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ーーーー
「君はいつしか思い出す。君は、いつしか夢から覚めるんだ」
こびりついた彼の言葉は、その通りに私を離れていなかった。
この季節になると、春先が少しだけフライングを起こしたように、じっくり熱したオーブンのような心地よい温かさが感じられて、私はそのなかへと溶けてしまいそうだ。
校門の脇に植えられた桜並木の下校道にて、舞い散る桜の花びらを、一つ手に取ってみた。
小舟のような小さな花弁。私は鼻先を近づけ、そのにおいを嗅いでみる。
何も感じなかった。実って、散って。そうして役目を果たした桜花からは、無、という名の死臭だけが漂うのみだった。
ふと、その根源を辿るため、頭上の枝木に目を向ける。真っ青な蒼穹に散りばめられた幾つもの花弁は、最後の舞踏を嗜んでいた。
桜は、いつ死ぬのだろうか。木が枯れた時だろうか。花弁がゆらりと舞い落ち、地面へと不時着を果たした時か。誰かの手によって、花から千切られた時か。
靴底についた花びらが、私が歩くたびに落ちていく。
桜というものに、仮に人生があるとして。彼らが20歳だとか30歳だとかを迎えるのは、どの瞬間なのだろう。
私は、足元に広がる桃色の絨毯を踏みしめながら、帰路へついていた。
「ただいまー」
まぁ、誰もいないのだけど。
地方に留まり、鬱屈とした空気のなかで生き続けるくらいなら、と、それまでの生活が億劫になり逃げ出してきた都市郊外。親に無理を言ったとは思っている。こんなところで一人暮らしをさせてくれなんて、了承を得られたのはほとんど奇跡だと言ってもいい。
だけれど、私はこの選択を少しも後悔はしていない。
うっすらと錆びついたドアがばたんと閉じ、私は帰宅を終えた。
靴を脱いでフローリングに上がった途端、強い風でも吹いたのだろう、ガタガタと窓が揺れる音が聞こえていた。電気をつけ、リビングへ向かう。
掃除がさほど行き届いていないせいか、埃っぽい。
部屋にぽつんと置かれたソファに腰を下ろすと、一日疲弊した私の身体を大きく包み込むように受け止めてくれた。
今日もまた、日が終わる。
こうして一人になった時には、時折あの言葉を思い出す。
私に向けられたあの言葉。
なにかの思惑を乗せた言葉が、何度も私に降りかかる。
私はソファに凭れ掛かり、目を閉じた。
これは、そう、二年前の夏休みのことだった。
受験のことでいっぱいいっぱいになった私は、どうにも居場所がなくなったように感じられてしまったことがあった。
今思えば、幼稚というかなんというか。どこまでも子供だったなとは思うけれど、やっぱり当時の私にとっては耐えられないものだったのかな。
それで、両親の制止も振り切って、3日間の家出に及んだんだった。
そうして私は、そんな些細な理由から、たった一人の逃避行を始めた。とにかく、私を縛り付けるものから逃げ出したくって、走って、走って、とにかく走って。
たまたまやっていたお祭りに顔を出してみたり、真夜中の神社を覗いてみたり、廃墟に忍び込んだこともあったかな。
町中を駆け回っていた私は、最後にあの丘に着いたんだ。
私が私でいなくちゃいけないあの町を、全部を望むあの丘に立って辺りを見渡してみれば、雄大な自然ばっかりで。雲は白くて、空は青くて。くすんだ色なんて一つもなくって。あそこに辿り着いてようやく、私は、私から解放された気がしていた。
私はそこで、大きく腕を広げてみせて、いっぱいに空気を吸い込んだ。ずっと同じ体勢でいると血液の循環が悪くなってしまうように、ずっと抑圧に耐えていた私にとって、ああしてのびのびすることは、ある種の蘇生とも言えたのだろう。
あの少年が私の前に現れたのは、そんな時だった。
「綺麗だよね、僕もここは好きなんだ」
気付けば隣にいた彼は、淡々とそう口にした。
突然のことに吃驚した私は、開いた口がふさがらなくって、ほんの数秒前まで町並みを映していた目は、彼の横顔に吸い付いていた。
どこにでもいるような黒髪に、整った顔立ちで。私の記憶には確かに"少年"として残されているけれど、性別は今になっても分からない。
