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「おはよう。――黒脚が好きか?」
「おはようございます。そうですね、大きくて大人しくて、可愛らしい。手触りもいいし」
挨拶の流れで雑談を始めるのにはもう身構えなくなった。一度向き直って軽く頭を下げた後には再び撫でる手を置いて笑う姿にこちらも頬が緩んだ。
朝が早くともつらそうな素振りは一切なく、四日目となっても変わらず上機嫌なススキはまた荷を積んだ黒脚の胴を撫でていた。今日は黒花柄のほうだ。
黒脚がグウグウと嘶くのも調子がよさそうに見える。空も、雲はあるが歩くには眩しすぎずいいだろう。特別暑くも寒くもない。隣の町は近く、普通に歩けば一日かからずに着くはずだ。
「この子はガク、あっちの縞模様の子はキュウという名前だそうです。どちらも雌ですって」
ススキが順に指で示して言う。共に行く人々の名はすべて聞いて覚えていたが、そこまでは聞いていなかった。はいと応じて横で笑う雑役もススキとは初対面のようだったが、俺と同じくもう打ち解けた雰囲気だ。温泉について聞かせてくれたイン州出身の雑役――彼はミツマタといった。
「こんなにでかい黒脚なのに、もっと勇壮な名を付けないのか?」
ガクと、キュウ。どちらも山を示す名前だろう。大きな体には似合ってはいるが、馴染みのある騎などとは雰囲気が違う。温い毛皮を撫でてみるとあまり柔らかくはない、独特の手ごたえだが毛並みは整って確かに気持ちがいい。
「これは選りすぐって気性の穏やかな品種ですからねえ。牙も生えないし、戦に持っていくような名前は付けませんで、こんなもんですよ」
「成程」
たしかに敵を踏み潰すような凶暴さは持ち合わせていないように見えた。様々な場で広く使う生き物であることを考えれば戦に連れていくほうがむしろ特別なのかも知れない。雌雄の違いもあろう。
納得する横でまだ撫でているススキの顔がふと上がった。すぐに指も上を示す。
「アオギリ将軍の騎はなんと?」
今日の空ではそこそこよく見える、出発を待って漂っている緑青の体の煙髯は、長く共に戦に出ている愛騎だ。今は落ち着いているが、戦場ではその姿が大河や海の波濤を思わせることから――
「あれはドトウ。濤だ」
「なるほど。確かにそちらは勇壮ですねえ。名前まで恰好がいい」
「あれも後で触らせようか」
言うと、宙を滑るドトウの動きを追いかけていた瞳が輝いたように見えた。口元が見えない分かそこはよく感情を映す。最初は読めないものと思い込んでいた顔色だが、こうしっかりと顔を合わせて話すようになると別段押し込めているわけではないのが分かる。よく話すしよく笑う男だった。
「いいんですか? 煙髯は初めてです。あの髯掴めないって本当ですか?」
浮き立った声色も如実だ。頷くと手を合わせて喜んでみせる動きも隠さない。
煙髯は基本的には戦に使う騎だ。城の敷地の中や行脚には用意されないだろう。今回も必要にかられてではなく俺の見栄の為に連れ出されたのだ。貴人の輿の代わり、旅歩きの最中でも刺繍を施された仰々しい外套など羽織るのと同じように。
あれは本気を出させればかなりの速さで天地を駆けるし尻尾の礫は敵を打つ。そして、顔の先から横へと伸びて煙のようにたなびく髯は彼の言うとおりだが。
「芯はある。それ以外はまやかしだ。――この髪留めがそうだ」
少し頭を下げて、束ねた髪の根を示す。髪留めも、そこから松葉のように二又に分かれた飾りも細長く平たいひご状のしなやかな素材でできている。艶深い黒色は華美ではないが見窄らしくもなく、将軍の黒外套とも同じ暗さで調和する。紐よりもずっと丈夫なので気に入りいつも使っていた。
こちらではまだあまり知られていないが、煙髯を育てるシン州のほうでは見かける品だ。
「へえ、細工にできるんですか……黒いんだ」
