翠の雨と銀の笛

三ツ矢

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翠の雨と銀の笛

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 この世には、森羅万象しんらばんしょう、様々なものに八百万やおよろずの神々が宿っている。この国が出来るそのずっと前から、親から子へ言い伝えられてきた。そのため僕らが暮らすこの国では国教が古き神々を祀る多神教たしんきょうだった。家には神棚があるのが普通だし、食事前にお祈りすることも、高校の玄関に知恵の神のほこらがあって、毎朝生徒はお参りするのも当然だった。神々は僕らの生活の一部として溶け込んでいた。

 僕が高校一年生でサッカー部のレギュラー入りを果たした最初の試合のことだった。僕は必死にボールを守り、チームメイトにパスしようとした。その時強烈なタックルを受け、右足が捻じれた様に曲がりブチッと嫌な音が僕の体の中でした。僕はその場に倒れ込んだ。そしてそのまま連れていかれた病院で下された診断は「前十字靭帯断裂ぜんじゅうじじんたいだんれつ」という宣告せんこくだった。前十字靭帯は自然に治癒することはない。激しいスポーツをしなければ、日常生活を送ることもできる。しかし、僕はもう一度フィールドに立ちたいという気持ちが強かった。僕は靭帯再建手術じんたいさいけんしゅじゅつを受けることにした。

 全身麻酔から目覚めた後、固定された右足には怪我した時と同じ位の痛みがあった。しかし、リハビリは更に過酷なものだった。僕は早く復帰したいという一心でリハビリに取り組んだ。そのお陰で一カ月の入院の予定が三週間で退院することが出来た。僕はモビルスーツのように黒光りするいかついサポーターを付けながら半年間療養りょうようすることになった。既に時は二年生の初夏に差し掛かっていた。

 あの時は家族もチームメイトも僕の復帰を神々に祈願してくれた。病室にはいくつものカラフルなお守りが飾られていたものだった。それは今の僕の宝物でもある。




『橘月二日』

 そんなことを思い出しながら僕は片足を引きずり傘を差して、高校の裏門にあるバス停にやってきた。今までは自転車通学だったが、この足ではそうもいかない。裏門は鬱蒼うっそうとした森になっており、古ぼけた木で出来た屋根付きのベンチが設置してあった。その横には道祖神の石像がある。僕は軽く手を合わせた。癖のようなものである。この路線を利用する人間は少ない。ここから山奥に入るからバスの本数も必然的に少なくなる。なので最終バスに乗る先客がいたことに少なからず驚いた。

天宮あまみや君?」

 雨の音に紛れて消えてしまいそうな小さな声だった。そこにいたのはセミロングの真っ直ぐな髪につぶらな黒い瞳をした同じ高校の制服を着た女子生徒だった。

「えっと、誰だっけ?」

「わからないかな。同じ小学校だった日向花音ひなたかのんだよ」

 そう言われても僕はピンと来なかった。

「ずっと違うクラスだったし、わからなくても仕方ないか。私は天宮君のこと知ってたよ」

 日向の微笑みは柔らかく、声は心地の良いアルトだった。

「ごめん。小学校も中学もサッカーばっかりしてたから」

「良いんだよ、私目立つ方じゃないし。足怪我してるんでしょう?座ったらどうかな」

「うん、ありがとう」

 雨が降る音が二人の沈黙を和らげる。

「今日はずっと降ってるね」

「そうだな、もう梅雨になるから」

 そこで日向の方を見ると楽器ケースを持っていることに僕は気付いた。

「日向は何か楽器演奏できるの?」

「これ?うん、フルートだよ。吹奏楽部に入ってるの」

「へぇ、そうなのか。そういえば、楽器にも神様っているのかな?」

 日向がくすりと笑った。小さな花が咲いたようだった。

「音楽の神様もいらっしゃるから、いるんじゃないかな」

 日向はまるで猫でも撫でるかのように楽器ケースに触れた。

「あ、バスが来た」

 日向が敏感に雨の中のバスのエンジン音を聞き分けた。

「天宮君先に乗って」

「……ありがとう、先に乗らしてもらう」

 そう言ってそっと左足でタラップを踏み、手すりを持って身体を持ち上げた。他に乗客はいないようだったが、僕と日向は別々の席に座った。僕はぼんやりと雫が流れるガラスの向こう側の景色、点々とある家屋と水田を眺めていた。




