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第1話
「三上ィ、これ昨日の討伐報告書。不備があるから突き返してきて」
「……はい」
「あと、資材課からポーションの在庫が合わないってクレーム来てるぞ。確認しとけよ」
「…………はい」
王都ギルド、中央事務局。
ここ数日、家に帰れていない俺、三上薫(みかみ・かおる)の返事は、死んだ魚のような虚無感を帯びていた。
目の前には、積み上げられた書類の塔。
窓の外はとっくに夜の闇に沈んでいる。
カフェインの錠剤で無理やり起こしている脳味噌は、そろそろ限界を訴えていた。
(……帰りたい。風呂に入りたい。泥のように眠りたい)
俺は平凡な事務職員だ。
剣も魔法も使えない。特別な才能なんて何もない。
あるのは、どんな理不尽なクレームも右から左へ受け流すスルースキルと、この無駄に鼻の良い特異体質だけ。
「三上さん、なんか今日……いい匂いしません?」
隣の席の新人女子が、くんくんと鼻を鳴らして俺の方を見た。
「加齢臭だろ」
「違いますよぉ! なんていうか、こう……お花畑? いや、高級な柔軟剤みたいな……心が洗われるような……」
「三徹目の男からそんな匂いがしたら、それは死臭だ。仕事に戻れ」
俺は素っ気なく答えて、再び書類の塔に向き直った。
正直、自分ではよくわからない。
昔から、やたらと動物や子供に懐かれることはあったが、ただの「体臭」だ。
今はそんなことより、一刻も早くこの書類を片付けなければ――。
ドォォォォォンッ!!
その時、ギルドの正面入り口が爆発したかのような轟音と共に吹き飛んだ。
「な、なんだ!?」
「敵襲か!?」
静まり返っていたロビーが一瞬でパニックに陥る。
舞い上がる土煙の向こうから、一人の男がゆらりと姿を現した。
巨躯だ。
身長は二メートル近いだろうか。
歴戦の傷跡が刻まれた重厚な鎧。
そして、その身体から立ち昇る、禍々しいほどの魔力の奔流。
「ガ、ガルド様だ……! S級探索者のガルド・ベルンシュタインだ!」
「おい、様子がおかしいぞ!?」
誰かの叫び声に、俺は息を呑んだ。
ガルド・ベルンシュタイン。
この国で知らぬ者はいない、生ける伝説。「剣聖」にして「魔導王」。
だが今の彼は、英雄というよりは……手負いの獣だった。
「……ぁぁ……ぐ……」
ガルドは頭を抱え、苦悶の声を漏らしている。
焦点の定まらない瞳は充血し、血走っていた。
全身の筋肉が痙攣し、彼が床を踏みしめるたびに、御影石のタイルが粉々に砕け散る。
魔力中毒。
高濃度の魔素を浴び続けた探索者が陥る、末期の症状だ。
理性を失い、破壊衝動のままに暴れ回る。
「……臭い……」
ガルドが低く唸った。
「どいつもこいつも……腐った魔物の臭いがしやがる……! 消えろ……消えてくれぇぇ!!」
ドォンッ!
ガルドが腕を振るっただけで、衝撃波が走り、受付カウンターが真っ二つに裂けた。
「ひぃぃぃっ!!」
「逃げろ! 殺されるぞ!!」
職員たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
だが、俺の目の前にいた新人の女の子が、腰を抜かしてへたり込んでしまった。
「あ、あ……」
ガルドの虚ろな目が、彼女を捉える。
まずい。
俺の脳が判断するより先に、身体が勝手に動いていた。
「立て! 走れ!」
俺は彼女の腕を掴んで引き起こし、背中に突き飛ばした。
その反動で、俺自身がガルドの前に躍り出る形になる。
至近距離で見る英雄は、恐怖の具現そのものだった。
殺気。
肌を刺すような魔力の圧。
俺は死を覚悟して、ギュッと目を閉じた。
(あ、これ死んだわ。母さん、先立つ不孝をお許しくださ――)
だが。
予想された衝撃は来なかった。
「……?」
ピタリ、と。
目の前の暴風が止んだ。
恐る恐る目を開けると、ガルドが俺の顔を覗き込んでいた。
先ほどまでの狂乱が嘘のように、その動きは静止している。
整った、だが野性味あふれる顔立ちが、俺の鼻先数センチにある。
彼は俺を見ているのではない。
鼻をひくつかせ、俺の周りの空気を探っているのだ。
「……なんだ……この……」
ガルドの大きな手が伸びてくる。
首を絞められる、と思った。
けれど、その手は俺の肩を掴み――そのまま、強烈な力で引き寄せた。
「うわっ!?」
ドンッ!
