4 / 8
4
しおりを挟む
この国の歴史に関わる書物の最初は、すべて一言一句違わぬ一説で飾られている。
初王の御代、忌わしき影、地の果てより来たる暗黒の軍勢が訪れた。
死と病、恐怖と嘆きが国を埋め尽くした。
人々は戦ったが、恐ろしき者たちの前には多くの屍が積み上げられるばかりだった。王は苦しみ、国は滅びに向っていた。
しかしあるとき、王と人々は勇ましい咆哮を聞いた。その声は空に轟き、見よ、森は動き、暗黒の軍勢は打ち倒された。
森を統べるのは如何なる大樹よりも大きく、如何なる山より重たく、如何なる者より優れた龍の長である。
偉大なる龍帝に護られ、我らの国は生き永らえたのである――……
「皆よく知っておるように、偉大なる龍帝は今もこの国を見守っておられる。この城より三百西進すれば国境だが、そこから更に進むと、森がある。此処からも見えるだろう。あれこそが龍の森だ」
豊かな白髭を蓄えた歴史の教師は、マントの下になった手をすっと西へ向けて言う。言葉は恭しく、声は、背筋を伸ばして息を入れた重たいものだった。
歴史の授業は大きな講堂で行われるが、満員に近く盛況だった。ほとんどの席は埋まり、子供たちは窮屈そうにしながら教本を開き、ペンを動かしている。
丘陵地帯に薄く広がる霧を幕に、和らいだ斜光は机を照らしている。それが友達の横顔を赤っぽく照らすのを横目に、ルナキースは退屈な基礎知識を耳に入れていた。
エイルスとヴェルトンは真面目に教師のほうを見て話を聞いている。彼らも知っている――貴族など、教育を受けたことがある者なら誰もが間違えずに諳んじることのできる昔話を、熱心な顔で。
ルナキースは口の中で半端な溜息を吐いた。
一日の休みを置いて、授業開始の初日、そして二日目の今日。彼は政治、古典、地方史、音楽……といった授業をエイルスやヴェルトンと共に回っていたが、どれ一つとして面白みを感じられていない。不真面目にしているわけではないがどうにも身が入らない。
将来、将来と考えれば、貴族の長男である彼の身の振り方などおおよそ決まっている。そのための話を聞いて頭に詰め込んで、ついでに人脈を作りながら六年過ごすのが此処での生活だと、彼は考えている。
ほとんど決まった将来への文句を言うような相手を、少年はまだ作っていない。似た立場のはずのヴェルトンは分かっているのかいないのか趣味に興じて楽しそうにしているし、エイルスはエイルスで、決められたわけでもないのに当たり前のように政官になる気でいる。エイルスの兄が「もっと自由に生きればいいのに」と零していたのもルナキースは知っているが、言えるはずもない。
遊ぶわけでもなく何かのために勉強するわけでもなく。どっちつかずな自分に、ルナキースは早くも愛想がつきかけている。その自分の横で何の迷いもなく、まっすぐ真面目に歩いている友達と比較すると、更に残念な気分になる。もし友達も同じように迷っているとしたら、安心もできるところだというのに。
頬杖ついた彼はちらりと視線を下の方に下ろした。エイルスのベルトに留められた緑の袋が見える。紐は固く、しかし他の学徒たちとは違う普通の結び方で結ばれている。
一度解いてしまった本人と居合わせた二人以外は、まだそのことに気づいていない。
あの中身は結局なんだろう――と考えるにも、彼は飽きてしまっていた。なにせ手掛かりはない。人に訊けるものでもない。多分他の二人もそうだろうと勘繰っていた。
鐘の音が響き渡る。頭上から降ってきたその響きに、転寝していた学徒たちが跳ね起きた。
「ふむ、いい具合だ。それでは今日はここまで。諸君、また次回」
教師が読み上げていた教本から顔を上げて言う。トン! と勢いよく本が閉じられた音を境に、学徒たちは立ち上がり縮こまっていた体を伸ばし始めた。本を閉じる音も随所で起こる。
「……おい、立てよ。出れないだろ」
今日の授業はこれが最後だ。誰もが帰ろうと動き始めた中、エイルスだけは荷物を纏めただけで座ってじっとしている。いつも手際のいい彼らしくない行動だった。
「僕、聞いてこようかと思う」
「何を?」
ざわつく中でエイルスが言う。ルナキースの後ろで立ち上がったヴェルトンはきょとんとして、椅子と机の間に挟まったマントを引き抜きながら訊ねる。
「袋の中身がなんなのか。先生なら、知ってらっしゃるかもしれないだろ」
エイルスの視線は、壁に広げていた地図や指示棒を纏めている教師の方に向けられていた。
「はあっ?」
言葉を聞いて同じほうに顔を向けたルナキースとヴェルトンは大きな声を上げた。何人かの学徒が変な物を見る視線を向けながら、通り過ぎていく。
その視線も、戻ってきた二人の視線も平然と受け止めて、エイルスは腰の袋を叩き癖のついた金の髪を撫でた。