『橘月十六日』

「本日の天気ですが、全国的に雨が降るでしょう」

 TVでニュースキャスターも傘にレインコート姿で街頭に立っている。

「全く、雨続きで洗濯物も乾きゃしない。司天庁してんちょうの言うとおりね」

 母が朝食の用意をしながらぼやいた。

「梅雨だもの。仕方ないだろう」

 父が新聞を読みながら、おざなりに母を宥める。

「だって、こんなに雨が続いたら野菜だって高騰こうとうしちゃうし。家計のやりくりは大変なんだからね」

 母は怒りながら、キッチンへと戻っていった。僕は短くお祈りをして、朝食をかきこんで、学校へと向かった。

 足を使わないトレーニングなら行ってもいい許可が出ている。トレーニング室でサッカー部の仲間たちとフィジカルトレーニングを行った。雨のためグラウンドが使えないので必然的にそれしかなくなる。僕は密かに暗い喜びに浸っていた。

 部活が終わり、またバス停へとやってきた。雨は小雨だが無視できない量でビニール傘にパラパラと音を立てて降り注いでくる。今日も日向がそこにいた。

「やあ、日向。遅いんだね」

「天宮君、吹部の練習でいつもこの時間だよ」

 よいしょとゆっくりと右足をかばいながらベンチに座る。

「吹部って文化部なんだろ?」

 そうだけどと日向は前置きしてから、

「朝練は朝六時から、夜は七時まで練習してるよ」

 ちょっと困った顔をして、教えてくれた。

「そうなのか。運動部並みだな」

「コンクールの前にはもっと練習厳しくなったりもするよ」

 そっかと僕は答え、空を眺めた。

「また雨だね」

 日向も同じことを考えていたようだった。

「もう二週間以上雨で嫌になるよな……でも僕にとっては好都合だけど」

 えっと小さく日向が声を上げた。

「この雨が続く限り、グラウンドに誰もいないだろう?僕は何も見なくて済むんだ」

 右膝にめられた重たいサポーターに触れる。それは囚人の足枷のようだった。

「こんなこと言ったら、日向は僕を軽蔑した?」

 日向は小さく頭を振った。

「天宮君がどれだけサッカーが好きか知ってるから……甘いものは大丈夫?」

 日向はそっと小さな水色のキャンディーを僕に手渡した。僕たちはそれからバスが来るまで、ずっと二人で雨の音だけを聞いていた。飴はラムネの味で僕の口の中でいつまでも溶けずにいた。




『橘月十八日』

 その週の水曜日の放課後、僕は定期検診のためにかかりつけの整形外科医院を訪れていた。傘を軽く水切りをして、傘立てに差した。受付をして、環境音楽がかかる待合室でぼんやりモニターを見ていた。そこには世界各地の絶景が流れていた。中でもイタリアのアマルフィーの真っ青な空と石灰岩でできた白い家屋の映像を見た時、(そういえば、もう長いこと空を見ていないな)と窓から雨雲が立ち込める薄暗い空を見上げた。