「はは、そんなに驚かないで。ただ……、そう。僕はただね、君に忠告をしにきただけなんだ」
他意は感じられなかった。業務連絡のように真っすぐな声音は、私の印象に残るには十分すぎて、だからこそかな、彼の身体は思い出せない。
そして、忠告と称されたその言葉は、私に深く根ざすことになったんだ。
「君はいつしか思い出す。君は、いつしか夢から覚めるんだ」
彼は、ほんのすこしだけ声を張って、それでも、私の方なんて見向きもせずにそう言った。
私は咄嗟にその意味を訊いた。思い出すってなんなのか、夢から覚めるってなんなのか。彼の言ってることは一つも分からなかった。そして、どうしてかも分からないけど、私はその言葉を焼き付けてしまった。
あの日以来だ。彼の言葉は私に纏わりついていて、私は思い出すたびに無駄に頭を働かせては、結局分からないまま終わってしまう。
逃避行の末に辿り着いたあの丘、そこから眺めたあの景色。
やっぱり、私の選択も、それによって得られた結果も、間違ってはいないはずだ。
目を開いた。見えるのは、私の部屋。瞼の裏に映る思い出との落差が嫌になる。
今日が終わる。終わってしまう。
私は凭れていたソファを一度立つと、乱雑に放られていたバスタオルを敷き直し、手すりを枕にまたソファへ寝転がった。
天井を見つめたところでなにも起きない。地元から逃げてきて、私はようやく一人になれた。私を満たすものは私で探していかなくちゃいけない。私が求めるものは私が探し当てなくちゃいけない。
瞼の重さに任せて、再び目を閉じる。ここ最近で疲れが溜まっていたのか、無意識に微睡みへと落ちていき、私の意識は、やがて途絶えた。
目を覚ました時には、既に休日の朝特有の長閑な空気が満ちていて、私は窓から射し込む太陽光で目を覚ました。
私は、モーニングルーティンとして毎日外の景色をみることにしている。理由は様々あるけれど、その一つは何も考えていない時間をなくしたいからだ。
何も考えていない、ということは、即ち記憶の掘削の時間が始まってしまうということで。
あの少年の言葉について、私はできることなら考えたくはない。
ソファから起き上がると、私は窓の前に立ち、大きく伸びをした。
早朝に眺める町並みは、また別の意味での絶景だ。
人の集合体が意識を持ち始める瞬間を目の当たりにしているようで、それはまるで、町が産声を上げているようにも映る。
遠くにはビルが見えるし、家の前にはクルマが通る。
一つ一つをつぶさに見ることで、時間を潰していく。
そのまま数時間を過ごし、日が昇りきったところで、ようやく私は活動を開始する。
ここまでする必要はないかもしれないけれど、ただ、なんというか、私はあの言葉に少しだけ怯えているのかもしれない。
分からないことを突きつけられるということは、未知を眼前に差し出されるようなもので、そのやりきれない感覚を避けたいのかもしれない。
だけど、いつまでもこうしていられないのもまた事実なんだ。
私は身支度を済ませると、玄関へ向かいドアノブを握る。今日の目的地は、もう決めていた。
穏やかな陽射しが降っていた。
車窓から見える山々は、あの頃となんら変わりはなく、私の記憶が確かに間違っていないことの証明でもあった。
私は、空いた隣の座席に移動し、窓に頬を寄せるように外を見る。
久しぶりに帰ってきた。
私が逃げ出してきたこの町が、今日の目的地だった。
等間隔に車体が揺れ、その振動がまた、町から発つあの時のことを思い出させてくれる。
少年と出会ったあの日から今日まで、私が反芻を続けていたあの言葉。
「君はいつしか思い出す。君は、いつしか夢から覚めるんだ」
昨日で決心がついた。前々から、彼の言う"思い出す"は、もしかしたらもう一度丘へ戻ってこいというメッセージなのではないかと考えていた。
少年に出会ったあの丘で、なにかが分かるのかもしれない。
半信半疑なのは言うまでもないけれど、行動を起こさないのも違うと思ったからこそ、私はようやくこの地へ降り立ったのだった。
