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第39話 煉獄盆地の戦い

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 ロンドンは豚王の死を知らない。
 このニュースが煉獄盆地に届くより早く、人類史上特筆すべき人と豚との特殊な会戦が始まろうとしていた。
 新進気鋭の古生物学者吉田ロンドンによって指揮され、壮絶な戦闘となるこの戦争は、その戦場の名から「煉獄盆地の戦い」と呼ばれる。
 ロンドンは煉獄盆地から遊子高原へ十キロメートルの地点に歩哨を置いていた。豚王の死から五時間後、未だ闇がのさばる午前四時三十分、彼らは野豚の大群を発見する。
 いや、正確には発見ではない。
 彼らは地鳴りを聴いたのだ。
 歩哨たちは初め、地震かと錯覚した。かすかな地鳴りと共に、本当に地面が揺れていたからだ。しかし、音と振動は止むどころか、クレッシェンドしてきたのである。
 彼らには、この異変を引き起こしているものが生物の群れだとは、ちょっと信じられなかった。しかしそれ以外に長時間の地鳴りと地震を生じさせている原因が思い当たらない。闇にさえぎられ、正体を視認できないのが何とももどかしかった。
 彼らはこれを野豚の到来として、指揮官に知らせることにした。報告は早ければ早いほどよく、誤報なら訂正すれば済む。
 四時五十分、歩哨たちは狼火を上げた。
 地鳴りは依然として続いていた。夜が明けるまで、彼らは野豚が暗闇の中から突然姿を現し、自分たちを踏みつぶしていくのではないかと怯えていた。地響きの音が鼓膜を圧迫するほど高まっていき、今にも想像が現実になるのではないかと思えた。野豚を確認しなければならないという義務感だけが、彼らをささえていた。
 そして、薄明が訪れた。
 明るさがにじみ出してきた空に、土煙が舞い上がっていた。
 距離は、歩哨たちが想像していたほどには接近していなかった。個々の豚はまだまったく視認できない。ただ、彼らは盆地の南方に巨大な土煙が上がっているのを見た。
 それが、ロンドン軍と野豚の大群との遭遇であった。
 ロンドンは、狼火が上がったとの報告で、早朝に起こされた。彼は昨夜ラックスマンと深酒を飲み、まだ眠かった。もごもごとした声で当番兵に全軍を起床、集結させるよう命じ、自分は「あと五分」と言って二度寝してしまった。
 十五分後、当番兵が再び彼を起こした。仕方なく彼は寝袋から這い出した。そして、隣でいびきをかいているラックスマンを道連れとばかりに蹴り起こした。
 低血圧の二人は、豚皮のテントの中で最後の話し合いをした。
「ま、なるべく死なないようにしようや」
「そうだな。こんなところで死んだら、墓もつくってもらえねえ」
 そう言いながらロンドンは、おれが死んだら彼女は泣いてくれるだろうか、と考えていた。あのかわいいキャベツ姫の面影を、彼は胸中に抱き続けていた。生き残れたら、やっぱり彼女をさらいに行こう、と彼は思った。
 ラックスマンの顔色はいつもより青白かった。彼は火攻め隊の隊長として、この戦いの火蓋を切ることになっている。戦死の可能性はロンドンより高い。彼は戦後何をして遊ぶかを考え、緊張を解きほぐそうとした。
 ラックスマンはロンドンに「金は余っているのか?」と訊いた。
「実は一億円残している。充分夢のある金額だろう?」
 ロンドンがこっそりと言った。
「なぁ、その金で船を買わないか? 大海原を渡れるようなやつをさ」
「いいね。他の大陸へ行ったら、生きた化石を見つけることができるかもしれない」
「よーし、決まりだ。豚に勝って、海へ乗り出そう!」
 二人は上機嫌で握手した。
 彼らがテントから出ると、すでに兵士たちは整列していた。歩哨たちが聴いた地鳴りが盆地中央の野営地にも届き始めており、彼らを緊張させているようすだった。
 南を向くと、天山山脈と地山山脈の間に野豚が上げる土煙が見える。
「すげえな。なんか、ゾクゾクしてきたぜ。これが武者震いってやつなのかな?」
「旅人震いだろ? 現代でもっとも危険な現象を見られるんだ。これで興奮しなかったら、旅をしてる意味はねえ」
 二人とも、強がりを言った。
 本当のところロンドンは、おれがこの戦いの指揮官だなんて下手なジョークだよな、と未だに思っていた。彼は似合わない少将の階級章を人差し指で弾き、「無謀なことをしてるよなぁ」とつぶやいた。
「遊子高原を思い出すよ。あれと対決すると思うと、ちょっと怖いな」
 ラックスマンが本音を漏らした。
 そしてそれを振り切るように、部下に命令した。
「火攻め隊、可燃物山へ行くぞ! おれに続け!」
 ラックスマンは千名の兵を率い、南へ向かって走った。
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