「……図書館に行って、歯とか石とか、種も一応、調べてみたんだけど、図鑑を全部見ても同じものはなかったんだ。考え直したけど、もしかしたら人が作ったものかもしれない、ってぐらい。でもそうなると本で調べるんじゃ埒が明かない」
彼は学徒が粗方退出するのを待っているのだった。此処の教師が、家庭教師たちとは違って学徒たちの後に出て行くのを知ってのことだ。
冗談ではなさそうな口振りにルナキースが顔を顰めた。手にした教本の背を机にぶつけて、エイルスの顔を自分のほうへと上げさせる。
「お前、規則違反なんだぞ。わざわざ怒られに行くのかよ」
「だって、気になるだろ? 分からないことをそのままにしておくのは気分が悪いじゃないか。先生ならご存知かもしれないし」
それがなんだ、という口調だった。
平素大人たちに従って枠の中を往く彼は、こういうときだけはまるで融通の利かない頑固者だった。気になったことは調べないと気が済まない。立ち上がり、真っ向から友達の顔を見据えて威嚇する。
「別に君たちも来いとは言ってない。僕一人でも聞きに行く」
主張の強い碧色の瞳、きっぱりと言い放つエイルスに対峙したルナキースは表情からして賛同しかねているのは明らかだった。彼の目には苛立ちがある。
不穏な空気がじりりと周囲に滲んでいく。窓枠越しの朱い霧を背景に睨み合う二人。張り詰めた空気を壊せるのは本人たちだけと思われたが、
「君たち、質問でもあるのかね? そうでないなら早く帰りたまえ、此処は夕方冷えるよ」
「すみません、今出ますっ!」
降って沸いたのは低く響く教師の声。はっとして二人を机の列から押し出したのは、思いもよらない友達同士の衝突に呆けていたヴェルトンだった。そのままエイルスとルナキースの腕を掴み、目を丸くした二人を講堂の外まで引っ張っていく。
「あ――」
エイルスは慌てて振り向いたが、教師はヴェルトンの言葉に頷いて既に奥の準備室に引っ込んだところだった。呼び止めようとする彼を、ヴェルトンの腕が引いて揺らす。
廊下に出たところで小柄な少年の勢いは失せ、ふうっと息が一つ吐き出された。彼は荒々しく掻き集めた、自分の分を含める三人分の勉強道具をそれぞれに押しつけ、ぽかんとしている二人の前で腰に手を当てた。
「なにイラついてるんだよ。エイルスがこうなのは毎度のことだろ。エイルスも急すぎるんだよいっつも。もう、びっくりしたし」
まずルナキースの腹を小突いて、空かさずエイルスの腕も叩く。しっかり持たれていなかった紙切れが一枚落ちたのを拾い上げて、もう一度押しつけ、ほら、と宿舎のほうを示す。
「とりあえず戻ろう。黙ってても仕方ないし、ここ寒いし」
言いながら一人先に進んでいく。今度は誰の腕も掴まなかったが、引っ張っていく力のある足取りだった。エイルスが躊躇いながらも足を前に出すと、ルナキースもやや狭い歩幅でそれに続いた。
最初の角を曲がる頃にはいつものように、三人横並びになっている。広い廊下ではぶつかる物もなく、授業の終わった今は擦れ違う人もなく。
「今日、これからパートの割り振りだったんじゃないの」
気づけばいつものように真ん中になっていたエイルスが、左隣のヴェルトンを見て呟くように言う。音楽の――授業ではなく、趣味でやる集まりの、一月後の発表会のパート割り。今日の夕食前に、と語っていたのはヴェルトンだった。
言われた彼は「あっ」と声を上げて立ち止まった。ルナキースも顔を上げて彼の方を見遣る。
「あー、でも、いいや。音楽は趣味だし。楽しいけど……あー」
ヴェルトンはしばらく迷って視線をさまよわせたりしていたが、友達のほうへと顔を戻すとふっと息を抜いて肩を落とした。なで肩気味のその上を、幅の余分なマントが滑る。
マントを直しながら言葉を探す彼に、また二人の視線が注がれる。
「ほら、人脈のほうが大事、だろ。二人ともよく知ってるじゃない」
「……なんだよ、それ」
「人脈って、もってまわった言い方だな」
どこか自信ありげな発言に、ルナキースは呆れ顔、エイルスは無表情に首を傾げて応じた。
冷たく見えても普段どおりのその対応にヴェルトンはやっと安心した。これで何日も会話をしないような酷い喧嘩にはならないと、彼は経験で知っているのだ。
こほんと咳払いし、彼は立ち止まったその場の壁に背を凭れる。
「とりあえず。パートはどこでもいいし、行くにしても行かないにしても僕は今日一日二人と一緒にいる。放っといて取っ組み合いで喧嘩されたら僕も困るし――あっ」
いくらか偉そうに、年長者のように言う。調子を取り戻したエイルスとルナキースを見ていたヴェルトンは言葉の終わりにまた声を上げ、にやりと口元を歪める。人差し指を一本立て、それを頭よりやや高いところまで持ち上げる。