「たまに抜け落ちているのを拾う。職人が時間をかけて磨くとこういう艶が出るらしい。頑丈で勝手もいい」
興味深そうに眺める視線は、やや置いて少し離れた。顔を傾げ俺の姿ごと確かめて目を細める。
「いいですねそれ、品があって素敵です。無精なたちですが、人が上手く飾っているのを見ると自分も少しは気を使ってみようかって気になりますね。私も何か一つくらい持ってくればよかったなあ」
この将軍位の装いにも遜色なく、彼が身に着ける金の尾の装いは十分に鮮やかで華やかだが、あくまで仕着せだ。彼自身の趣味とは違うのかもしれない。短く整えられた髪はそのものが貴重な色をしていて美しい為に飾る必要はないようにも見えたが――いや。
「その髪なら映えて似合うことだろう。この縁に何か贈ろうか」
着飾ってもまた美しいに違いない。黒髪、白髪、俺のような灰の頭ともまた違う見せ方があるものだろう。きっと黒も似合う。
そう思いなおし、何気なく口を出ていった提案に彼は目を瞠って、一瞬後には慌てた様子で取り繕った。
「失敬、ねだったりとかそんなつもりではなく――高価な物でしたら遠慮というか、本当に聞き流していただいて、どうぞ気になさらず」
先のように喜んでみせるかと思えばそうでもないが、言葉どおりに遠慮と聞こえた。それもどこか辿々しい。
美人の割に贈られ慣れていないのかもしれない。何せ金の尾だから、と思えば納得はいくが、それはどうにも勿体ない気がした。思いつきで言ったに過ぎないが、ではと引っ込める気にはならなかった。むしろ、それこそ縁だ。
「なに、それくらい。無事戻ったら手配しよう」
もう一言重ねて目を合わせる。そろそろ出発もせねばならないところだし、このまま押しつけてしまおう。
そう決めたが、泳いだ視線が戻ってくるのを、返事を待つのは、あまり長い時間ではなかった。
「……では……頂けるなら、頂いておこうかなあ」
「ああ。遠慮は要らん。今回の行脚の労いとでも思えばいい」
ススキは今度は素直に頷き、そのまま、軽く頭を下げる礼にした。
「では、お願いします。楽しみに待ってます。……やる気出ましたよ、さあ行きましょう!」
ふと息を抜くように顔を上げて、先日と同じく鳴杖を持って控えていた岩偶の元へと駆けていく。張り切り俺の号令より先に周囲を促すのにも慣れてきた。
改めて声をかける中、部下の一人が物言いたげな眼差しを寄越してきたが無視しておいた。他も笑っている雰囲気で生温い。
……三十にもなって人に物を贈るくらいもう照れぬと思っていたが、そんなだから後から気恥ずかしくなってきた。照れを振り払い、平然と構えて意識を仕事へと向かわせていく。とはいえ行軍とは違い緊張感の薄い旅であって、今日も門を出れば人気がないので、少しすれば誰かが昨夜はどこかで狗が遠吠えしていて寝不足だだのと言い始めたのをきっかけにまた穏やかな会話が始まったが。
他の騎の名前も訊ねてみた。駆駒たちはいずれも俺が乗れる大柄で、見栄えのするよう揃いの栗色で集められたものだった。ハズミ、ナレ、ガンケン、ジン。こちらは何処でもよくある響きだ。前の二つは同じ名前の猫が職場に居ると執筆のミズヒキが笑い、覡のサカキ殿がその模様や目の色を確認して四十年ほど前にも見かけた猫と同じかも知れぬと冗談とも本気ともつかない口振りで驚いていた。王族が持つ騎の場合は初めの帝が雲を紡いで自らの騎を作り出したことになぞらえ雲に纏わる名前をつけられるとは聞き知っていたことだが、先日に姫宮へと献上された白駒はズイウンと名付けられたそうだ。金の尾として生まれた二の姫、サハリ様がよく尾の宮を訪れてそうした雑談をしに来るのだとススキは語った。
以前遠征に出た地とは違いこの辺りは地面が平坦で進みやすい。開発の進んだ石を敷いた道ではないが、くっきりとした道がずっと続いているのも迷わず有難かった。息を乱すこともなく他愛のない会話を続けて歩き続け、道なりに進むだけではあるが怠らず国都や近隣の町村からの方位と距離を示す碑を見つければ確かめる。そうして暫く進んだ。
