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生きる時間
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発見してすぐに杜氏は救急隊に連絡した。山古志と俺は声の限り稲里の名前を呼んだ。杜氏は稲里の母にも連絡し、救助を待った。それはひどく長い時間だった。
ひしゃげた車から運び出された稲里は血まみれだった。母親が救急車に乗り込み、俺たちも救急病院に向かった。手術中のランプが灯る。三時間に渡る手術が施された。長い夜が明けた。
「出来ることはしました。今日一日が山でしょう」
稲里の母は、気丈にわかりましたと、震える声で答えた。
「そろそろ甑が上がる時間だ」
杜氏はそう言った。帰りますよと淡々と告げた。山古志は重い腰を上げ、俺は杜氏に言った。
「今は、潤が大変な時なんですよ」
徳明君と杜氏が淡々と言った。
「私たちがここにいても何もできないし、酒は止まってくれない。酒も生きてるんだよ」
でもと、なおも食い下がろうとする俺を稲里の母が
「行ってください。私が息子と一緒にいます。酒造りがどういうものか、私にもわかります」
と俺の背中を押した。
帰ると丁度甑が上がる直前だった。末廣を中心に指揮を執り、全ての準備がなされていた。
「今日はゴンに酛に入ってもらうけど、出来るかい? 代わろうか?」
「やらせてください」
本当は末廣に頼るべきだったかもしれない。それでも俺は大吟醸の酒母の仕込みをやらねばならなかった。
麹を入れ、冷ました蒸米をタンクに投入する。
(重たいな……)
手櫂をしながら、俺は懸命に混ぜ続けた。もろみと麹を潰さないように、あの日の稲里と同じように。あの日に教わってから、何度も手櫂は練習した。そして、いつも隣に稲里がいた。
「酛温度はどう?」
心配してきた末廣が尋ねた。
「十八・五度、正常です」
「うん、状態も良いみたいだね」
合格だよと末廣が言った。
アルミ缶の筒を差して出来上がった。
『この中に麹の酵素が入った水が溜まるんだ。それを時々周りにかけてやる』
稲里の声が蘇る。
(出来たよ、潤。戻って来いよ。まだ教わってないこと沢山あるんだから)
静かに泡が弾ける音を聴きながら、俺は心の底から祈った。
ひしゃげた車から運び出された稲里は血まみれだった。母親が救急車に乗り込み、俺たちも救急病院に向かった。手術中のランプが灯る。三時間に渡る手術が施された。長い夜が明けた。
「出来ることはしました。今日一日が山でしょう」
稲里の母は、気丈にわかりましたと、震える声で答えた。
「そろそろ甑が上がる時間だ」
杜氏はそう言った。帰りますよと淡々と告げた。山古志は重い腰を上げ、俺は杜氏に言った。
「今は、潤が大変な時なんですよ」
徳明君と杜氏が淡々と言った。
「私たちがここにいても何もできないし、酒は止まってくれない。酒も生きてるんだよ」
でもと、なおも食い下がろうとする俺を稲里の母が
「行ってください。私が息子と一緒にいます。酒造りがどういうものか、私にもわかります」
と俺の背中を押した。
帰ると丁度甑が上がる直前だった。末廣を中心に指揮を執り、全ての準備がなされていた。
「今日はゴンに酛に入ってもらうけど、出来るかい? 代わろうか?」
「やらせてください」
本当は末廣に頼るべきだったかもしれない。それでも俺は大吟醸の酒母の仕込みをやらねばならなかった。
麹を入れ、冷ました蒸米をタンクに投入する。
(重たいな……)
手櫂をしながら、俺は懸命に混ぜ続けた。もろみと麹を潰さないように、あの日の稲里と同じように。あの日に教わってから、何度も手櫂は練習した。そして、いつも隣に稲里がいた。
「酛温度はどう?」
心配してきた末廣が尋ねた。
「十八・五度、正常です」
「うん、状態も良いみたいだね」
合格だよと末廣が言った。
アルミ缶の筒を差して出来上がった。
『この中に麹の酵素が入った水が溜まるんだ。それを時々周りにかけてやる』
稲里の声が蘇る。
(出来たよ、潤。戻って来いよ。まだ教わってないこと沢山あるんだから)
静かに泡が弾ける音を聴きながら、俺は心の底から祈った。
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