「それで、僕は聞きにいくに一票」
「へっ」
言葉に、間抜けな声を上げたのはルナキースだった。エイルスは無言のまま、目を瞬いている。
「一人だったら行かないだろうけどさ、エイルスとなら……だって気になるは気になるだろ。エイルスが調べても出てこないなんて、きっとすごい物なんだろうし。埋めて実験してみてもいいなら話は別だけど」
「ええ、お前までそんな……」
味方側だと思っていた臆病な友人の、まるで冒険探検に浮かれるような熱のある発言にルナキースはたじろいだ。こうなっては雲行きは怪しい――というのは、彼が経験で知っている。
トントンという音は靴音。エイルスは壁に寄り、ヴェルトンの横に並んでルナキースを窺った。浮かんでいる笑みは、悪童の言葉が相応しい、企みと大胆さを備えた少年の笑顔だ。
「多数決では、こっちだけど、どうする」
こうなってしまえば自分に軍配が上がるとは、エイルスが経験から導き出した法則だ。三人は今までどおりの流れを踏み、今までと同じような行動に向っていく。
個人、一人きりであれば大人しく真面目な振る舞いをする少年たちも、集まればこうだ。どのような場所でも、三人揃えば飛び込んでいけるような気になる。
「言ったとおり、僕は一人でも行く。ただし、これの正体が分かっても、他の奴には教えない」
「気になるよな。ちょくちょく袋見てたし。ほら、逃げるのか、キース!」
渋くなった顔のルナキースに、二人の友達は容赦なく追い討ちをかける。ルナキースの中で、押し込めていた未知への興味が頭を擡げてくる。同時に、彼の唇はむっと尖った。
こんな言い合いをしているうちに、授業中に考えていた諸々は彼の中からすっかり抜け落ちていた。少年の心とは、元より多くのことに囚われてはいられないものだ。目の前のことこそ、きらりと光って視界に転がりこんだ何かこそ、一番重要なのである。
いつだってそうした物を取り出してくる友達に感じる嫉妬を飲み込んで、彼は一歩踏み出す。
「いって!」
「ばーか、調子乗るな。じゃあ行くぞ」
ヴェルトンの頭を叩いて荷物を抱えなおし、ルナキースは体の向きを変えた。釣鐘型のマントの端がくるりと丸く広がる。
最終的に決めるのはいつもルナキースの仕事だ。真新しい制服に包まれた、しかし見慣れた赤毛の目立つ背を見て、エイルスとヴェルトンは顔を見合わせてにやりと口の端を上げる。
「……よし、じゃ、連帯責任だ」
再びエイルスは中心に納まって。言いながら指差す窓の外には、日が落ちてきた中にぼんやり影を浮かばせる、大人たちの部屋が集う北側の宿舎があった。
初王の御代、忌わしき影、地の果てより来たる暗黒の軍勢が訪れた。
死と病、恐怖と嘆きが国を埋め尽くした。
人々は戦ったが、恐ろしき者たちの前には多くの屍が積み上げられるばかりだった。王は苦しみ、国は滅びに向っていた。
しかしあるとき、王と人々は勇ましい咆哮を聞いた。その声は空に轟き、見よ、森は動き、暗黒の軍勢は打ち倒された。
森を統べるのは如何なる大樹よりも大きく、如何なる山より重たく、如何なる者より優れた龍の長である。
偉大なる龍帝に護られ、我らの国は生き永らえたのである――……
「皆よく知っておるように、偉大なる龍帝は今もこの国を見守っておられる。この城より三百西進すれば国境だが、そこから更に進むと、森がある。此処からも見えるだろう。あれこそが龍の森だ」
豊かな白髭を蓄えた歴史の教師は、マントの下になった手をすっと西へ向けて言う。言葉は恭しく、声は、背筋を伸ばして息を入れた重たいものだった。
歴史の授業は大きな講堂で行われるが、満員に近く盛況だった。ほとんどの席は埋まり、子供たちは窮屈そうにしながら教本を開き、ペンを動かしている。
丘陵地帯に薄く広がる霧を幕に、和らいだ斜光は机を照らしている。それが友達の横顔を赤っぽく照らすのを横目に、ルナキースは退屈な基礎知識を耳に入れていた。
エイルスとヴェルトンは真面目に教師のほうを見て話を聞いている。彼らも知っている――貴族など、教育を受けたことがある者なら誰もが間違えずに諳んじることのできる昔話を、熱心な顔で。
ルナキースは口の中で半端な溜息を吐いた。
一日の休みを置いて、授業開始の初日、そして二日目の今日。彼は政治、古典、地方史、音楽……といった授業をエイルスやヴェルトンと共に回っていたが、どれ一つとして面白みを感じられていない。不真面目にしているわけではないがどうにも身が入らない。
将来、将来と考えれば、貴族の長男である彼の身の振り方などおおよそ決まっている。そのための話を聞いて頭に詰め込んで、ついでに人脈を作りながら六年過ごすのが此処での生活だと、彼は考えている。