私が住んでいるところとは違い、こっちでは既に桜が散ってしまっていた。無人ホームの改札を抜け、気持ち程度に植えられた桜の木は、そのほとんどが禿げてしまっていた。
それにしたって、やっぱりこの町は昔と変わらない空気を感じられる。よく言えば自由で、悪く言えば不自由で。
小まめに手入れがされているのか、花びら一つ落ちていない駅前の舗装道を歩いていった。
2年ぶりに見る町並みは、多少の変化はあれど、町中を駆け回った夏休みに目にした光景とほとんどが同じだった。
夏祭りをやっていた大きめの公園も、今は行事こそ行われていないが、子連れの親が数組見える。
親と遊んでいた子どもの一人が、なにやら私のほうを見つめてきたけれど、この町を見捨てた私が手を振るのもなんだか恥ずかしくって、結局微笑みを返すだけになってしまった。
そのまま歩みを進め、見慣れた景色を横流し、あの丘を探し回って歩いていた。あてどなく走った結果辿り着いたあの丘の場所を、私はあまり鮮明に覚えてはいなかった。ただ、あの時見た景色を頼りに、それと重なるような場所を手探りにあたっていた。
あの時の神社にも寄ってみた。
荒れ放題だった境内は、ある程度の手入れが施されたのか、格を感じるような風貌にはなっている。
賽銭箱の前に立ち、適当にお祈りをしておいた。
作法とか礼儀とか、うまくやれてるかは分からないけれど、なんだか気分は良くなった気がする。
どこへ向かっても、どこに着いても。些細な変化はあれど、あの丘はまだ遠くに感じられた。
二年前に忍び込んだ廃墟には、あの頃には無かった立ち入り禁止の看板が設置されていた。せっかくならもう一度中に入ってみようかな、とか考えていたのだけど、どうやら無理そうだった。そういえば、私はあの時どうやってこの廃墟に入ったんだろう。
そろそろ日没だろうか。頭上に見えていたはずの太陽は、いつの間にか山間に隠れていってしまうところだった。昼頃から歩き回っているというのに、あの丘と一致するような景色は未だ見つけられていない。
でも、確かに近づいてはいるはずなんだ。
あの時のこと振り返ってみても間違いはない。
公園、神社、廃墟。
同じように辿ってきたんだから、きっとあの丘もすぐそこにあるはずだ。
あるはずなんだけど、さすがに今日は歩き疲れてしまった。
それに、もう辺りは暗くなっていた。
無理をする必要はない。
だからといって、あの丘を諦めることもできない。
私は、どこか近くに泊まれる場所がないかを探し、今夜はそこで一晩を明かすことに決めた。
この町で迎える朝というものは、どうにも懐かしい感覚だった。都市郊外での目覚めとは一味違って、この町からビルは見えないし、クルマも滅多に通らない。
その代わりとでもいうように、早朝からは鳥の囀りが聞こえるばかりだった。
さてと。
今日はモーニングルーティンを挟む必要もない。というよりむしろ、今の私にとってはあの言葉も手がかりになっている。
誘われる、というとまた違うのだけれど、あの言葉が頭を回っている間は、あの丘も一緒になってついてくる。丘への到着を目指す今であれば、もはや嬉しいものでもあった。
この町は今も生きている。
少なくとも、私が見限った頃よりは。
実家に帰ってみようとも思ったけど、それも億劫になってしまって。親には合わせる顔がない。それに、これはやっぱり私の問題なんだ。
私のなかで済ませなくちゃいけない。
ひとまず、山の方へ向かうことにしよう。あの丘は町を一望できていたし、一帯の民家をすべて見渡せたんだ。
私は頬に軽く触れ、よしっ、と、小さく息をついた。
東から昇った太陽は南の方へと傾いていき、木漏れ日となって私を照らしていた。
雑木林の中へ踏み込み、茂みを掻き分けながら道なき道を歩く。
子供ながらの行動力があれば、きっとこんな道だって進んだはずだろう。私は、二年前の私に賭けることにしていた。
手当たり次第に山を登っていったらきっと見つかるだろう。
そんな見込みのもとで、こんなところまで来てしまっていた。
視覚から得られる情報はなかなか更新されず、道中のことなんて覚えていない私にとってはなかなか苦しいものだった。
