パルフェタムール

綿入しずる

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子供の頃ⅱ

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 祭司補さまの部屋は白っぽくて、俺と父さんが暮らしてる部屋より広くって、色んなものが置いてあった。テーブルを囲む椅子が大きいのと小さいのと、全部で四つもあった。四人で住んでるのかな、って思ったけど、寝台は奥に一個しかなかった。それも大きかったけど。
 きれいな飾りのついた大きな窓があって、開いたところから夕方の色が少し見えた。それが照らす机の上には絵みたいなものがあった。字は暗くてよく見えなかった。ペンと、人形みたいなものがいくつも置いてある。本棚もあった。そして何より、他よりは涼しかった。
 ――俺を部屋に入れた祭司補さまは、俺が落ち着くのを待っていたみたいだった。エーミールに連れてこられた俺を見て、
「親父さんが居ないと駄目かと思ったが、やっぱりそんなにガキでもないな」
 と言って笑った。俺は黙っていたけど、手招きされて進んだ。エーミールも一緒だと思ったのに、祭司補さまはエーミールをどこか他にやってしまった。それから、用意されてた食事を俺に出してくれた。
 灰色の目の祭司補さまは大きな椅子の横に俺を座らせて、ふかふかのパン、しかも蜂蜜をたらしたやつの皿を俺の膝の上に載せた。甘いのが染みてて、すごくおいしかったからすぐに食べてしまった。お茶も苦くなくておいしかった。食べる俺の横で、祭司補さまは色々と説明してくれた。
 さっきそうだったから、父さんとおんなじぐらい喋らないんだと思っていたのに、祭司補さまはよく喋る人だった。突っかかりも迷いもしないですらすらと喋る。ちゃんと考えて喋ってるのか分からないぐらいに。
 まず教えてもらったのは、祭司補さまが父さんを雇っていること、これからもそうだってこと、だから父さんも俺もここに住むほうが便利だってこと、ここにはそういう人がいっぱい居るんだってことだった。俺は父さんの仕事がなんなのか知らなかったけど、急に住む場所を変えるのは三回目だったからあんまり驚かなかった。一人で置いていかれたんじゃないってわかったら、ほんとに安心した。
 それでここが何なのか分かるかって聞かれた。聖堂でしょう、って言ったら頷いて、お茶のおかわりを入れながら、イーディア聖堂というんだと教えてくれた。星神教の白詰派の聖堂なんだって。白詰派っていうのははじめて聞いたけど、だから柱に花の模様があったの? って言ったら、縮こまってると思ったのによく見ているなって褒められた。
「そのとおり。働き者の馬が食う飼葉の彫刻だ。うちは働き者の為の聖堂でな。親父さんもそうってわけだ。お前もそうなるべきだ」
 馬があの花を食べるっていうのははじめて知った。俺は馬を近くで見たことがない。そう言ったら、明日見せてやろう、っていう。自分の馬が居るんだって。聖堂って、馬が居るんだ。
「代わりに、少し働けるか? 明日は書庫の掃除があるんだ。手伝えるな」
「できるよ、俺」
 いつもより元気に言ったのは、馬が見れるって言うのがうれしかったっていうのもあったし、働き者のための聖堂って聞いたからっていうのもあった。聖堂の祭司さまにいい子に見られたいっていうのも、ちょっとあった。大体そんなところ。
 でも。その後すぐに、よし、と言った祭司補さまがうれしそうだったのが、うれしかった。父さんはどんなにすぐに元気に答えてもそんな顔をしないし、仕事が早く終わっても、いつもの倍稼いでも、あんまりほめてくれない。
 この人は俺ががんばったら、ほめてくれるのかな。聖堂で字の勉強をしてた子たちを祭司さまがほめてたみたいに。ほめてくれるかも。こうして物を食べるときに横にいてくれるし。今の父さんみたいにほったらかしにしない。そういう期待ってやつが俺の中にはあった。
 この人はなんでやさしいんだろう。神さまにお仕えしてるから? それとも。
「祭司補さま、……は、俺の顔が好きなの?」
 だからやさしいのかな。なんて訊くと、祭司補さまは灰色の目を丸くして、やがて笑い出した。
「ミミルが言ったか。なら、そうなのかもな」
 自分のことなのに、エーミールの名前を出して他の人のことみたいに言う。俺は不思議でしょうがなかった。
 別に好きじゃなくて、エーミールの勘違いなのかもって思ったところで、外でされたみたいに顎を掴まれた。指先からあの匂いがする。いや、ずっとしてる。部屋中あの匂い。やっぱりお香だけじゃない。
「お前は綺麗な顔をしている。ここまで整ってる奴はなかなかいないぞ。大体の奴は、お前みたいな顔が好きだろう」
「……誰にも言われたことない」
