上 下
43 / 88

井戸水ガール

しおりを挟む
 彼女は井戸水を飲んで生きてきた。
 彼女の実家は、祖父の代まで酒蔵を営んでいた。蔵はすでにつぶれてしまっているが、酒造りに使っていた井戸はまだ家の敷地内に残っていて、美味しい水をこんこんと湧き出し続けている。
 僕と彼女は小学一年生のときに知り合った。同じクラスだった。元気な娘で、肌が艶々として、喧嘩で男の子をぶちのめしたりしていた。
 僕は弱虫で泣き虫でよくいじめられていたのだが、彼女はなぜか僕が泣かされると吹っ飛んできて、いじめっ子を問答無用で殴りつけた。反撃されて負けることもあったが、彼女は僕の前で戦い続けた。おかげで僕はいじめられなくなった。
 二年生のとき、僕は訊いた。
「どうして僕を助けてくれるの?」
「だっておまえ、かわいいじゃん」
 女の子からかわいいと言われて、少しもうれしくなかったが、彼女が僕に好意らしいものを抱いているのだと子ども心にもわかって、それについては悪い気はしなかった。
 僕は彼女の家に遊びに行くようになった。二階建ての一軒家は建て替えられて新しいものだったが、広い庭の隅に古い井戸があった。のぞき込んで見ると、子どもには計り知れないほどの深さに感じられた。実際にはそれほど深くはないと後に知ることになるのだが。
「あたしはこの水を飲んで生きているんだ。水道水なんかとは比べものにならないほど美味い水なんだぜ。あたしはこれを飲んでいるから強いんだ」
 彼女は手動のポンプを押して水を出し、コップに注いで飲ませてくれた。確かに水道水よりは美味しい気がしたが、特別に繊細な舌を持っているわけではない僕には、その美味さはよくわからなかった。しかし、正直に言うと彼女に嫌われる気がした。
「美味しいね」
「そうだろう。もっと飲め」
 彼女は笑い、何杯も僕に井戸水を飲ませた。
 僕は小学校、中学校と彼女と同じ公立学校に通った。同じクラスになることもあり、ちがうこともあったが、つきあいは変わらずに続いた。
 僕はずっと内気で読書が好きなおとなしい子どもだった。いじめられることはほとんどなくなっていた。いじめる側に回ることはけっしてなかった。
 一方彼女はスポーツ好きな快活で活動的な女子として常に目立っていた。中学生のときは美人で肌がきれいだから、かなりモテていたようだ。
 一貫して彼女は僕を保護し続け、僕は彼女の庇護下にあった。友達だったが、地位的には彼女が上であり、僕は下だった。
 それが転換したのは、高校一年生のときだ。僕は偏差値の高い私立の進学校に行き、彼女は地元の公立高校に進学した。学校が異なって縁遠くなり、たまに彼女が寂しそうに僕を見ているのに気づいた。
 夏休みのときに告られた。
「おまえが好きだ。つきあってくれ!」
「いいよ。僕もきみが好きだ」
 僕と彼女は恋人同士になり、対等な関係になった。それでも彼女が元気にしゃべりまくり、僕は基本的には聞き役というのは変わらなかった。ただ、彼女は僕にぞっこんみたいで、ひょっとしたら、僕の方が立場は上なのかもしれなかった。
 彼女の元気がなくなったのは、高校二年生のときだ。近所に大規模な介護付き高齢者専用住宅が建設され、そこが地下水を利用し始めた。ほどなくして、彼女の家の井戸が枯れてしまった。より深い井戸から大量の水を取られてしまったためだ。
 自宅の井戸水が飲めなくなって、みるみるうちに彼女は萎れてきた。肌は荒れ、表情から生気がなくなってきた。僕は心配した。
「水道水が不味い」
「ペットボトルの水を飲みなよ。富士山の水とかそういうやつ」
「飲んでみた。だめだ。うちの井戸水は甘露だったんだ」
 彼女はスポーツにも打ち込めなくなり、二段にまで昇段していた剣道をやめた。言葉数も少なくなり、僕がしゃべり、彼女が聞くということが増えてきた。
 僕は本当に彼女が好きだった。萎れているのが見ていられなかった。どうすれば元気になってくれるか考えた。
「ねぇ、もし仮に、将来僕ときみが結婚したらさ」と言ったら、彼女の目がかすかに輝いた。
「僕はきみの婿になって、きみの家に住むよ。一生懸命働いて、お金を貯める。そして、井戸を掘り直そう。高齢者住宅のやつより深い井戸を掘るんだ。きっとまた水が湧き出るようになる。素敵な甘露がまた飲めるよ」
 彼女の目が生き返った。
「そうだな。よし、婿にしてやるよ。おまえも毎日うちの井戸水を飲んだら、見ちがえるほど元気になるぜ!」
 彼女はまだ井戸水を飲むことはできないが、溌剌と高校に通うようになり、剣道部に復帰した。
「早く結婚しようぜ!」と外出先で言うのは困りものである。
しおりを挟む

処理中です...