「天宮さん、診察室にお入りください」

 看護師が診察室から顔を出して僕の名前を呼んだ。

「天宮さん、どうぞ。足の調子はどうかな?」

 眼鏡をかけて髪を上げた三十代後半の医師が軽い口調で問いかけた。

「具合は良いですよ。時々、サポーターを外しているとふわっとすることもあるけど」

 そうかそうかとパソコンに入力しながら、何度か頷いた。

「この時期でもまだあるかぁ。そういえば、天宮さんは水泳とかやってたっけ?」

 そう言いながら僕の右足を左右に揺らして具合を見ている。

「いえ、特には。筋トレくらいしかしてないです」

 そうかとまた医師が相槌を打った。

「たまには水泳に行ってみたらどうかな。水の中だと抱えているものが地上よりも軽くなるよ」

 無理なトレーニングには気をつけてねと最後にそう締めくくった。

 バスで帰る途中、僕は日向のことを考えていた。この雨の中、彼女はまたバス停にいるのだろうか。そうしたら本当に高校前のバス停から日向が乗り込んできた。

「日向」

 僕は咄嗟とっさに日向に声を掛けた。

「天宮君、どうしたの? 今日は部活休み?」

 日向は通路を挟んで隣の席に座った。

「通院日。日向は今日も部活だったの?」

 うんと困ったようにうつむいた。その姿から寂しさを感じた僕は思ってもいなかったことを口走った。

「今週の土曜日空いてる?」

 日向はきょとんとした顔をした。

「さっき、医者から、リハビリに水泳やってみろって言われて。市内プールに行こうと思ってたんだ。良かったらいかないかな?」

 僕は何でこんなに必死になって日向を誘っているんだろうか。頷いて欲しいのか、断られたいのか僕自身もよくわからなかった。

「……いいよ。土曜日は午前練習だけだから、このバス停に集合で良い?」

 僕はふわふわした気持ちで頷いた。二人はそれからまた黙ったまま、バスは雨の中を走っていく。




『橘月二十一日』

 土曜日、昼前に僕はバス停に着いた。天気は相変わらず生憎の雨模様だった。僕は落ち着かない気分で日向を待った。その時間はもどかしいような、ほんの少し怖いような複雑な色をしていた。

 正午過ぎ、日向は制服姿でバス停に現れた。

「天宮君、待たせてごめんね」

「いいよ、走ってこなくてもよかったのに」

 傘を差してたとはいえ、日向はもう既にうっすらと濡れていた。

「いけない。ケースは大丈夫かな」

 自分のことよりまずフルートの心配をし始めた。タオルでケースを拭い、中をあらためていく。どうやら大事無かったようで、自分の髪や服を拭き始めた。かすかにミントの香りが漂った。

「市内に向かうバスはいつ頃来るの?」

「あと二十分位かな」

 僕は左手の腕時計を見ながら答えた。高校入学祝いのカシオの黒いスポーツウォッチは防水性でゴツゴツしたデザインでお気に入りだった。

「カッコいいね、その時計」

 日向が丁寧にタオルを畳みながら褒めてくれた。

「爺ちゃんに買って貰ったんだ」

 僕は照れ臭くなり頬を掻いた。

「お昼どうしようか?」

「……あの、もしも食べてなかったらと思って持ってきたの」

 日向は遠慮がちに保冷バックを開けた。そこには二人分のサンドイッチが並んでいた。

「これ日向が作ったの?」

 こっくりと頷いてお弁当箱を広げた。卵サンドにハムサンド、カツサンドまであった。僕がサンドイッチに見入っていると、そっとウェットティッシュを差し出してきた。

「嬉しいな、ありがとう」

 僕はいつもより丁寧にお祈りをしてから、日向のサンドイッチに手を伸ばした。カツサンドはマスタードが効いており、それが豚肉の脂とよく合っていた。

「旨いよ、日向」

「良かった……私も頂きます」

 そっと日向も手を合わせてお祈りをした。しばらく無言でサンドイッチを食べた。

「私もうお腹いっぱいだから、残りも良ければどうぞ」

 食べ終わって弁当箱を片付けると丁度バスが来た。

 二人で後部座席に一つ分開けて座り、駅前までいつものバスに乗っていった。そこからバスを乗り換えて、最寄りの市民体育館前で降りた。プールについて、僕は日向と別れた。下に水着を着てきたので着替えるのは早かったが、膝上からふくらはぎまで覆うサポーターを外す時に少し不安に襲われた。僕はその感情ごとロッカーにサポーターを押し込めた。

 屋内プールには塩素の香りが漂っていた。二十五mと流水プールしかない小規模な施設だ。休日だと言うのに利用者もさほど多くない。僕は軽く身体をほぐしていると、日向がやってきた。日向は学校指定の白いラインの入った紺色の水着だった。僕の視線を感じると日向は言い訳するように、

「だって、市民プールは水泳帽付けなきゃだから。普通の水着だと変かなと思って」

と視線を逸らせて言った。それから、そろりと僕の方を見た。正確には僕の右足を見た。

「それが手術の痕?」

 肉芽にくげが盛り上がった傷跡がまだ生々しく残っている。

「うん、そう。もう痛みはないんだ。泳ごうか」

 シャワーを浴びて二人で流水プールに行った。

 水が流れる方向に二人で並んで歩く。

「久しぶりだけど、気持ちいいね」

 日向は水の感触を純粋に楽しんでいるようだった。僕は流れに右足を取られないか少しひやひやしながら歩いていた。たった半年でこんなにも人間は弱ってしまうものなのか。

「空からも雨が降って水に浸かってるって不思議な感じ。魚ってこんな気分なのかな」

 日向がガラス張りのドーム型の天井を見上げた。空は薄曇り、JーPOPと共に雨音が聞こえる。

「世界が水に沈んでしまったみたいだ」

 僕たちはしばらく流水プールで歩くのを楽しんだ。それから二十五mプールに移動して、軽く泳ぎ始めた。日向は意外に綺麗なフォームで、スムーズにクロールで泳ぎ始めた。僕はゆっくりとクロールで様子を見始めた。右足がぎくしゃくと動くのを感じるが、徐々に滑らかに動くようになっていく。地上で歩くよりも身が軽かった。