「――今日も順調だな。あの辺りで休むか。昼餉にしよう」
落ち着けそうな丘を見つけて、日も高くなっていたので頃合いと長めの休憩にする。外套や笠を脱いで敷物の筵を広げ、雑役が掌ほどの大ぶりの包みを配るのを受け取る。剥いて確かめてみれば炙り肉を挟んだ麭だった。
水筒を傾け水を飲みながら窺うと、思ったとおりだった。
少し離れたところでススキが齧っている食事は俺の分より大きく見える――のは手などの大きさの差でそう見えるだけだろうが。
細い顎。普段は布に隠され――守られている為か、皮膚が薄く柔な印象の口元が齧って噛んで飲みこむ動きは他より遅い。すぐ隣に世話係の女も座っていたが、歩いている最中とは違い黙り込んで懸命だ。
昨日も、前の日もそうだった。もそもそと食う様が難儀そうに見えた。水で流してつっかえるようだ。
俺のような者は持ち歩きの糧食にも慣れているが、こういうのは大体冷えていて、場合によっては乾せてもいて硬い。肉の脂があるだけましかも知れないが当然脂っこくはなる。支度をして持たせてくれる厨房の腕にもよるが、まああまり食いやすい物ではないことが多い。やはり今日も大変そうだと思って、横に控えたイタドリに杯を出すように求めた。
寄っていくと咀嚼する口元を押さえて見上げる彼に一杯、湯を注いで差し出す。
「白湯だ。少しは食いやすくなるだろう」
火を焚かない休憩の場で湯気が立っているのに驚いた様子だった。水鳥の意匠の銅瓶は以前賜った物で、見た目がよいだけではなく冷たさや温かさを保てるという優れものだ。大きさの割に量が入らないので正直こうして持ち歩くには向かないが、これも要は見せびらかすのに持たされていた。折角あるのだから使うべきだろう。冷えた水よりもこちらのほうがいいだろうと思った。
「ありがとうございます。よい物をお持ちで」
笑うと口の端に牙歯が覗く。そうして口元を見せていると貴人の笑みではなく、一層に気安い雰囲気だった。
「下賜品でな」
「将軍になった折ですか?」
「ああ。祝いの品の一つがこれだった。……なんと言ったか、南のほうの高名な絵師の描いた絵を元に作ったものだそうだ。結構便利だ」
普通ならばどこそこの工房の品で、由緒は、と続けるところだが……武具や騎についてならばともかくこういう物はなんとなく自慢しづらい。自分が詳しくないのでどうも浅い感じがしてならないのだ。近頃は頂いたときほど人に見せてもいなかったので、もう名が出てこなかった。公の場でもないので苦笑いで誤魔化す。
「あち、――話には聞いたことがありましたが、これは本当に便利そうですねえ。出先でも好きに茶が飲める。それに愛らしい」
湯を小さく含んで、歯切れの悪さを感じてかススキもまた笑った。瓶の表面、生き生きとした打ち出しの水鳥の姿を褒めて今度はふうと湯気を吹く。
「麭はあまり得意ではなくて。米とかのほうが好きなんです」
俺が様子を見ていたことにも気づいていたのだろう。何か弁解するように呟いて、もう一口流した。
国都の周辺は田もあるし物が入ってくるが、大分離れてこのあたりの主食は麦だ。進路が西のほうならば粽でも作ってもらえたかもしれないが。
「餅とか、団子とか、丸めちゃうならあっちがいいですね……」
「そのへんは期待薄かも知れんが、夜は口当たりのよいものだといいな」
話していては食べられない、旅歩きの体力を養うためにと渡された量も少なくはなく、あまり時間をかけては休憩が長引いて後で困ると彼も知っているのだろう。ぼやく言葉を留めるように頬張った。
横にいてじろじろ眺めては食べづらいに違いない。後はゆっくり食べろと手を振って、他の者にも、年寄りと女に優先して湯を配り自分たちも食事をする。やはり乾いた感じではあったが味は悪くなかった。己もなるべく悠長に、よく噛んでおいた。
