で霧崎は言った。
「じゃあ、マンションの管理人さんに……」
「また微妙な所に来たでやんすね。家族とか、恋人に言うことはないんでやんすか」
「こ、恋人は募集中だ。こんな仕事をしているとなかなか」
「へえ、ほう、ふ~ん。本当に仕事のせいならいいでやんすけどね」
「仕舞いにゃ泣くぞ。とにかく管理人さんに、押入れの中の掃除機、生きたままゴキブリ吸い込んだはいい物の、パックを取り出すのが恐くてそのまんまなんでよろしくと。なんか、今だにカサカサ……」
「それぐらい自分で処理しないとダメでやんしょ! 男なんでやんすから!」
「男だってイヤなもんはイヤなんだ! ついでにもう一つ。テレビの横にあるタンス。下から二段目は、決して、絶対、間違っても開けたりしないで、そのまま火を放って欲しい。もしアレが解き放たれたら、この世は……」
「何が入ってるんでやんすか何が! つくづく人に迷惑をかけないと生きていけない奴でやんすね!」
「それが人間という奴だ」
「そんな言葉で格好つけてるつもりでやんすか、まったく。そんな事伝えるのイヤでやんすよ」
「しょうがない。自分でなんとかすることにしよう!」
霧崎は、背中に隠していたとっておきの武器を取り出した。このコンビニ備え付けつけの消火器。
薄いピンク色の煙が、忍者の煙幕のように広がった。
「二ギャアア!」
驚いたネコが、スーパーボールかピンポン球のように店中を飛び回った。スナック菓子やらカップラーメンやらがボトボト落ちる。
「ちょ、ちょっと、お客さん!」
今までボーゼンとしていた店員さんが始めて非難の声を上げた。
「お、おのれ。コシャクなマネを! こんな事なら遊んでないでとっとと片づければよかったでやんす!」
「本当にな」
霧崎がブービーの首の後ろをつかんで持ち上げた。
「形勢逆転。色々吐いてもらおうか」
某テレビ雑誌の表紙のように、片手に持ったレモンをブービーに突きつける。
「図書館でコンビニの場所を調べておいてよかったぜ。そこの棚から取ってきた。ネコは柑橘《かんきつ》系の匂いが嫌いだからな。みかんとかオレンジとか」
ブービーは悔しそうに歯をむき出した。
「そんなに威嚇するなよブービー。色々教えてもらおうか。まずは……」
「こうなったら大人しくするしかありやせんがね。おしゃべりするのは場所を代えた方がいいんじゃありやせんか?」
遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
「いい隠れ場所を知ってやす。案内しやすから。それに、見せたい物もありやすし」
「……わかった」
レモンを放さないように注意しながら、霧崎はポケットから一万円札を数枚取り出した。
「はいよ、騒がして悪かったな。レモン代と店の掃除代だ」
店員さんは差し出されたお金を手にして、しばらくボーッとしていた。
霧崎が案内されたのは、一見の空家だった。
「さあ、ついたでやんすよ」
「よ、ようやく……?」
片手でブービーを抱えたまま、霧崎は近くの壁に寄りかかってゼーゼーと荒い息をした。
「情けないでやんすね。そんなにへばってるなんて」
「あのな。人間はネコみたいに身軽にできてないの。壁の穴をくぐって人んちの庭を突っ切れとか、屋根の上歩けとか、なんだその道案内。おまけに細い河に刺さってる杭を跳び石代わりに向こう岸に渡れ? テレビで無事成功したら百万円もらえるわ」
もちろんそんなことを全身ボロボロの霧崎ができるはずもなく。彼は目的地までひどく大回りすることになった。
「おまけに逃亡防止にずっとあんたを抱いたままだったぞ。いい大人の男が、どれだけネコ好きなんだよ」
このブービー、結構重い。散々走り回ってトラックにひかれかけた挙句にオモリを持ってウロウロしたのだ。疲れないほうがどうかしている。
「にしても、不気味な所だな。まるでリアルオバケ屋敷だ」
その家は建ってから二十年は経っているに違いない。壁はツタだらけで、窓には
内側から板が貼り付けられていた。
玄関にはカギがかかっていたが、ブービーが命じると中にいたネコが開けてくれた。(簡単なタイプのカギだったからネコの手でも開けやすかったのだろう)
「まっすぐ行くと階段があるから、二階へ上がってくだせえ」
「待ってろ。暗くてダメだ」
ブービーを落とさないように気をつけながら、霧崎は携帯を取り出した。折り畳みを開いてライト代わりにする。空気中に漂うホコリがキラキラダイヤモンドダストのようにきらめいた。
きしむ階段を上がって、霧崎はブービーの案内に従って二階の小さな部屋へ入って行った。家具はそのまま残されていて、このクソ暑いのにコタツが部屋の隅にでんと置かれている。今では絶滅した、チャンネルを変えるダイヤルがついたテレビの上には、ちょこんとこけしが乗っている。その隣でネコが一匹、目を光らせてこっちを見ていた。他にも光る目が影に隠れている。