(そうか、こんなにも水中では自由だったのか)

 僕は半年ぶりに自分の身体を取り戻した。プールの端で日向が僕を待っていた。

「知ってる? 水の中では音は空中より早く伝わるんだよ」

 そう言うとちゃぽんと沈み込んだ。僕もそれに合わせて潜水する。水の中で日向と視線が合い、日向がパクパクと口を動かす。

「聞こえた?」

 水から上がった日向が僕に尋ねた。

「聞こえないよ。日向、何にも声出してなかったじゃないか」

 ふふふと悪戯っぽく日向が笑った。

「聞こえなかったなら仕方ないな」

 日向は僕を置き去りにして泳ぎ出した。水飛沫が舞い散るのを僕は見ていた。

 僕らは並んでバスに乗って帰った。僕がたまにクラスや部活の話をすると、日向が楽しそうに聞いていた。




『橘月二十七日』 

 それからまた一週間雨は降り続けた。徐々に河川の水量が増し、土砂崩れの警報が各地に出されるようになってきた。

「ここも危ないかもな」

 父がある朝ニュースを見ながらそう呟いた。司天庁の陰陽頭おんみょうがしらも防災服を着てマスコミに緊急会見を開いている。

今般こんぱん星慈せいじ三十年の橘月の未曽有の長雨に関してですが、各地域において記録的な大雨となりました。統計可能な嘉清かせい十年からの雨の総量は今回が最も高い値になっております。司天庁として大雨に対する警戒を呼び掛け、随時防災情報をお伝えしていきたいと思いますので、早めの避難をお願いします」

 フラッシュが焚かれて画面が時々白くなる。

「優雨、今日は休校みたいよ。今、携帯の方に連絡が入ったから。今日は家にいなさい」

 母が携帯を片手に僕に言った。

「いや、母さん避難準備をしておいた方が良い。優雨も身支度を整えておくんだ。田舎の親父にも連絡を取ってみるよ」

 父はそう指示を出し、出社していった。僕と母は言われた通りに荷造りをしている時、付けっぱなしにしていたTVからピンポンとアラームが鳴った。

「あら、ここも避難警報が入ったわ。この辺りの地域は全部危ないみたい……」

 母と僕はTVに流れるテロップを必死で追った。

「高校まで行けば大丈夫だよ。川からも距離があるし、高台だし。避難所になってるみたいだよ」

「そうね、一応父さんに電話してみるわね」

 母は携帯で父に連絡を取った。僕は日向のことが心配になった。しかし、連絡しようにもアドレスを交換していなかったことに気が付いた。僕と母はプリウスに乗り込んで、外を見ると道路が僅かに冠水していた。母は慎重に運転して、高校へと辿り着いた。

 高校の体育館には既に二十人ほどの人々が避難していた。体育館にはシートが敷かれ、そこかしこに私物を置くことで自分のスペースを確保している。多くは高齢者のようだった。

「母さん、炊き出しの手伝いに行ってくるから、優雨は荷物見ててね。あんまり携帯使い過ぎないこと。何があるかわからないからね」

 そう言い残して母は体育館を出ていった。僕は特にやることも無く、本を取り出して読み始めた。

 時が経つにつれて、避難民はどんどん増加していった。段ボールが支給され、僕らはみんなでそれを床に敷いたり、間仕切りを作ったりして場所を整えた。夕刻になり、父も体育館にやってきた。

「市街地もかなり冠水しているぞ。このままじゃ遅かれ早かれ断水するかもな。とりあえず、無事で何よりだ」

「爺ちゃんは大丈夫なの?」

 ああと父が渋い顔をした。

「親父の奴、避難したくないって聞かなくてな。あそこら辺は山が近いから心配なんだが、道路がこの状況じゃ見に行くこともできない」

 夜になって避難民の中に日向の顔を見つけた。

「日向!」

 日向は両親と共にボストンバックと楽器ケースを持って避難してきた。日向はびっくりした顔をして、

「天宮君も避難してたんだ」

「ああ、うちの集落も危ないって警報が出たから午前中からこっちに来てた」

 そっかと日向は俯いた。

「うちも停電しちゃって、どうしようもなくなったから避難してきたよ。来る途中も川がすごい増水してた」

「日向も無事でよかった。そうだ、アドレスと番号教えてくれるかな?」

 いいよと日向は携帯を取り出した。交換した後、僕らはそれぞれのスペースに戻っていった。

 その夜はなかなか寝付けなかった。雨音と誰かの息づかい、ひそひそ声、衣擦きぬずれの音。そういった細やかで雑多な音に満ちていた。僕はブランケットに包まって、襲い来る不安に耐えた。