奥へ奥へと、その先にあるのかも定かではない丘を目指すうち、段々と薄気味悪い感覚が湧いてくる。
絶たれていくような、このまま進んでしまえば、やがて帰れなくなるんじゃないかという不安。あの町の存在が遠いものに感じられてしまう。
後ろを振り返ろうにも、もうできなかった。
私はただ、前進を選ぶだけだった。
そうして、なんとか木々を抜けた先でのことだ。
急に視界が開けたかと思えば、飛び込んできた光景は、私が目指していたもので間違いはなかった。
私は、私の記憶を垣間見ているのではないかと錯覚を起こしそうになる。
ようやく光を浴びたその場所は、あの言葉に付随していた、小高い丘だった。
紛れもなく、寸分の違いもなく。あの日、瞬きを忘れてしまうほどに見入っていた絶景は、今も確かに残っていた。
私はその場に崩れると、青い空を見晴らした。
そうだ、あの夏休みに見た空は、清々しいほどの空色をしていて。
私は視線を移し、流れていく雲を捉える。
そうだそうだ、この空に似合うわた雲は、あんなにも純粋な白色だった。
私は一度、考えるのをやめた。
そんな隙間につけ込むように、またあの言葉はやって来る。
「君はいつしか思い出す。君は、いつしか夢から覚めるんだ」
その言葉に返事をするように、私はぽつんと呟く。
「私はこの丘に戻ってきた」
空に向かって投げた言葉は、誰に届くこともなく霧散していった。
なにも聞こえない。
なにも感じない。
誰も答えない。
誰も私を見ていない。
……あぁ、なんだ。
全身から力が抜けていくのがよくわかる。
ここに来てよかった。
辺りを見渡しても、あの時の少年らしき姿はどこにも見えなかった。
ただ私はしっかりと立ち上がり、あの頃と同じ町を見下ろした。
私はいつしか思い出す。
──そう、私は確かに思い出したんだ。
でも、今はまだ。
まだ私は、目を閉じていることにするよ。
ーーーーー
その年も、変わらず桜は咲いていた。
校門を彩る桜並木には、優雅な花弁が満開に咲き誇る。
風に煽られ、惜しげなく散りゆく桜でさえも、その生を存分に謳歌する。
路上に積もった桃色の花弁は、踏まれ、崩れ、跡を無くし。
それでも春を告げていた。
桜はいつ死ぬのだろうか。
木が枯れた時か。
満開の花が散った時か。
地面への墜落を終えた時か。
それとも、忘れられてしまった時か。
埋もれた桜には、誰も気付かなかった。
「君はいつしか思い出す。君は、いつしか夢から覚めるんだ」
こびりついた彼の言葉は、その通りに私を離れていなかった。
この季節になると、春先が少しだけフライングを起こしたように、じっくり熱したオーブンのような心地よい温かさが感じられて、私はそのなかへと溶けてしまいそうだ。
校門の脇に植えられた桜並木の下校道にて、舞い散る桜の花びらを、一つ手に取ってみた。
小舟のような小さな花弁。私は鼻先を近づけ、そのにおいを嗅いでみる。
何も感じなかった。実って、散って。そうして役目を果たした桜花からは、無、という名の死臭だけが漂うのみだった。
ふと、その根源を辿るため、頭上の枝木に目を向ける。真っ青な蒼穹に散りばめられた幾つもの花弁は、最後の舞踏を嗜んでいた。
桜は、いつ死ぬのだろうか。木が枯れた時だろうか。花弁がゆらりと舞い落ち、地面へと不時着を果たした時か。誰かの手によって、花から千切られた時か。
靴底についた花びらが、私が歩くたびに落ちていく。
桜というものに、仮に人生があるとして。彼らが20歳だとか30歳だとかを迎えるのは、どの瞬間なのだろう。
私は、足元に広がる桃色の絨毯を踏みしめながら、帰路へついていた。
「ただいまー」
まぁ、誰もいないのだけど。
地方に留まり、鬱屈とした空気のなかで生き続けるくらいなら、と、それまでの生活が億劫になり逃げ出してきた都市郊外。親に無理を言ったとは思っている。こんなところで一人暮らしをさせてくれなんて、了承を得られたのはほとんど奇跡だと言ってもいい。
だけれど、私はこの選択を少しも後悔はしていない。
うっすらと錆びついたドアがばたんと閉じ、私は帰宅を終えた。