ほとんど決まった将来への文句を言うような相手を、少年はまだ作っていない。似た立場のはずのヴェルトンは分かっているのかいないのか趣味に興じて楽しそうにしているし、エイルスはエイルスで、決められたわけでもないのに当たり前のように政官になる気でいる。エイルスの兄が「もっと自由に生きればいいのに」と零していたのもルナキースは知っているが、言えるはずもない。
遊ぶわけでもなく何かのために勉強するわけでもなく。どっちつかずな自分に、ルナキースは早くも愛想がつきかけている。その自分の横で何の迷いもなく、まっすぐ真面目に歩いている友達と比較すると、更に残念な気分になる。もし友達も同じように迷っているとしたら、安心もできるところだというのに。
頬杖ついた彼はちらりと視線を下の方に下ろした。エイルスのベルトに留められた緑の袋が見える。紐は固く、しかし他の学徒たちとは違う普通の結び方で結ばれている。
一度解いてしまった本人と居合わせた二人以外は、まだそのことに気づいていない。
あの中身は結局なんだろう――と考えるにも、彼は飽きてしまっていた。なにせ手掛かりはない。人に訊けるものでもない。多分他の二人もそうだろうと勘繰っていた。
鐘の音が響き渡る。頭上から降ってきたその響きに、転寝していた学徒たちが跳ね起きた。
「ふむ、いい具合だ。それでは今日はここまで。諸君、また次回」
教師が読み上げていた教本から顔を上げて言う。トン! と勢いよく本が閉じられた音を境に、学徒たちは立ち上がり縮こまっていた体を伸ばし始めた。本を閉じる音も随所で起こる。
「……おい、立てよ。出れないだろ」
今日の授業はこれが最後だ。誰もが帰ろうと動き始めた中、エイルスだけは荷物を纏めただけで座ってじっとしている。いつも手際のいい彼らしくない行動だった。
「僕、聞いてこようかと思う」
「何を?」
ざわつく中でエイルスが言う。ルナキースの後ろで立ち上がったヴェルトンはきょとんとして、椅子と机の間に挟まったマントを引き抜きながら訊ねる。
「袋の中身がなんなのか。先生なら、知ってらっしゃるかもしれないだろ」
エイルスの視線は、壁に広げていた地図や指示棒を纏めている教師の方に向けられていた。
「はあっ?」
言葉を聞いて同じほうに顔を向けたルナキースとヴェルトンは大きな声を上げた。何人かの学徒が変な物を見る視線を向けながら、通り過ぎていく。
その視線も、戻ってきた二人の視線も平然と受け止めて、エイルスは腰の袋を叩き癖のついた金の髪を撫でた。
「……図書館に行って、歯とか石とか、種も一応、調べてみたんだけど、図鑑を全部見ても同じものはなかったんだ。考え直したけど、もしかしたら人が作ったものかもしれない、ってぐらい。でもそうなると本で調べるんじゃ埒が明かない」
彼は学徒が粗方退出するのを待っているのだった。此処の教師が、家庭教師たちとは違って学徒たちの後に出て行くのを知ってのことだ。
冗談ではなさそうな口振りにルナキースが顔を顰めた。手にした教本の背を机にぶつけて、エイルスの顔を自分のほうへと上げさせる。
「お前、規則違反なんだぞ。わざわざ怒られに行くのかよ」
「だって、気になるだろ? 分からないことをそのままにしておくのは気分が悪いじゃないか。先生ならご存知かもしれないし」
それがなんだ、という口調だった。
平素大人たちに従って枠の中を往く彼は、こういうときだけはまるで融通の利かない頑固者だった。気になったことは調べないと気が済まない。立ち上がり、真っ向から友達の顔を見据えて威嚇する。
「別に君たちも来いとは言ってない。僕一人でも聞きに行く」
主張の強い碧色の瞳、きっぱりと言い放つエイルスに対峙したルナキースは表情からして賛同しかねているのは明らかだった。彼の目には苛立ちがある。
不穏な空気がじりりと周囲に滲んでいく。窓枠越しの朱い霧を背景に睨み合う二人。張り詰めた空気を壊せるのは本人たちだけと思われたが、
「君たち、質問でもあるのかね? そうでないなら早く帰りたまえ、此処は夕方冷えるよ」
「すみません、今出ますっ!」
降って沸いたのは低く響く教師の声。はっとして二人を机の列から押し出したのは、思いもよらない友達同士の衝突に呆けていたヴェルトンだった。そのままエイルスとルナキースの腕を掴み、目を丸くした二人を講堂の外まで引っ張っていく。
「あ――」
エイルスは慌てて振り向いたが、教師はヴェルトンの言葉に頷いて既に奥の準備室に引っ込んだところだった。呼び止めようとする彼を、ヴェルトンの腕が引いて揺らす。
廊下に出たところで小柄な少年の勢いは失せ、ふうっと息が一つ吐き出された。彼は荒々しく掻き集めた、自分の分を含める三人分の勉強道具をそれぞれに押しつけ、ぽかんとしている二人の前で腰に手を当てた。