『橘月二十八日』

 翌朝になると世界は一変していた。体育館の出入口に設置されたTVに皆が群がっていた。各地で土砂崩れが起き、河は増水し、せきを切って洪水となっていた。全国各地にそうしたニュースで溢れていた。天災の前に人々の力など無力であった。その被災地には祖父の住んでいる地域も含まれていた。

「父さん、爺ちゃんはどうなってるの?」

「……だめだ、電話が繋がらない」

 父が沈痛な面持ちで携帯の画面を眺めていた。僕は言葉を失った。TVではこの世のものとは思えない地獄絵図が繰り広げられていた。僕たち家族はただひたすら祖父からの一報が返ってくることを神々に祈りながら、TVの前にいた。




『風待月六日』

 結局、それから一週間経っても祖父の安否はわからなかった。既に首都圏の機能はマヒし、物資も全国的に不足し始めていた。それに加えて初夏の蒸し暑さと不衛生な環境から徐々に高齢者と子供たちを様々な感染症がむしばんでいった。子供は軒先のきさきに晴天を願う人形を吊るし、壁に貼られたお札に一心不乱に祈願する老人の姿もあった。国民全体がこの瑞穂みずほの国の滅亡を予感せずにはいられなかった。
 
 神はいったどこにいるのだろうか。

 誰もがいつまでも止まない雨を恨めし気に眺めるようになった。皆慣れない閉鎖環境での集団生活に疲弊ひへいし、飢餓とストレスで極限状態にあった。そんなある日、臨時の記者会見が始まり、政府は御触おふれを出した。

「太陽を統べる神々に百人の使者をつかわします。十五歳から十八歳までの女子を全国から選定し、巫女としておまつり致します」

 神宮省の神官長が直々に会見をした。神官長は白袴に白い紋を着て重々しく宣言した。

 マスコミたちは矢継ぎ早に質問をした。

「選定は始まっているのですか?」

「今回の大雨は神々のお怒りを買ったからなのでしょうか?」

「選定条件はどのように決められているのですか?」

 神官長は一礼すると会見場を後にした。




『風待月八日』 

 それから数日経って僕はメールで日向にバス停に呼び出された。日向はまだ通学していた時と変わらずにそこに座っていた。

「どうしたの? 日向から日向から呼び出すなんて珍しいね」

 そうだねと日向はにっこりと笑った。

「フルート吹きたくなっちゃったから、天宮君にも聞いてもらおうと思って」

 そうかと僕は日向の隣に座った。日向はすぅっと息を吸うと調べを吹き始めた。それは美しく切ない旋律だった。高音が伸びやかにどこまでも響き渡り、穏やかな低音が優しく耳朶じだを打つ。世界は一瞬で日向の演奏に染まった。ただ一人のたった一つの楽器でここまで多彩で繊細でありながら深い音色を出せるものなのかと僕は感動した。

(いつまでも聞いていたい・・・・・・)

 僕は何故だか痛切にそう思った。やがて、日向がフルートから口を離した。

「綺麗だったよ、日向。フルートの音がまるでどこまでも響いていくようだった。日向は音楽の神様のご加護を受けているよ。こんなにも音楽で感動したのは初めてで……あれ、どうして」