俺の背中が近くの柱に叩きつけられる。
逃げ場はない。
俺の両脇にガルドの太い腕が突き刺さり、完全にロックされた。
いわゆる「壁ドン」だが、相手は魔獣のような大男だ。ときめきなど微塵もない。あるのは生命の危機だけだ。
「ちょ、あの、ガルド様……?」
俺の声など聞こえていないようだった。
ガルドは、俺の首筋――ワイシャツの襟元あたりに、無造作に顔を埋めた。
濡れた鼻先が肌に触れる。
そして。
「スゥーーーーーーーーーーーーーーッ………………」
鼓膜が震えるほどの、長く、深い吸引音が響いた。
俺は悲鳴を上げそうになった。
なんだこれ。
何が起きている。
ガルドは肺の中の空気をすべて入れ替える勢いで、俺の匂いを吸い込んでいた。
熱い吐息が、敏感な首筋にかかる。
ジョリッとした無精髭が鎖骨を擦り、ゾワゾワとした悪寒が背骨を駆け抜けた。
「……ハァ………………生き返る…………」
ガルドが陶酔しきった声を漏らす。
その吐息は熱く、ひどく甘ったるい。
「な、何して……!」
「動くな」
抵抗しようとした俺の腰を、鋼鉄のような腕が締め上げる。
痛い。骨が軋む。
でも、不思議と暴力的な気配はなかった。
まるで、砂漠で水を見つけた遭難者が、水源にしがみついているかのような必死さだ。
「……もっとだ……もっとくれ……」
ガルドはさらに顔を押し付けてくる。
鼻先が襟をこじ開け、ワイシャツの中に侵入してくる。
深呼吸は止まらない。
「スゥッ……ハァ……。甘い……。澄んだ、雪解け水のような……」
「ひっ……!」
首筋に、熱く湿った舌が這った。
舐められた!?
俺の思考は完全にショートした。
ロビーは水を打ったように静まり返っている。
逃げ遅れた職員たちが、口をあんぐりと開けてこの光景を見ていた。
伝説の英雄が、冴えない事務員を壁に押し付け、変質者のように匂いを嗅ぎまくっている光景を。
どれくらいの時間が経っただろうか。
永遠にも感じられる「吸引」の果てに、ガルドはようやく顔を上げた。
そこには、もう狂気の色はなかった。
血走っていた目は澄んだ碧色に戻り、荒い呼吸も整っている。
ただ、その瞳は、獲物を前にした肉食獣のように爛々と輝いていた。
ガルドは俺の両肩をガシリと掴んだまま、至近距離で微笑んだ。
それは、貴族のように優雅で、けれど絶対に逃さないという執着に満ちた笑みだった。
「……見つけた」
低音の美声が、俺の耳を犯す。
「ずっと探していた。俺の鎮痛剤。俺の……酸素」
「は、はい……?」
ガルドは俺の手を取り、その甲にうやうやしく口づけを落とした。
「君だ。君が俺の『薬』だ。……責任を取って、今日から俺と一緒に暮らしてくれ」
「…………はぁ?」
俺の口から出たのは、間抜けな声だった。
いや、待て。
責任ってなんだ。
俺はただ、残業してただけだぞ。
「拒否権はない」
ガルドは満足げにそう言うと、再び俺の首筋に顔を埋めた。
「スゥーッ……」
「警察呼んでぇぇぇぇッ!!!」
俺の魂の叫びは、英雄の満足げな溜息にかき消されたのだった。
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