「なにイラついてるんだよ。エイルスがこうなのは毎度のことだろ。エイルスも急すぎるんだよいっつも。もう、びっくりしたし」
まずルナキースの腹を小突いて、空かさずエイルスの腕も叩く。しっかり持たれていなかった紙切れが一枚落ちたのを拾い上げて、もう一度押しつけ、ほら、と宿舎のほうを示す。
「とりあえず戻ろう。黙ってても仕方ないし、ここ寒いし」
言いながら一人先に進んでいく。今度は誰の腕も掴まなかったが、引っ張っていく力のある足取りだった。エイルスが躊躇いながらも足を前に出すと、ルナキースもやや狭い歩幅でそれに続いた。
最初の角を曲がる頃にはいつものように、三人横並びになっている。広い廊下ではぶつかる物もなく、授業の終わった今は擦れ違う人もなく。
「今日、これからパートの割り振りだったんじゃないの」
気づけばいつものように真ん中になっていたエイルスが、左隣のヴェルトンを見て呟くように言う。音楽の――授業ではなく、趣味でやる集まりの、一月後の発表会のパート割り。今日の夕食前に、と語っていたのはヴェルトンだった。
言われた彼は「あっ」と声を上げて立ち止まった。ルナキースも顔を上げて彼の方を見遣る。
「あー、でも、いいや。音楽は趣味だし。楽しいけど……あー」
ヴェルトンはしばらく迷って視線をさまよわせたりしていたが、友達のほうへと顔を戻すとふっと息を抜いて肩を落とした。なで肩気味のその上を、幅の余分なマントが滑る。
マントを直しながら言葉を探す彼に、また二人の視線が注がれる。
「ほら、人脈のほうが大事、だろ。二人ともよく知ってるじゃない」
「……なんだよ、それ」
「人脈って、もってまわった言い方だな」
どこか自信ありげな発言に、ルナキースは呆れ顔、エイルスは無表情に首を傾げて応じた。
冷たく見えても普段どおりのその対応にヴェルトンはやっと安心した。これで何日も会話をしないような酷い喧嘩にはならないと、彼は経験で知っているのだ。
こほんと咳払いし、彼は立ち止まったその場の壁に背を凭れる。
「とりあえず。パートはどこでもいいし、行くにしても行かないにしても僕は今日一日二人と一緒にいる。放っといて取っ組み合いで喧嘩されたら僕も困るし――あっ」
いくらか偉そうに、年長者のように言う。調子を取り戻したエイルスとルナキースを見ていたヴェルトンは言葉の終わりにまた声を上げ、にやりと口元を歪める。人差し指を一本立て、それを頭よりやや高いところまで持ち上げる。
「それで、僕は聞きにいくに一票」
「へっ」
言葉に、間抜けな声を上げたのはルナキースだった。エイルスは無言のまま、目を瞬いている。
「一人だったら行かないだろうけどさ、エイルスとなら……だって気になるは気になるだろ。エイルスが調べても出てこないなんて、きっとすごい物なんだろうし。埋めて実験してみてもいいなら話は別だけど」
「ええ、お前までそんな……」
味方側だと思っていた臆病な友人の、まるで冒険探検に浮かれるような熱のある発言にルナキースはたじろいだ。こうなっては雲行きは怪しい――というのは、彼が経験で知っている。
トントンという音は靴音。エイルスは壁に寄り、ヴェルトンの横に並んでルナキースを窺った。浮かんでいる笑みは、悪童の言葉が相応しい、企みと大胆さを備えた少年の笑顔だ。
「多数決では、こっちだけど、どうする」
こうなってしまえば自分に軍配が上がるとは、エイルスが経験から導き出した法則だ。三人は今までどおりの流れを踏み、今までと同じような行動に向っていく。
個人、一人きりであれば大人しく真面目な振る舞いをする少年たちも、集まればこうだ。どのような場所でも、三人揃えば飛び込んでいけるような気になる。
「言ったとおり、僕は一人でも行く。ただし、これの正体が分かっても、他の奴には教えない」
「気になるよな。ちょくちょく袋見てたし。ほら、逃げるのか、キース!」
渋くなった顔のルナキースに、二人の友達は容赦なく追い討ちをかける。ルナキースの中で、押し込めていた未知への興味が頭を擡げてくる。同時に、彼の唇はむっと尖った。
こんな言い合いをしているうちに、授業中に考えていた諸々は彼の中からすっかり抜け落ちていた。少年の心とは、元より多くのことに囚われてはいられないものだ。目の前のことこそ、きらりと光って視界に転がりこんだ何かこそ、一番重要なのである。
いつだってそうした物を取り出してくる友達に感じる嫉妬を飲み込んで、彼は一歩踏み出す。
「いって!」
「ばーか、調子乗るな。じゃあ行くぞ」
ヴェルトンの頭を叩いて荷物を抱えなおし、ルナキースは体の向きを変えた。釣鐘型のマントの端がくるりと丸く広がる。