靴を脱いでフローリングに上がった途端、強い風でも吹いたのだろう、ガタガタと窓が揺れる音が聞こえていた。電気をつけ、リビングへ向かう。
掃除がさほど行き届いていないせいか、埃っぽい。
部屋にぽつんと置かれたソファに腰を下ろすと、一日疲弊した私の身体を大きく包み込むように受け止めてくれた。
今日もまた、日が終わる。
こうして一人になった時には、時折あの言葉を思い出す。
私に向けられたあの言葉。
なにかの思惑を乗せた言葉が、何度も私に降りかかる。
私はソファに凭れ掛かり、目を閉じた。
これは、そう、二年前の夏休みのことだった。
受験のことでいっぱいいっぱいになった私は、どうにも居場所がなくなったように感じられてしまったことがあった。
今思えば、幼稚というかなんというか。どこまでも子供だったなとは思うけれど、やっぱり当時の私にとっては耐えられないものだったのかな。
それで、両親の制止も振り切って、3日間の家出に及んだんだった。
そうして私は、そんな些細な理由から、たった一人の逃避行を始めた。とにかく、私を縛り付けるものから逃げ出したくって、走って、走って、とにかく走って。
たまたまやっていたお祭りに顔を出してみたり、真夜中の神社を覗いてみたり、廃墟に忍び込んだこともあったかな。
町中を駆け回っていた私は、最後にあの丘に着いたんだ。
私が私でいなくちゃいけないあの町を、全部を望むあの丘に立って辺りを見渡してみれば、雄大な自然ばっかりで。雲は白くて、空は青くて。くすんだ色なんて一つもなくって。あそこに辿り着いてようやく、私は、私から解放された気がしていた。
私はそこで、大きく腕を広げてみせて、いっぱいに空気を吸い込んだ。ずっと同じ体勢でいると血液の循環が悪くなってしまうように、ずっと抑圧に耐えていた私にとって、ああしてのびのびすることは、ある種の蘇生とも言えたのだろう。
あの少年が私の前に現れたのは、そんな時だった。
「綺麗だよね、僕もここは好きなんだ」
気付けば隣にいた彼は、淡々とそう口にした。
突然のことに吃驚した私は、開いた口がふさがらなくって、ほんの数秒前まで町並みを映していた目は、彼の横顔に吸い付いていた。
どこにでもいるような黒髪に、整った顔立ちで。私の記憶には確かに"少年"として残されているけれど、性別は今になっても分からない。
「はは、そんなに驚かないで。ただ……、そう。僕はただね、君に忠告をしにきただけなんだ」
他意は感じられなかった。業務連絡のように真っすぐな声音は、私の印象に残るには十分すぎて、だからこそかな、彼の身体は思い出せない。
そして、忠告と称されたその言葉は、私に深く根ざすことになったんだ。
「君はいつしか思い出す。君は、いつしか夢から覚めるんだ」
彼は、ほんのすこしだけ声を張って、それでも、私の方なんて見向きもせずにそう言った。
私は咄嗟にその意味を訊いた。思い出すってなんなのか、夢から覚めるってなんなのか。彼の言ってることは一つも分からなかった。そして、どうしてかも分からないけど、私はその言葉を焼き付けてしまった。
あの日以来だ。彼の言葉は私に纏わりついていて、私は思い出すたびに無駄に頭を働かせては、結局分からないまま終わってしまう。
逃避行の末に辿り着いたあの丘、そこから眺めたあの景色。
やっぱり、私の選択も、それによって得られた結果も、間違ってはいないはずだ。
目を開いた。見えるのは、私の部屋。瞼の裏に映る思い出との落差が嫌になる。
今日が終わる。終わってしまう。
私は凭れていたソファを一度立つと、乱雑に放られていたバスタオルを敷き直し、手すりを枕にまたソファへ寝転がった。
天井を見つめたところでなにも起きない。地元から逃げてきて、私はようやく一人になれた。私を満たすものは私で探していかなくちゃいけない。私が求めるものは私が探し当てなくちゃいけない。
瞼の重さに任せて、再び目を閉じる。ここ最近で疲れが溜まっていたのか、無意識に微睡みへと落ちていき、私の意識は、やがて途絶えた。
目を覚ました時には、既に休日の朝特有の長閑な空気が満ちていて、私は窓から射し込む太陽光で目を覚ました。