「念のために言っておくが、ブービー。俺が手下に襲われたら、あんたも無事ではいられないからな」
「わかってやんすよ」
霧崎につかまれたまま、ブービーは不機嫌そうに鼻をならした。
「よくもまあ、こんな所を見つけたものだよ。隠れるのにぴったりだ」
「空気が湿ってるのが難点でやんすがね。あと、夜な夜なあそこの押入れの中からすすり泣きが……」
「あー、あー、聞きたくない、聞きたくない。お前らだけで手一杯なんだ。女か子供か知らないが、これ以上仕事増やされてたまるか」
「女? 子供? 何を言ってるんでやんすか? 聞こえてくるのは野太い男の声でやんすが」
「ジャマしたな。俺はもう行く。マッチョ野郎の世話なんて、ヒマな時でもしたくない」
「おや、それは残念。あんたが祓ってくれれば、夜も静かに安眠できると思ったのに」
「一日の大半眠ってるお気楽な生き物が、夜少し眠れないぐらいでガタガタ騒ぐな」
「夜はあっし達、神社で寝ることにしてるんでさあ。この時期、蚊さえガマンすれば夜の外は涼しいっすから。はい、座布団どーぞ」
といっても、ホコリで四角いきなこ餅みたいになった座布団に腰を下ろす気分にはなれず、霧崎は不良のようにしゃがみこむだけにした。
「そうそう。ユキ姫とあっしがあの人形女とであったのも、神社でやんした」
「人形女? ニセミズキのことか」
「あの呪われた女がミズキという名前なら、そうでやんす」
ブービーは、自分とユキが見たちょっとした怪奇現象を霧崎に教えた。呪いのわら人形がニセミズキになったことを。
「姫は、酷く関心をもたれたでやんす。いくら憎んでいるとはいえ、あの髪の長い女が親友のミズキを呪い殺すことができるのか、見届けてやろうと」
「ユキ……」
なんだか、霧崎にはユキの気持ちが分かる気がした。霧崎に裏切られたユキは、人間の心がどういうものか、分からなくなってしまったのだ。だから、試そうとしている。人間の良心を。
「ニセミズキは、神社の境内に隠れているはずでやんす」
「本当か?」
「ええ、下っ端どもが噂してやしたからねえ。ユキ姫は、あっしにアンタを使って本物のミズキを神社におびき寄せるように命じやして」
「は? 俺を使って? なめられたもんだな。この俺が、お前ごときにノコノコ従うとでも? それとも脅して無理にいう事を聞かせるつもりだったのか?」
「まさか。そんな手間のかかった事、あっしにはする根性はありやせんよ。そうそう、見てもらいたいことがあるって言ったでやんすよね」
ブービーは、「ニャア」と小さく鳴いた。
テレビの上のネコが、こけしにネコパンチを食らわせる。なんの罪もないのにぶんなぐられたかわいそうなこけしは、テレビの上から転がり落ちる。
「おい! 変な合図をしちゃ……」
ふわっと体が浮かんだ感覚で、言葉が途中で立ち消えた。思わず放した手から、ブービーが抜け出してひらりと畳に着地した。
霧崎の座っている場所、布団一枚分の畳がぱっくり割れていた。重力の法則には逆らえず、彼は闇の中へ落ちていく。その瞬間、視界の真上に消えたこけしの胴体に紐がついているのがチラリと見えた。
「トラップ!」
ようやくその時、霧崎は気がついた。
思わずいじりたくなる物に仕掛けられた爆弾。地面に埋められた地雷。そんな物をブービートラップ(マヌケがかかる罠)と呼ぶ事を。
霧崎の体は、一階の硬い板に叩きつけられた。痛みに体を仰け反らせる。背中を強く打ちつけたせいで、強制的に肺の空気が全部口から吐き出された。ぜえっと音を立てて息を吸い込む。
「あっしの飼い主は、軍事マニアでしてねえ。私も一緒に暮らすうち、トラップの造り方を覚えちまったんでさあ。下に竹槍植えないだけ、親切でやんしょ?」
上からブービーの声が降ってくる。そういえば、やたら銃の名前に詳しかった。ユキを撃ったモデルガンを、確かスミス&何とかと言っていたっけ。
「二階の畳は特に傷みが激しくて。ネコの力でも道具をうまく使えばなんとか穴を開けることができやしたよ」
二階から差し込む薄っすらとした光は、落とし穴を通ったせいで歪な四角に見えた。その光から、ブービーの影が飛び降りてきた。
「あんたの携帯はいただきやすよ。ミズキの携帯番号、入ってやすよね。さて、何てあいさつしましょうか。ミズキ嬢に」
耳の中に水が入ったときのように、ブービーの声が頭蓋骨の中で響いた。懐を探られる感覚。
よせ! と叫んだはずなのに、自分の声は寝ぼけたうなり声にしかならなかった。四隅から煙のように闇が押し寄せてくる。
ぬるっとした感覚が頬に触れた。今はよく見えないけど、きっと指先は赤く染まっ他に違いない。
(ああ、乾いた額の傷、開いちまった)
気を失う瞬間、霧崎はそんなことを考えた。
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