 僕の目から一筋涙が零れた。さらさらと降りしきる雨音とフルートの音はとても深く調和していた。

「ありがとう。音大に行って、オーケストラに入団するのが夢なんだ」

 でも、その前にと日向は続けた。

「天宮君がサッカーに復帰して、試合を観客席からフルートで応援するのが楽しみだな」

 僕は複雑な気持ちになった。

「これから復帰してもレギュラーに戻れるかわからないよ……ずっとサッカーしてないんだから」

「大丈夫だよ。天宮君には時間があるんだから。雨は一人だけに降り注ぐわけじゃないの。皆に平等に降るの」

 日向は丁寧にフルートを仕舞うと、傘も差さずに雨の中に飛び出した。

「日向。風邪引くぞ」

 日向は僕の声を無視して踊るようにその場で舞い始めた。

「昔の人がね、雨の中、傘を差さずに踊る人間がいてもいい。それが自由というものだって言ったんだって」

 僕はたまらず、日向の元に向かった。

「びしょ濡れじゃないか。今、どういう時かわかってるのか? 風邪引いても薬も医者も足りてないんだぞ」

 傘を日向に差し出した。今日が雨で良かったと日向は天を仰いだ。そして雨に濡れながらも満面の笑みを浮かべた。

「虹を見るためには雨に耐えなければならないんだよ。だから、絶対フィールドに戻ってね。私、神様にお祈りするから」

 そう告げるとフルートを抱えて走っていった。僕は茫然と雨の中立ち尽くしていた。




『風待月九日』 

 翌日、どこを探しても日向の姿は無かった。その最中、同じクラスの吹奏楽部の女子生徒に出会った。避難民は日毎増えていったので、直接会うまで気付かなかった。

「日向探してるんだけど、知らないかな?」

「天宮君。日向なんて探してるの?」

 女子生徒は明らかに迷惑そうな顔をした。

「日向と付き合ってるならやめた方が良いよ。一人だけ意識高い系で『音大行きたい』とか夢子ちゃんだから。正直、部ではかなり浮いてるんだよね。まぁ、もう学校どころじゃないから関係ないけど」

 それじゃあと言い捨てて女子生徒は消えていった。僕は怒りを込めて壁を殴りつけた。

 僕は日向が自ら自分の話を昨日まで一切しなかったことを思い出した。
 
 体育館の出入口にはいつにも増して人が賑わっていた。どうやらまた神宮省が会見を行っているようだった。僕は隙間を縫うようにして画面を見た。

「では太陽を統べる神々に遣わされる巫女たちの名前をここに公表いたします」

 百人の名前が地域名と共に列挙されていく。やがて僕らの住んでいる地域にやってきた。

「日向 花音様」

 ぽつんとその名前だけが僕の耳に飛び込んできた。僕は突然のことで何の理解もできなかった。

「……以上の巫女たちは永遠にこの瑞穂の国の礎として祀られることでしょう」

 神官長はマスコミの怒涛どとうの質問には一切答えず、深く一礼して会議場を去った。俺は次の瞬間傘も差さずにバス停へと向かった。右足を引きずりながらバス停に辿り着くと、日向の座っていた所に小さな封筒があった。

「私を忘れないで下さい」

 そう書かれた小さな紙きれとキャンディーが残されていた。僕はその文字をなぞりながらその場に跪いて慟哭した。

 避難所に帰ってきてしばらく家族のスペースで膝を抱えて黙っていた。

「優雨大丈夫?そんなに濡れて、何があったの?」

「……母さん、この曲知ってる?」

 僕がメロディーラインをなぞると母はすぐに

「ショパンの別れの曲よ」

 そう教えられて、僕はまた涙がこみ上げてきた。何故あの時、雨に紛れた日向の涙に気付かなかったのだろう。
 
 雨より透明なその雫に。




『風待月十二日』

 三日後、あの長かった雨がとうとう止んだ。雲の隙間から日が差し込み、垣間見える深い青空がもう夏が来たことを告げていた。皆が歓声を上げる中、僕は暗澹あんたんたる気持ちでいた。あんなに恋しかった青空なのに僕の心は晴れなかった。それでも久方ぶりの空には、日向の言う通り虹がかかっていた。長い苦難の日々の終焉を表していた。

 それから街は少しずつ機能を回復し始めた。

「巫女様方に感謝だね」

「神々は我々を見捨てなかった」

 皆口々に言い合った。TVでも神宮省の英断として、どのニュースでも政府を持ち上げる報道ばかりだった。しかし、復興作業は難航した。流れ込んだ汚泥おでいの始末、河川の整備、土砂崩れの撤去、疫病えきびょう対策など。神に見放された被災者は数万人に上った。

 僕は高校の屋上から夕陽を見つめていた。泥と混乱に満ちた地上のことなど関係なく、赤く鮮やかに染まった世界は美しかった。世界は、神々はなんて残酷なんだろう。あの調和した街並みをことごと蹂躙じゅうりんし、その上にこんなにも綺麗な夕焼けを見せつけるなんて。

(ああ、日向、君は神に会えたのだろうか?) 

 その答えは誰もわからない。日向が守ったこの世界で、日向のいないこの世界で僕は生きていく。けれど、僕はもう二度と神には祈らない。
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