私は、モーニングルーティンとして毎日外の景色をみることにしている。理由は様々あるけれど、その一つは何も考えていない時間をなくしたいからだ。
何も考えていない、ということは、即ち記憶の掘削の時間が始まってしまうということで。
あの少年の言葉について、私はできることなら考えたくはない。
ソファから起き上がると、私は窓の前に立ち、大きく伸びをした。
早朝に眺める町並みは、また別の意味での絶景だ。
人の集合体が意識を持ち始める瞬間を目の当たりにしているようで、それはまるで、町が産声を上げているようにも映る。
遠くにはビルが見えるし、家の前にはクルマが通る。
一つ一つをつぶさに見ることで、時間を潰していく。
そのまま数時間を過ごし、日が昇りきったところで、ようやく私は活動を開始する。
ここまでする必要はないかもしれないけれど、ただ、なんというか、私はあの言葉に少しだけ怯えているのかもしれない。
分からないことを突きつけられるということは、未知を眼前に差し出されるようなもので、そのやりきれない感覚を避けたいのかもしれない。
だけど、いつまでもこうしていられないのもまた事実なんだ。
私は身支度を済ませると、玄関へ向かいドアノブを握る。今日の目的地は、もう決めていた。
穏やかな陽射しが降っていた。
車窓から見える山々は、あの頃となんら変わりはなく、私の記憶が確かに間違っていないことの証明でもあった。
私は、空いた隣の座席に移動し、窓に頬を寄せるように外を見る。
久しぶりに帰ってきた。
私が逃げ出してきたこの町が、今日の目的地だった。
等間隔に車体が揺れ、その振動がまた、町から発つあの時のことを思い出させてくれる。
少年と出会ったあの日から今日まで、私が反芻を続けていたあの言葉。
「君はいつしか思い出す。君は、いつしか夢から覚めるんだ」
昨日で決心がついた。前々から、彼の言う"思い出す"は、もしかしたらもう一度丘へ戻ってこいというメッセージなのではないかと考えていた。
少年に出会ったあの丘で、なにかが分かるのかもしれない。
半信半疑なのは言うまでもないけれど、行動を起こさないのも違うと思ったからこそ、私はようやくこの地へ降り立ったのだった。
私が住んでいるところとは違い、こっちでは既に桜が散ってしまっていた。無人ホームの改札を抜け、気持ち程度に植えられた桜の木は、そのほとんどが禿げてしまっていた。
それにしたって、やっぱりこの町は昔と変わらない空気を感じられる。よく言えば自由で、悪く言えば不自由で。
小まめに手入れがされているのか、花びら一つ落ちていない駅前の舗装道を歩いていった。
2年ぶりに見る町並みは、多少の変化はあれど、町中を駆け回った夏休みに目にした光景とほとんどが同じだった。
夏祭りをやっていた大きめの公園も、今は行事こそ行われていないが、子連れの親が数組見える。
親と遊んでいた子どもの一人が、なにやら私のほうを見つめてきたけれど、この町を見捨てた私が手を振るのもなんだか恥ずかしくって、結局微笑みを返すだけになってしまった。
そのまま歩みを進め、見慣れた景色を横流し、あの丘を探し回って歩いていた。あてどなく走った結果辿り着いたあの丘の場所を、私はあまり鮮明に覚えてはいなかった。ただ、あの時見た景色を頼りに、それと重なるような場所を手探りにあたっていた。
あの時の神社にも寄ってみた。
荒れ放題だった境内は、ある程度の手入れが施されたのか、格を感じるような風貌にはなっている。
賽銭箱の前に立ち、適当にお祈りをしておいた。
作法とか礼儀とか、うまくやれてるかは分からないけれど、なんだか気分は良くなった気がする。
どこへ向かっても、どこに着いても。些細な変化はあれど、あの丘はまだ遠くに感じられた。
二年前に忍び込んだ廃墟には、あの頃には無かった立ち入り禁止の看板が設置されていた。せっかくならもう一度中に入ってみようかな、とか考えていたのだけど、どうやら無理そうだった。そういえば、私はあの時どうやってこの廃墟に入ったんだろう。