 そんなの、誰にも言われたことがない。ずっと一緒にいる父さんだって、俺の顔は父さんじゃなくて母さんに似てるって言ったきりだ。きれいなんて言うのは、この人がはじめて。好きって言われたことだって、もちろん無い。
 祭司補さまはやっぱり楽しそうに笑ってる。指先で俺の唇に触って、引っかかる口の端の傷にも触った。蜂蜜がついてたみたいでべたっとした。少し痛い。
「誰かが何かを言うとは限らない。誰も言わないのに正しい、本当のことっていうのは、結構多いもんだ」
 それはそうだな、って思った。父さんは何にも言わないことが多い。たとえば仕事のこと。ここのことも、父さんは教えてくれなかった。
「ここにも何か塗ったほうがいいな。……アリースティート、字は読めるか」
 名前を呼ばれてどきりとした。一日に何回も名前を呼ばれるなんて、あんまりないことだから。
 手が離れて祭司補さまが立ち上がったので、俺も立ち上がろうとしたけど、椅子に戻された。見上げると、祭司補さまは今まで以上に大きく見えた。
「読める。全部。書けるし」
 読み書きはできる。それは俺のちょっとした自慢だった。他の子より難しい文章も読めるんだって、誰かに言われたことがあったから。これが出来ればどうにか仕事にありつけるって父さんも言ってたし。でも、俺の仕事は字なんか読めなくてもいいようなものばっかりやらせてたけど。
「じゃあ、俺が戻ってくるまで物に触るな。机には近づくんじゃない。いいか」
「はい」
 けれど――祭司補さまは満足そうに笑ったけど、なんだか厳しい言い方で言った。俺はちょっと不安になって、すぐに答えて、灰色の目がまだこっちを見ているので、頷いた。祭司補さまは俺の手を掴んで見て、爪も切ったほうがいいな、と呟く。
「他に欲しいものは?」
 何も思いつかなくて困っていると、祭司補さまは首を振って、待っていろと言って部屋から出ていく。父さんを見送る時のような気持ちだった。でも、行ったからってやることがない。仕事は――掃除の手伝いは明日って言ってたから。
 そう言えばやりかけの襟は、誰が完成させるんだろう。婆さん怒るかな。
 もうあそこの部屋に戻ることはないんだろうか? それなら……前に買ってもらった水晶とかが入った、あの箱だけ持って出てきたかったな。言えば取りに行ってもいいかな。
 俺は椅子の上から動かないでもう一度部屋を見回していた。気になる物はいっぱいあったけど、どれも、言われなくても触る気にはならなかっただろうなと思う。全部、自分とは違う世界の物ばかりに見えた。触るのが怖かった。段々、床に足を置いているのも心細くなった。抱え込んでしまおうと思ったけど、お祈りのときにそれをやって怒られたのを思い出してやめた。足を押さえるように膝に手を押しつける。
 あの人が居なくなると、部屋の匂いも気になった。全然知らないところに居るんだって改めて思う。父さんが本当に三日後に帰ってくるのか、また不安になってきた。
 大丈夫。父さんは何も話さないことも多いけど、俺を騙したりしない。
 言い聞かせてじっと待つ。ここは聖堂だから、怖いところじゃない。神さまと神さまにお仕えする人の場所だ。怖いわけがない。俺だってもう、小さくないんだから。一人でだって怖くない。大体、まだあんまり遅い時間じゃない。
 まだ戻ってこないの、と四回ぐらい思ったところで、祭司補さまは戻ってきた。こんなに人を待ったのは、父さんが初めて、一日以上家を開けたときぐらいじゃないか。扉の開いた音に顔を上げて、人の姿が見えると勝手に長い息が出た。
 祭司補さまはちょっと笑った。
「戻ってこないとでも思っていたのか。此処は俺の部屋だぞ。お前を置いていったとして、何処で寝ればいい。大事な物だってあるって言うのに――お前にも何かあるだろう? 明日取りに戻るか。掃除の前に」
 持ってきた物をテーブルの上に置きながら、また俺が考えてたことをなぞるように言うから、俺は驚いた。
「ああ、何も触っていないな。物分かりのいい子供だな、お前は」
「……祭司補さまはなんでも分かるの?」
 父さんは夜も寝ないことが多いんだって言葉も、言いつけを破ったりしないよって言葉も飲みこんで、俺は訊く。祭司補さまは心を読むっていう魔女みたいだ。でもそんなわけはないから、きっと仕掛けがある。父さんに教えてもらった、とか……
「お前の考えていることぐらいなら大体分かるさ」
 すごく簡単なことのように祭司補さまは言う。理由は言わない。どうして、どうやって、と口にする前に、俺の口は押えられた。次にカランと音がして、バターみたいな何かが塗りつけられる。
 灰色の目が俺を見つめている。別に怖い顔じゃないのになんでだかぞっと、どきっとした。
「何事も。よくよく観察すれば分かるようになる。俺は神様がお創りになられたものを、そうして詳しく見てみなきゃならないんだよ」
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