「おはようございます。そうですね、大きくて大人しくて、可愛らしい。手触りもいいし」
挨拶の流れで雑談を始めるのにはもう身構えなくなった。一度向き直って軽く頭を下げた後には再び撫でる手を置いて笑う姿にこちらも頬が緩んだ。
朝が早くともつらそうな素振りは一切なく、四日目となっても変わらず上機嫌なススキはまた荷を積んだ黒脚の胴を撫でていた。今日は黒花柄のほうだ。
黒脚がグウグウと嘶くのも調子がよさそうに見える。空も、雲はあるが歩くには眩しすぎずいいだろう。特別暑くも寒くもない。隣の町は近く、普通に歩けば一日かからずに着くはずだ。
「この子はガク、あっちの縞模様の子はキュウという名前だそうです。どちらも雌ですって」
ススキが順に指で示して言う。共に行く人々の名はすべて聞いて覚えていたが、そこまでは聞いていなかった。はいと応じて横で笑う雑役もススキとは初対面のようだったが、俺と同じくもう打ち解けた雰囲気だ。温泉について聞かせてくれたイン州出身の雑役――彼はミツマタといった。
「こんなにでかい黒脚なのに、もっと勇壮な名を付けないのか?」
ガクと、キュウ。どちらも山を示す名前だろう。大きな体には似合ってはいるが、馴染みのある騎などとは雰囲気が違う。温い毛皮を撫でてみるとあまり柔らかくはない、独特の手ごたえだが毛並みは整って確かに気持ちがいい。
「これは選りすぐって気性の穏やかな品種ですからねえ。牙も生えないし、戦に持っていくような名前は付けませんで、こんなもんですよ」
「成程」
たしかに敵を踏み潰すような凶暴さは持ち合わせていないように見えた。様々な場で広く使う生き物であることを考えれば戦に連れていくほうがむしろ特別なのかも知れない。雌雄の違いもあろう。
納得する横でまだ撫でているススキの顔がふと上がった。すぐに指も上を示す。
「アオギリ将軍の騎はなんと?」
今日の空ではそこそこよく見える、出発を待って漂っている緑青の体の煙髯は、長く共に戦に出ている愛騎だ。今は落ち着いているが、戦場ではその姿が大河や海の波濤を思わせることから――
「あれはドトウ。濤だ」
「なるほど。確かにそちらは勇壮ですねえ。名前まで恰好がいい」
「あれも後で触らせようか」
言うと、宙を滑るドトウの動きを追いかけていた瞳が輝いたように見えた。口元が見えない分かそこはよく感情を映す。最初は読めないものと思い込んでいた顔色だが、こうしっかりと顔を合わせて話すようになると別段押し込めているわけではないのが分かる。よく話すしよく笑う男だった。
「いいんですか? 煙髯は初めてです。あの髯掴めないって本当ですか?」
浮き立った声色も如実だ。頷くと手を合わせて喜んでみせる動きも隠さない。
煙髯は基本的には戦に使う騎だ。城の敷地の中や行脚には用意されないだろう。今回も必要にかられてではなく俺の見栄の為に連れ出されたのだ。貴人の輿の代わり、旅歩きの最中でも刺繍を施された仰々しい外套など羽織るのと同じように。
あれは本気を出させればかなりの速さで天地を駆けるし尻尾の礫は敵を打つ。そして、顔の先から横へと伸びて煙のようにたなびく髯は彼の言うとおりだが。
「芯はある。それ以外はまやかしだ。――この髪留めがそうだ」
少し頭を下げて、束ねた髪の根を示す。髪留めも、そこから松葉のように二又に分かれた飾りも細長く平たいひご状のしなやかな素材でできている。艶深い黒色は華美ではないが見窄らしくもなく、将軍の黒外套とも同じ暗さで調和する。紐よりもずっと丈夫なので気に入りいつも使っていた。
こちらではまだあまり知られていないが、煙髯を育てるシン州のほうでは見かける品だ。
「へえ、細工にできるんですか……黒いんだ」
「たまに抜け落ちているのを拾う。職人が時間をかけて磨くとこういう艶が出るらしい。頑丈で勝手もいい」
興味深そうに眺める視線は、やや置いて少し離れた。顔を傾げ俺の姿ごと確かめて目を細める。
