結論のない短編集

はうり

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小道

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 この道を壁沿いに真っ直ぐ行けば、すぐに家まで辿り着ける筈だ。少女はそう考えて歩きながら、エアコンの効いた自分の部屋でのんびりくつろぐ十数分後の自分を想像した。ここはいつもの帰路からは大分外れた道だが、この炎天下をあの大回りの道で歩いて帰っては脳みそが溶けてしまう。大体「信号機が沢山あって人通りも多く、安全だから」などという理由であんな回り道をする方がどうかしているのだ。こっちの住宅街を通った方がずっと早く家に着ける。私は安全を守るなんかよりも、一刻も早く帰ってエアコンの真下でアイスクリームを食べたいのだ。そういえば今日は大好きなチョコアイスがあるんだったな。そんな事を考えながら歩いていると自然に足が早まる。少女はやがて駆け足になり、静かな住宅街を駆け抜けていった。

 おかしい。真ん中にお地蔵さんのある分かれ道に差し掛かった時、少女はそう思った。前にこの道を通った時はこんな分かれ道はなかった筈だ。それに何より、この分かれ道はさっきも通ったではないか!?そう、確かにほんの数分前に此処とそっくりな分かれ道を右に曲がった記憶がある。しかも2度もだ。その事に気づいた少女はやっと足を止めた。膝に手をついて荒い呼吸を整えながら、確認するように周りを見渡す。そういえばあの電柱に貼ってある水道屋の広告も何度も見た気がする。ますますおかしい。それにもう随分な距離を走った気がする。家までの道はこんなに長くない。時間だって、いつもの大回りの道を通ってもとっくに家に着いている頃だ。もしかして、いや、もしかしなくても、少女は同じ道を何度も通っていた。
 
 どうしよう。こんなことは初めてだ。助けを求めるように辺りを見渡すが、静かな住宅街には人っ子ひとり見当たらない。ただ目の前の小さなお地蔵さんが目に入るだけだ。少女は縋る思いでそのお地蔵さんに歩み寄った。すると、お地蔵さんの傍らになにやら黒い影を見つけた。
「あれ!」
猫だった。黒くて金色の目をした猫が1匹、お地蔵さんの影に紛れるように座っていたのだ。

 こんな状況で出会う可愛い生き物には無条件で心を許してしまうものだ。少女は膝をつき、猫を撫でようとそっと手を伸ばした。と、その瞬間
「やめてよ」
声がした。少女は驚いて辺りを見回すが、依然として住宅街には人の姿など見えない。目を見開きながら、恐る恐る目の前の猫に視線を戻す。
「いきなり触ろうとするなんて失礼じゃないか」
驚いたことに、声は間違いなくこの黒猫から聞こえて来るようだ。猫は少しも口元を動かしていなかったが、少女には声の主がこの猫だ、という確信があった。
「ね、ねえ、猫さんは私の言葉が分かるの?」
「君は誰だい?」
「…えっ?」
猫はこちらの話を聞いていないようで、一方的に質問を投げかけてきた。
「君は誰なんだい?」
「わ、私は…××っていうのよ」
「…………」
「………」
猫は聞き取れていないようで暫く黙ったままだったが、また次の質問を投げかけてきた。
「どうして此処にきたんだい?」
「どうして、ですって?来たくて来たわけじゃないわ。気がついたらここにいたの。」
「どうして此処にきたんだい?」
「……………」
だんだん腹が立ってきた。何故私の話を聞く気がないのに質問をするのだろう。
「どうして此処にきたんだい?」
「…………」
「どうやって此処にきたんだい?」
「…えっ」
質問が変わる。

「どうやって此処にきたんだい?」
「どうやって…?」
「どうやって此処にきたんだい?」
「そんなの分からないわ」
「君はどこから帰る途中だったんだい?」
「知らないわ。覚えてないもの」
「君はどこに行こうとしてるんだい?」
「家に帰るのよ」
「君の家ってどこなんだい?」
「………………?」
「君は今何を考えている?」
「……」
「………」
「ママに会いたい」
「どうやって帰るつもりだい?」
「疲れちゃった…足が痛いの」
「これからどうするんだい?」
「疲れた時は私の家に来なさいって、ママが言ってたわ」
「こっちに来るつもりはないのかい?」
「いかない。」
「………そうかい」
そう言うと猫は私に背を向けて座り直し、二度と話さなくなった。黒い尻尾は滑らかに波打ち、まるで液体のよう。流れる尻尾。流れる時間。私の頭の中で。

 風が吹く。私は天を仰いだ。なんて気持ちのいい風だろう。まるで脳みそをも丸ごと洗濯できてしまうような澄んだ空気をいっぱいに吸い込む。いつのまにか猫は影へと溶けてしまった。しかし私にとってはそんなことはもうどうでもいいことだ。膝についた小石を払い、立ち上がると今度は元来た道へと戻ってみることにした。水道屋の広告が貼られた電柱の足元に、背負っていた赤いランドセルを置いて。
 駆け出す少女の足取りは軽い。一筋のひこうき雲が空を泳いでいった。
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