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現代アーティストの彼女の鬼気迫る顔が好き

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 僕の彼女は現代アーティストである。
 インスタレーションという立体作品をよく作っている。
 僕には奇怪なものとしか見えず、まったく理解できない。
 彼女とは高校時代に知り合い、ひとめ惚れして3年間片想いし、卒業式の日に告白した。それ以来の付き合いだ。 
 僕は経済学科に、彼女は油画科に進学した。大学在学中に何度か浮気されたが、愛し続けた。彼女は失恋するたびに僕のもとへ戻ってくる。
 美大時代の彼女について語ろう。
 僕はときどき彼女の美大に侵入し、その制作風景を見た。彼女の作品は理解できないけれど、制作中の彼女の鬼気迫る顔に惹かれ、やがてそれが至上の美だと思うようになった。彼女の裸体よりも、狂気を孕む顔の方がエロティックに見えることもあった。僕は自分を変態かと疑ったが、自分の感じ方は変えられない。変態なら変態でいいよ。
 彼女はたびたび制作スタイルを変えた。最初の変化は大学1年生の秋で、油画科に所属しながら油絵ではなく、インスタレーションを作り始めた。なんの転向なのかわけがわからなかったが、別に珍しいことではないと彼女は説明した。
 2年生の春、布と糸から成るインスタレーションを作っていたときのことだ。たまに見る鬼気迫る顔が表れ、僕は惚れ惚れと眺めていた。やがて彼女は鋏を握り、喚きながら自作を切り裂き始めた。僕は興奮しながらガン見していた。こういうときの彼女が最高に美しいのだ。
 さっきまで制作中の作品だった布と糸がすべて床に落ちた後、彼女は鋏を持って僕の方へゆらりと向かってきたので逃げた。彼女は僕を切りかねない。僕は痛いし、彼女は傷害罪で捕まる。それは避けなければならない。
 1か月後、僕が浮き浮きと美大内の彼女に与えられたアトリエに行ったとき、彼女は不定形な鉄板を溶接していた。まったく意味がわからなかったが、悩み多き彼女の顔に見惚れた。その作品もまた完成せず、後日自らハンマーで破壊しようとしたのだが、果たせなかった。その廃鉄板を彼女は自費で産業廃棄物として捨てた。ちなみに彼女の実家はそこそこお金持ちで、ひとり娘で甘やかされている。廃棄費用は破格のお小遣いから出したはずだ。彼女はバイトをしたことがない。
 3年生のときはプラスチックやら粘土やら段ボール箱やらガラスやら様々な素材に手を出した。その頃彼女は荒れていて、少なくとも5人の僕以外の男と付き合った。僕は待ち、彼女は4年生の春に僕のもとへ戻って来た。付言するが、1年生のときも2年生のときにも浮気されている。
 僕は浮気したことはないよ。3年生のときにつらくて風俗店には行ったけれど。
 美大4年生は卒業作品を制作しなくてはならない。彼女は素材をペットボトルに変えた。音大生に協力を求めて、まったく耳に心地よくない現代音楽が流れる中で、扇風機に吹かれた300個の500ミリリットルのカラフルにペインティングされたプラスチックボトルがカラカラと鳴る作品だった。タイトルは「打ち寄せるペットボトルあるいはわたしの繰り返し見る悪夢」。その作品で彼女は卒業した。地球環境問題をテーマにしたアートらしいが、もちろん僕にはそのよさは皆目わからなかった。
 ちなみに僕の卒業論文のタイトルは「マルクスの現代的意味を考える」である。あまりいい出来ではなかった。
 大学卒業後のことも語ろう。
 僕は大手の自動車部品メーカーの社員となり、彼女はニートの自称現代アーティストになった。実家で制作を続けながら、毎年、日本現代アートの新人賞である岡本次郎賞に応募している。
 僕と彼女は付き合い続け、様々な店で酒を飲んだ。居酒屋、バー、フレンチ、イタリアン、寿司、天ぷら、懐石料理、立ち飲み等々。彼女は弱いくせによく飲んだ。飲食費用はすべて僕が出した。彼女は当然のような顔でおごられている。「ごちそうさま」ぐらいは言うが、「ありがとう」とは言ったことがない。惚れた弱み? 我ながらそんなものは超越していると思う。軽く数百万円貢いでいる。
 もちろん僕にも快楽はある。彼女が話すアート理論について僕はちっとも理解できないが、据わった目で滔々と話すその顔が堪らないのだ。やっぱり僕は変態かな?
 誓って言うが、僕はマゾヒストではないよ。彼女が機嫌が悪くなって単純に僕を口汚く罵るときには、逃げる。狂気的な彼女を愛しているが、暴力をふるおうとするときはふつうに嫌だ。ハイヒールで踏まれたいとかは思ったことがない。
 彼女の制作現場を見るため、僕は休日に彼女の実家に通う。ご両親とはとても仲がいい。彼女の親とは思えないほど二人とも人格者だ。お母さんから「うちの娘と結婚してあげてね」と言われたことがある。
 ニートの自称アーティストは学生時代より頻繁に狂気に囚われるようになった。僕はぞくぞくとその顔を見る。ヒステリックに騒ぐことは珍しくない。そんな彼女と付き合える男は少ないのだろう、浮気は激減した。荒れて収まりがつかなくなったとき、僕は彼女を酒場に連れて行く。アルコールが彼女を鎮める。逆にとんでもなく暴飲して酒乱女になるときもあるが、ゲロを吐いて潰れれば終わりだ。僕は翌日が仕事でも、彼女の気が済むか、酔い潰れるかするまで付き合う。酔い潰れたら、実家に送り届けてあげるか、僕の独り暮らしのアパートへ運ぶ。
 彼女はわけのわからないインスタレーションを作り続け、7年間岡本次郎賞に落選し続けた。
 大学卒業後8年め、彼女はふいに油絵に戻り、顔のついた植物のシリーズを描き始めた。様々な表情の自画像と熱帯植物の僕には意味のわからない融合。その5枚の油絵のセットが岡本次郎賞を受賞した。
 彼女はついに本物の現代アーティストとなったのだ。現代アートの姫君と呼ばれるようになった。僕はもう姫君という歳ではないだろうと思ったが、彼女は童顔なのだ。
 僕と彼女が31歳のとき、彼女はまた浮気した。相手は成功している若手の画廊経営者だった。僕は別れるのを待ったが、今度は彼女は帰って来なかった。結婚しやがったのだ。彼女は元カレの僕を結婚披露宴に招待した。現代アーティストの考えることはわからない。僕は断腸の想いで出席した。ごく普通の披露宴が僕にとっては最大の意味不明な現代アートに見えた。彼女の両親が僕を気の毒そうに見ていたのは忘れられない。
 その10年後、離婚して二人の子どもを連れた彼女は僕と再婚するのだが、僕の心中は通常のラブストーリーのハッピーエンドとは程遠いものであったことを付言しておこう。
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