「いいですねそれ、品があって素敵です。無精なたちですが、人が上手く飾っているのを見ると自分も少しは気を使ってみようかって気になりますね。私も何か一つくらい持ってくればよかったなあ」
この将軍位の装いにも遜色なく、彼が身に着ける金の尾の装いは十分に鮮やかで華やかだが、あくまで仕着せだ。彼自身の趣味とは違うのかもしれない。短く整えられた髪はそのものが貴重な色をしていて美しい為に飾る必要はないようにも見えたが――いや。
「その髪なら映えて似合うことだろう。この縁に何か贈ろうか」
着飾ってもまた美しいに違いない。黒髪、白髪、俺のような灰の頭ともまた違う見せ方があるものだろう。きっと黒も似合う。
そう思いなおし、何気なく口を出ていった提案に彼は目を瞠って、一瞬後には慌てた様子で取り繕った。
「失敬、ねだったりとかそんなつもりではなく――高価な物でしたら遠慮というか、本当に聞き流していただいて、どうぞ気になさらず」
先のように喜んでみせるかと思えばそうでもないが、言葉どおりに遠慮と聞こえた。それもどこか辿々しい。
美人の割に贈られ慣れていないのかもしれない。何せ金の尾だから、と思えば納得はいくが、それはどうにも勿体ない気がした。思いつきで言ったに過ぎないが、ではと引っ込める気にはならなかった。むしろ、それこそ縁だ。
「なに、それくらい。無事戻ったら手配しよう」
もう一言重ねて目を合わせる。そろそろ出発もせねばならないところだし、このまま押しつけてしまおう。
そう決めたが、泳いだ視線が戻ってくるのを、返事を待つのは、あまり長い時間ではなかった。
「……では……頂けるなら、頂いておこうかなあ」
「ああ。遠慮は要らん。今回の行脚の労いとでも思えばいい」
ススキは今度は素直に頷き、そのまま、軽く頭を下げる礼にした。
「では、お願いします。楽しみに待ってます。……やる気出ましたよ、さあ行きましょう!」
ふと息を抜くように顔を上げて、先日と同じく鳴杖を持って控えていた岩偶の元へと駆けていく。張り切り俺の号令より先に周囲を促すのにも慣れてきた。
改めて声をかける中、部下の一人が物言いたげな眼差しを寄越してきたが無視しておいた。他も笑っている雰囲気で生温い。
……三十にもなって人に物を贈るくらいもう照れぬと思っていたが、そんなだから後から気恥ずかしくなってきた。照れを振り払い、平然と構えて意識を仕事へと向かわせていく。とはいえ行軍とは違い緊張感の薄い旅であって、今日も門を出れば人気がないので、少しすれば誰かが昨夜はどこかで狗が遠吠えしていて寝不足だだのと言い始めたのをきっかけにまた穏やかな会話が始まったが。
他の騎の名前も訊ねてみた。駆駒たちはいずれも俺が乗れる大柄で、見栄えのするよう揃いの栗色で集められたものだった。ハズミ、ナレ、ガンケン、ジン。こちらは何処でもよくある響きだ。前の二つは同じ名前の猫が職場に居ると執筆のミズヒキが笑い、覡のサカキ殿がその模様や目の色を確認して四十年ほど前にも見かけた猫と同じかも知れぬと冗談とも本気ともつかない口振りで驚いていた。王族が持つ騎の場合は初めの帝が雲を紡いで自らの騎を作り出したことになぞらえ雲に纏わる名前をつけられるとは聞き知っていたことだが、先日に姫宮へと献上された白駒はズイウンと名付けられたそうだ。金の尾として生まれた二の姫、サハリ様がよく尾の宮を訪れてそうした雑談をしに来るのだとススキは語った。
以前遠征に出た地とは違いこの辺りは地面が平坦で進みやすい。開発の進んだ石を敷いた道ではないが、くっきりとした道がずっと続いているのも迷わず有難かった。息を乱すこともなく他愛のない会話を続けて歩き続け、道なりに進むだけではあるが怠らず国都や近隣の町村からの方位と距離を示す碑を見つければ確かめる。そうして暫く進んだ。
