旦那様を救えるのは私だけ!

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26話 旦那様、嫉妬する

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 一際低い声だった。
 それに対し、伯爵はこれはこれはと面白そうに笑う。
 彼の手は旦那様によって掴まれていたけれど、それはすぐ離された。

「フォーレ伯爵。貴殿も貴族なら、今妻にしようとした事について、重々承知しているだろう」
「髪に糸くずがついていたようなので、つい」
「むやみに女性に触れるべきではないと思うが……それに、男女が二人きりで部屋にいるというのも問題では。貴殿には護衛を三人つけていたはず」
「ええ、まあ、そうですね。僕の行動は浅慮でした。失礼を、クラメント公爵。夫人も失礼しました」
「ええ……」

 足取り軽く、伯爵は部屋を出て行く。
 今度はきちんと足音が聞こえた。
 おかしいわ。あの音はヴァイオリンを弾いてる最中、一度たりとも聞いていない。
 足音を立てずに歩くにしても、足音を消す魔法を使ったにしても、レベルが一つ違う。
 あんな完璧に消せるなんて。

「クラシオン」
「あ、はい」

 振り向いた旦那様が私の両肩に手を置いて、何もされていないかときいてくる。

「ええ、旦那様が間に入って下さったので、なにも」
「本当に? 触れられていないか? 無体なことは?」
「はい、まったくありません」
「……良かった」

 本当に安心したのだろう、肩が降りて顔が緩む。

「何故一人でいた」
「え、ええと、タイミングが少し悪くて」

 ヴァイオリンを片し、旦那様と一緒に部屋を出る。
 私は起きた事をそのまま話すしかない。
 王城の練習部屋から馬車までの間の道すがら、旦那様が不服そうに唸った。
 伯爵が部屋に入ってきたのは、本当に間が悪かったとしか言いようがない。
 旦那様も私の話を聴いて、遅れてきた自分が悪かったと再度唸った。

「いいえ、旦那様は悪くありません」
「君は私の言葉通り、部屋で待っていたんだ」
「ですが、本来ノックもせずに入り、名乗りも遅れた伯爵にも非があります」

 馬車に乗っても、この話は続いた。
 旦那様は納得がいかないといった様子で。

「しかし許せん。伯爵はクラシオンに触れようとしたんだぞ?! ああ、だから嫌だったんだ」

 王城で人目に触れれば、ああいう輩が出てくるから、と旦那様が歯噛みしている。
 あら、もしかして旦那さまったら。

「旦那様、私のことを心配して下さっているのですか?」
「え! あ、いや、そういうわけでは、」

 やはり勘違いだったかしら。
 最近旦那様が優しいから、つい調子に乗ったことを言ったわ。

「私、勘違いを」
「違う! クラシオンの事が、いや、その、なんというか」
「旦那様?」

 珍しく旦那様が耳を赤くして狼狽していた。
 そういえば、以前、旦那様を迎えに行って、二度目はしてはいけないとお叱りを受けた時、付き添って下さったライムンダ侯爵とアンヘリカが言っていた。
 旦那様は照れ隠しをする時、目元や耳が赤くなると。
 とすれば、今目の前の旦那様は、照れているということ?
 怒っているとか、そういうことではなく、もしかして本当に心配して下さったの?
 もしそうなら、とても喜ばしいことだわ。

「旦那様」
「え、あ、なんだ」
「ご安心下さい。もうあのような隙は見せません」
「そ、そうか……」
「そうでした。旦那様は御存知ないのですね」

 今現在、洗脳の最中にいるのなら、知るはずがない。スプレの話でなくて、スプリミの話だもの。
 旦那様が不思議そうに私を見つめている。

「ヴォルフガング・フォルトゥニーノ・フォーレ伯爵は敵なのです」
「……は?」
「スプリミ三幹部、すべての名が入っています」
「え?」

 二期のスプリミは敵として三幹部が現れる。
 ルトゥニ、フォーレ、ガングの三人だ。
 伯爵の名前には、この三人すべての名前が入っている。

「一人で三役こなしてはいますが、敵である事に変わりはないのです」

 洗脳が続く旦那様に、悪の統治者オスクロは敢えて伝えていないのだろう。
 敵を欺くには味方からという言葉もあるぐらいだ。慎重で冷静なオスクロのこと、やりかねない。

「そ、そうか……」

 旦那様の身体から強張りが消える。
 私は許可も得ずに、旦那様の隣に座った。
 少しだけ旦那様の身体が震えたけど、そこは見ない振りをして手をとった。
 はしたないと怒られることはなかった。

「洗脳が解けかかっている旦那様になら届くと思って申し上げます」
「クラシオン」
「大丈夫です、私は負けません! 伯爵は必ず倒してみせますわ!」
「ああ、そっちか……」

 少し視線を下げて、旦那様は幻滅しなかったかと、小さく訊いてきた。

「幻滅?」
「大人気なかった」

 もっとスマートにと思っていたと旦那様が言う。
 伯爵とのやり取りの事らしい。

「旦那様は私を庇って下さいました」
「え?」
「来て下さって安心しましたし、嬉しかったのですよ?」
「本当に?」
「ええ、幻滅なんてありえません」
「クラシオン……」

 視線を上げた旦那様の瞳が揺れていた。
 ああ、理性が洗脳と戦っている。
 あいている片手が私の頬を包んだ。

「クラシオン」
「旦那様?」

 視線が逸らせない。
 旦那様は私の名を呼ぶばかりで、何を訴えようとしているのか分からなかった。
 その瞳に吸い込まれそう、と思った時。

「旦那様」
「!」

 馬車の扉が叩かれ、旦那様が瞠目して離れた。
 手を離され、咳払い一つ。
 居直った旦那様は戸を開けさせて、するりと出て行った。

「クラシオン」

 手を差し出され、自身の手を乗せる。
 先程とは全く違う声音に戸惑いを覚えつつも、私は屋敷に帰った。
 観劇の時と同じ、旦那様が何を訴えていたのか分からずじまいだった。
 それでも私の声が僅かでも届き、理性で洗脳を制して触れてくれているのではと思うと、仕様もなく嬉しくなってしまう。不思議なものね。
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