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第50話 ロンドン、死の世界を行く

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 煉獄盆地で敗北した後、ロンドンはひとりでブダペストへと向かった。
 いまさらブダペストへ行ったところで、何かできるわけでもない。しかし彼は行かずにはいられなかった。
 野豚の破壊力を目の当たりにした。火攻めも水攻めも失敗した。それを世界最大の力を持つ豚王国軍が阻止することができるのか、見届けたかった。できうるならば、人類の勝利を見せてほしい。
 そして、もしかなうのなら、キャベツ姫にひとめ会いたい……。
 しかしあの怒濤のような野豚の行進を止めるのは、百万の大軍をもってしても無理なのでは……。そんな不安に駆られながら、ロンドンはブダペストへと向かっていた。
 野豚の大群のあとを追って、首都への道を行く。それは豚に蹂躙された死の世界を行くということであった。
 一片のキャベツも残されていない荒地。ため池の水は飲み尽くされ、干上がっている。わずかばかりの潤いもなく、砂と土と岩とがれきだけが視界一面に広がっている。
 豚牧場も跡形もなくなっていた。家畜豚は食われたのか、野豚の群れに吸収されたのか、そんなこともわからない。
 時折り人と豚の骨が見つかる。人の骨はむろん、豚に踏み潰されて死に、食われた跡だった。豚の骨は、家畜豚のものか、脱落した野豚のものか、不明だった。仲間の死体すらも食料とし、群れは進んでいるのかもしれない。
 点在する街は踏み荒らされ、どこも廃墟と化していた。脆弱な家屋は砕け散り、堅牢な建物は崩れてはいないものの、内部は無惨に荒らされていた。逃げ遅れた人々の骨が路上に散乱していることもあった。
 途中にあったそれなりに大きな都市ブダボーンも終わっていた。ほどほどに栄えていた平和な街に、今はもう誰も残っていない。
 がれきの山が目立つばかり。不幸中の幸いというべきか、人骨はそれほど多くは散らばっていなかった。ほとんどの人はどこかへ避難したのだろう。
 ロンドンは比較的破壊の少ない家屋に入り、何か食べ物はないか探した。何も見つからなかった。彼は豚に荒らされた室内で腰を下ろし、リュックからキャベツを取り出してバリバリと食べた。煉獄盆地から持てるだけの水と食料を持ってきたが、途中でほとんど補給できないので、貴重品だ。死の世界を旅するのは、本当に苦しい。肉体的にも、精神的にも。
「行こう、時間がない。豚に追いつくんだ、ブダペストで戦いが起こる前に」
 ブダペストへ向かって懸命に歩いて、またひとつ廃墟となった街を見つけた。そこで、奇跡的に生き残っていた数人と出会った。ロンドンは驚いた。
「あなたがた、どうやって生き延びたのですか?」
「地下室に隠れていたんだ。二日間、地上を豚が進み続けていた。生きた心地もしなかったよ。でもどうにか地下室には踏み込まれず、生き残れた」
「それはよかった」
「まぁ、よかったんだが、しかし街はこのありさまだ。これからどうすればいいのか……」
 彼らは途方に暮れていた。再建はどれだけ大変なことかと想像し、ロンドン暗澹たる気持ちになった。周辺の街もすべて廃墟と化し、近隣から助けが差し伸べられる見込みはない。
 これで首都ブダペストが破壊されれば、豚王国はどうなってしまうのだろう。
「ブダペストは守り切れるのでしょうか?」
「そんなことはわしらにはわからんが、女王陛下ががんばっているという噂は聞いた」
「女王陛下……?」
「ああ、あんたはまだ知らんのか。先代豚王陛下は亡くなられ、キャベツ姫様が女王に即位されたんだ」
「姫が、女王に?」
「そうさ。志願兵を募集され、ものすごい勢いで軍備増強をされているそうだ。あの方は本気でブダペストを守ろうとしている。守れればよいが……」
 ロンドンには衝撃的な情報だった。
 あの傲慢な豚王が死に、キャベツ姫が女王になったなんて!
「姫が、ブダペストを守ろうとしているのか……」
 なんてこった、こうしてはいられない、とロンドンは思った。彼は急に走り出した。
 首都防衛戦争が始まる前に、ブダペストへ駆けつけたいという衝動のまま、ロンドンは走った。走り続けた。
 そして、とある丘を越えたとき、再びそれを見た。
 野豚の大群。
 茫洋と広がる凶悪な野豚群。
 煉獄盆地で火攻め、水攻めを突破した怒濤のような豚の軍団。
 これを迂回して、ブダペストへ行くのは困難だった。
「そりゃそうだよな……。最初からわかっていたことだ。おれとブダペストの間に、こいつらがいることは……」
 ロンドンは野豚に追いついた。しかし追い抜き、ブダペストに先回りするのは、至難だ。
 彼は猛烈な土煙をあげる野豚の群れのあとを追った。
 とにかく、こいつらを尾行して、ブダペストまで行こう、と思った。
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