最終的に決めるのはいつもルナキースの仕事だ。真新しい制服に包まれた、しかし見慣れた赤毛の目立つ背を見て、エイルスとヴェルトンは顔を見合わせてにやりと口の端を上げる。
「……よし、じゃ、連帯責任だ」
再びエイルスは中心に納まって。言いながら指差す窓の外には、日が落ちてきた中にぼんやり影を浮かばせる、大人たちの部屋が集う北側の宿舎があった。
10
あなたにおすすめの小説
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました
しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、
「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。
――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。
試験会場を間違え、隣の建物で行われていた
特級厨師試験に合格してしまったのだ。
気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの
“超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。
一方、学院首席で一級魔法使いとなった
ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに――
「なんで料理で一番になってるのよ!?
あの女、魔法より料理の方が強くない!?」
すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、
天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
少しずつ距離を縮めていく。
魔法で国を守る最強魔術師。
料理で国を救う特級厨師。
――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、
ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。
すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
最愛の番に殺された獣王妃
望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。
彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。
手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。
聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。
哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて――
突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……?
「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」
謎の人物の言葉に、私が選択したのは――
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
婚約破棄された令嬢が記憶を消され、それを望んだ王子は後悔することになりました
kieiku
恋愛
「では、記憶消去の魔法を執行します」
王子に婚約破棄された公爵令嬢は、王子妃教育の知識を消し去るため、10歳以降の記憶を奪われることになった。そして記憶を失い、退行した令嬢の言葉が王子を後悔に突き落とす。
行き場を失った恋の終わらせ方
当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」
自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。
避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。
しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……
恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。
※他のサイトにも重複投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる