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ある穏やかな休日の昼下がり。
ベルンシュタイン邸の玄関ホールにて、小さな悲劇が起こった。
「あ」
届いたばかりの荷物を落としてしまった。
中に入っていたのは、遠国の商人からガルド様へ贈られたという、最高級の魔導香水『天使の吐息・ローズマリーの奇跡』の小瓶。
パリンッ。
小瓶が割れた瞬間。
玄関ホールは、むせ返るようなバラとハーブの香りに包まれた。
「うわっ、きっつ……」
俺は慌てて鼻をつまんだ。良い匂いなのだが、濃度が濃すぎる。まるでバラ園の真ん中で爆発が起きたみたいだ。
しかも悪いことに、飛び散った香水を全身に浴びてしまった。
「……ん? なんだこの騒ぎは」
タイミング悪く、執務室からガルドが出てきた。
そして、俺の姿を見た瞬間――否、俺の周囲の空気を吸い込んだ瞬間、英雄の顔が青ざめた。
「……薫? なぜだ……なぜ君から、見栄っ張りな貴族の夜会のような人工的な悪臭がする!?」
「あー、いや、ちょっと事故で香水を被っちゃって」
「香水だと!? 馬鹿な! まさか敵の新型化学兵器か!?」
ガルドが俺に駆け寄り、俺の首筋に鼻を近づけた。
スゥゥッ……。
次の瞬間、ガルドが目を見開き、後ずさった。
「……しない」
「え?」
「薫の匂いが……俺の酸素が、完全に遮断されている!!!」
ガルドの絶叫が屋敷中に響き渡った。
「緊急事態だ! レベル5のバイオハザード発生! セバスチャン! 直ちに屋敷を封鎖しろ! 薫が汚染された!」
廊下の向こうで、セバスチャンが胃薬の瓶を片手に「またですか……」と遠い目をしているのが見えた。
「いいから離してください! ただの香水だって言ってるでしょ!」
「ならん! その身体に染み付いた異臭を完全に除去するまで、ここから出すわけにはいかない!」
俺は風呂場に連行された。
全裸にひん剥かれ、デッキブラシを持ったガルドによって、マグロの解体ショーのようにゴシゴシと洗われている。
「痛い痛い! 皮膚が剥ける!」
「我慢しろ! 敵はしぶといぞ! バラの油分が毛穴の奥に入り込んでいる!」
ガルドは半泣きになりながら、最高級のボディソープを俺の体に塗りたくった。
「くそっ、なぜ落ちない! この忌々しい花屋の匂いが!」
「あんたが鼻を近づけすぎるからだろ!」
「確認作業だ! ……スゥッ。駄目だ! まだバラ園だ! 俺の薫が、俺の森が、バラの棘に侵食されている!」
ガルドは絶望的な顔で空を仰いだ。
「……こうなったら、最終手段だ」
「嫌な予感しかしないんだけど」
ガルドが真剣な顔で俺に向き直った。碧眼がギラギラと輝いている。
「洗い流せないなら……俺が直接、舐めとるしかない」
「は? ちょ、待っ――」
レロォッ。
「ひゃあっ!?」
ガルド様の舌が、香水を一番浴びた俺の鎖骨あたりを、ザラリと舐め上げた。
「んんっ……ペッ! 不味い! 化粧水の味がする!」
「当たり前だろ! やめろ変態!」
「だが、少し薄まった気がする! もう一度だ!」
「くすぐったい! やめろ馬鹿犬ゥゥッ!」
風呂場に響き渡る、俺の悲鳴と水音。
端から見ればじゃれ合っているようにしか見えないが、当人たちは必死である。
特にガルドは「俺の酸素供給源が断たれた」という生命の危機に瀕しているため、目が血走っていた。
一時間後。
俺たちはリビングのソファでぐったりとしていた。
俺は洗いすぎで肌が真っ赤になり、ガルドは香水の匂いに酔ってグロッキー状態だ。
「……ひどい目にあった」
「こっちのセリフですよ」
俺が自分の腕の匂いを嗅ぐ。
まだ微かにバラの香りが残っているが、だいぶマシになった。
「……薫」
ガルドがゾンビのように這い寄ってきた。
「……確認させてくれ。俺のライフラインが復旧したかどうか」
「はいはい」
俺が諦めて首を差し出すと、ガルドは縋り付くように顔を埋めた。
スゥゥゥゥゥゥーーーーッ…………。
今日一番の長い深呼吸。
そして、ガルドの体がビクンと跳ねた。
「……ああっ! ……戻った……!」
ガルドが感動に打ち震えた声を上げた。
「微かなバラの残り香の奥底から……マグマのように湧き上がる、君本来の野生の香りが……! スパイシーで、生命力に溢れた、俺だけの麻薬が帰ってきた……!」
「表現がいちいちヤバイんだよ」
ガルドは俺を強く抱きしめ、俺の胸板に顔を擦り付けた。
「もう二度と、人工的な香料など身につけるな。君には俺の匂いだけで十分だ」
「あんたの汗臭いのも大概ですけどね」
「それは俺たちが愛し合った証拠だろう?」
ガルドはニッと笑い、俺の頬にキスをした。
やれやれ。
最強の英雄様も、たかが香水一つでこのザマだ。
「セバスチャンさん、夕飯はニンニクたっぷりのステーキにしてください。ガルド様の鼻をリセットしないと」
俺が叫ぶと、遠くから「承知いたしました。胃薬も追加で発注しておきます」という、疲れ切った執事の声が聞こえた。
ある穏やかな休日の昼下がり。
ベルンシュタイン邸の玄関ホールにて、小さな悲劇が起こった。
「あ」
届いたばかりの荷物を落としてしまった。
中に入っていたのは、遠国の商人からガルド様へ贈られたという、最高級の魔導香水『天使の吐息・ローズマリーの奇跡』の小瓶。
パリンッ。
小瓶が割れた瞬間。
玄関ホールは、むせ返るようなバラとハーブの香りに包まれた。
「うわっ、きっつ……」
俺は慌てて鼻をつまんだ。良い匂いなのだが、濃度が濃すぎる。まるでバラ園の真ん中で爆発が起きたみたいだ。
しかも悪いことに、飛び散った香水を全身に浴びてしまった。
「……ん? なんだこの騒ぎは」
タイミング悪く、執務室からガルドが出てきた。
そして、俺の姿を見た瞬間――否、俺の周囲の空気を吸い込んだ瞬間、英雄の顔が青ざめた。
「……薫? なぜだ……なぜ君から、見栄っ張りな貴族の夜会のような人工的な悪臭がする!?」
「あー、いや、ちょっと事故で香水を被っちゃって」
「香水だと!? 馬鹿な! まさか敵の新型化学兵器か!?」
ガルドが俺に駆け寄り、俺の首筋に鼻を近づけた。
スゥゥッ……。
次の瞬間、ガルドが目を見開き、後ずさった。
「……しない」
「え?」
「薫の匂いが……俺の酸素が、完全に遮断されている!!!」
ガルドの絶叫が屋敷中に響き渡った。
「緊急事態だ! レベル5のバイオハザード発生! セバスチャン! 直ちに屋敷を封鎖しろ! 薫が汚染された!」
廊下の向こうで、セバスチャンが胃薬の瓶を片手に「またですか……」と遠い目をしているのが見えた。
「いいから離してください! ただの香水だって言ってるでしょ!」
「ならん! その身体に染み付いた異臭を完全に除去するまで、ここから出すわけにはいかない!」
俺は風呂場に連行された。
全裸にひん剥かれ、デッキブラシを持ったガルドによって、マグロの解体ショーのようにゴシゴシと洗われている。
「痛い痛い! 皮膚が剥ける!」
「我慢しろ! 敵はしぶといぞ! バラの油分が毛穴の奥に入り込んでいる!」
ガルドは半泣きになりながら、最高級のボディソープを俺の体に塗りたくった。
「くそっ、なぜ落ちない! この忌々しい花屋の匂いが!」
「あんたが鼻を近づけすぎるからだろ!」
「確認作業だ! ……スゥッ。駄目だ! まだバラ園だ! 俺の薫が、俺の森が、バラの棘に侵食されている!」
ガルドは絶望的な顔で空を仰いだ。
「……こうなったら、最終手段だ」
「嫌な予感しかしないんだけど」
ガルドが真剣な顔で俺に向き直った。碧眼がギラギラと輝いている。
「洗い流せないなら……俺が直接、舐めとるしかない」
「は? ちょ、待っ――」
レロォッ。
「ひゃあっ!?」
ガルド様の舌が、香水を一番浴びた俺の鎖骨あたりを、ザラリと舐め上げた。
「んんっ……ペッ! 不味い! 化粧水の味がする!」
「当たり前だろ! やめろ変態!」
「だが、少し薄まった気がする! もう一度だ!」
「くすぐったい! やめろ馬鹿犬ゥゥッ!」
風呂場に響き渡る、俺の悲鳴と水音。
端から見ればじゃれ合っているようにしか見えないが、当人たちは必死である。
特にガルドは「俺の酸素供給源が断たれた」という生命の危機に瀕しているため、目が血走っていた。
一時間後。
俺たちはリビングのソファでぐったりとしていた。
俺は洗いすぎで肌が真っ赤になり、ガルドは香水の匂いに酔ってグロッキー状態だ。
「……ひどい目にあった」
「こっちのセリフですよ」
俺が自分の腕の匂いを嗅ぐ。
まだ微かにバラの香りが残っているが、だいぶマシになった。
「……薫」
ガルドがゾンビのように這い寄ってきた。
「……確認させてくれ。俺のライフラインが復旧したかどうか」
「はいはい」
俺が諦めて首を差し出すと、ガルドは縋り付くように顔を埋めた。
スゥゥゥゥゥゥーーーーッ…………。
今日一番の長い深呼吸。
そして、ガルドの体がビクンと跳ねた。
「……ああっ! ……戻った……!」
ガルドが感動に打ち震えた声を上げた。
「微かなバラの残り香の奥底から……マグマのように湧き上がる、君本来の野生の香りが……! スパイシーで、生命力に溢れた、俺だけの麻薬が帰ってきた……!」
「表現がいちいちヤバイんだよ」
ガルドは俺を強く抱きしめ、俺の胸板に顔を擦り付けた。
「もう二度と、人工的な香料など身につけるな。君には俺の匂いだけで十分だ」
「あんたの汗臭いのも大概ですけどね」
「それは俺たちが愛し合った証拠だろう?」
ガルドはニッと笑い、俺の頬にキスをした。
やれやれ。
最強の英雄様も、たかが香水一つでこのザマだ。
「セバスチャンさん、夕飯はニンニクたっぷりのステーキにしてください。ガルド様の鼻をリセットしないと」
俺が叫ぶと、遠くから「承知いたしました。胃薬も追加で発注しておきます」という、疲れ切った執事の声が聞こえた。
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