「――今日も順調だな。あの辺りで休むか。昼餉にしよう」
落ち着けそうな丘を見つけて、日も高くなっていたので頃合いと長めの休憩にする。外套や笠を脱いで敷物の筵を広げ、雑役が掌ほどの大ぶりの包みを配るのを受け取る。剥いて確かめてみれば炙り肉を挟んだ麭だった。
水筒を傾け水を飲みながら窺うと、思ったとおりだった。
少し離れたところでススキが齧っている食事は俺の分より大きく見える――のは手などの大きさの差でそう見えるだけだろうが。
細い顎。普段は布に隠され――守られている為か、皮膚が薄く柔な印象の口元が齧って噛んで飲みこむ動きは他より遅い。すぐ隣に世話係の女も座っていたが、歩いている最中とは違い黙り込んで懸命だ。
昨日も、前の日もそうだった。もそもそと食う様が難儀そうに見えた。水で流してつっかえるようだ。
俺のような者は持ち歩きの糧食にも慣れているが、こういうのは大体冷えていて、場合によっては乾せてもいて硬い。肉の脂があるだけましかも知れないが当然脂っこくはなる。支度をして持たせてくれる厨房の腕にもよるが、まああまり食いやすい物ではないことが多い。やはり今日も大変そうだと思って、横に控えたイタドリに杯を出すように求めた。
寄っていくと咀嚼する口元を押さえて見上げる彼に一杯、湯を注いで差し出す。
「白湯だ。少しは食いやすくなるだろう」
火を焚かない休憩の場で湯気が立っているのに驚いた様子だった。水鳥の意匠の銅瓶は以前賜った物で、見た目がよいだけではなく冷たさや温かさを保てるという優れものだ。大きさの割に量が入らないので正直こうして持ち歩くには向かないが、これも要は見せびらかすのに持たされていた。折角あるのだから使うべきだろう。冷えた水よりもこちらのほうがいいだろうと思った。
「ありがとうございます。よい物をお持ちで」
笑うと口の端に牙歯が覗く。そうして口元を見せていると貴人の笑みではなく、一層に気安い雰囲気だった。
「下賜品でな」
「将軍になった折ですか?」
「ああ。祝いの品の一つがこれだった。……なんと言ったか、南のほうの高名な絵師の描いた絵を元に作ったものだそうだ。結構便利だ」
普通ならばどこそこの工房の品で、由緒は、と続けるところだが……武具や騎についてならばともかくこういう物はなんとなく自慢しづらい。自分が詳しくないのでどうも浅い感じがしてならないのだ。近頃は頂いたときほど人に見せてもいなかったので、もう名が出てこなかった。公の場でもないので苦笑いで誤魔化す。
「あち、――話には聞いたことがありましたが、これは本当に便利そうですねえ。出先でも好きに茶が飲める。それに愛らしい」
湯を小さく含んで、歯切れの悪さを感じてかススキもまた笑った。瓶の表面、生き生きとした打ち出しの水鳥の姿を褒めて今度はふうと湯気を吹く。
「麭はあまり得意ではなくて。米とかのほうが好きなんです」
俺が様子を見ていたことにも気づいていたのだろう。何か弁解するように呟いて、もう一口流した。
国都の周辺は田もあるし物が入ってくるが、大分離れてこのあたりの主食は麦だ。進路が西のほうならば粽でも作ってもらえたかもしれないが。
「餅とか、団子とか、丸めちゃうならあっちがいいですね……」
「そのへんは期待薄かも知れんが、夜は口当たりのよいものだといいな」
話していては食べられない、旅歩きの体力を養うためにと渡された量も少なくはなく、あまり時間をかけては休憩が長引いて後で困ると彼も知っているのだろう。ぼやく言葉を留めるように頬張った。
横にいてじろじろ眺めては食べづらいに違いない。後はゆっくり食べろと手を振って、他の者にも、年寄りと女に優先して湯を配り自分たちも食事をする。やはり乾いた感じではあったが味は悪くなかった。己もなるべく悠長に、よく噛んでおいた。
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