そろそろ日没だろうか。頭上に見えていたはずの太陽は、いつの間にか山間に隠れていってしまうところだった。昼頃から歩き回っているというのに、あの丘と一致するような景色は未だ見つけられていない。
でも、確かに近づいてはいるはずなんだ。
あの時のこと振り返ってみても間違いはない。
公園、神社、廃墟。
同じように辿ってきたんだから、きっとあの丘もすぐそこにあるはずだ。
あるはずなんだけど、さすがに今日は歩き疲れてしまった。
それに、もう辺りは暗くなっていた。
無理をする必要はない。
だからといって、あの丘を諦めることもできない。
私は、どこか近くに泊まれる場所がないかを探し、今夜はそこで一晩を明かすことに決めた。
この町で迎える朝というものは、どうにも懐かしい感覚だった。都市郊外での目覚めとは一味違って、この町からビルは見えないし、クルマも滅多に通らない。
その代わりとでもいうように、早朝からは鳥の囀りが聞こえるばかりだった。
さてと。
今日はモーニングルーティンを挟む必要もない。というよりむしろ、今の私にとってはあの言葉も手がかりになっている。
誘われる、というとまた違うのだけれど、あの言葉が頭を回っている間は、あの丘も一緒になってついてくる。丘への到着を目指す今であれば、もはや嬉しいものでもあった。
この町は今も生きている。
少なくとも、私が見限った頃よりは。
実家に帰ってみようとも思ったけど、それも億劫になってしまって。親には合わせる顔がない。それに、これはやっぱり私の問題なんだ。
私のなかで済ませなくちゃいけない。
ひとまず、山の方へ向かうことにしよう。あの丘は町を一望できていたし、一帯の民家をすべて見渡せたんだ。
私は頬に軽く触れ、よしっ、と、小さく息をついた。
東から昇った太陽は南の方へと傾いていき、木漏れ日となって私を照らしていた。
雑木林の中へ踏み込み、茂みを掻き分けながら道なき道を歩く。
子供ながらの行動力があれば、きっとこんな道だって進んだはずだろう。私は、二年前の私に賭けることにしていた。
手当たり次第に山を登っていったらきっと見つかるだろう。
そんな見込みのもとで、こんなところまで来てしまっていた。
視覚から得られる情報はなかなか更新されず、道中のことなんて覚えていない私にとってはなかなか苦しいものだった。
奥へ奥へと、その先にあるのかも定かではない丘を目指すうち、段々と薄気味悪い感覚が湧いてくる。
絶たれていくような、このまま進んでしまえば、やがて帰れなくなるんじゃないかという不安。あの町の存在が遠いものに感じられてしまう。
後ろを振り返ろうにも、もうできなかった。
私はただ、前進を選ぶだけだった。
そうして、なんとか木々を抜けた先でのことだ。
急に視界が開けたかと思えば、飛び込んできた光景は、私が目指していたもので間違いはなかった。
私は、私の記憶を垣間見ているのではないかと錯覚を起こしそうになる。
ようやく光を浴びたその場所は、あの言葉に付随していた、小高い丘だった。
紛れもなく、寸分の違いもなく。あの日、瞬きを忘れてしまうほどに見入っていた絶景は、今も確かに残っていた。
私はその場に崩れると、青い空を見晴らした。
そうだ、あの夏休みに見た空は、清々しいほどの空色をしていて。
私は視線を移し、流れていく雲を捉える。
そうだそうだ、この空に似合うわた雲は、あんなにも純粋な白色だった。
私は一度、考えるのをやめた。
そんな隙間につけ込むように、またあの言葉はやって来る。
「君はいつしか思い出す。君は、いつしか夢から覚めるんだ」
その言葉に返事をするように、私はぽつんと呟く。
「私はこの丘に戻ってきた」
空に向かって投げた言葉は、誰に届くこともなく霧散していった。
なにも聞こえない。
なにも感じない。
誰も答えない。
誰も私を見ていない。
……あぁ、なんだ。
全身から力が抜けていくのがよくわかる。
ここに来てよかった。
辺りを見渡しても、あの時の少年らしき姿はどこにも見えなかった。
ただ私はしっかりと立ち上がり、あの頃と同じ町を見下ろした。
私はいつしか思い出す。
──そう、私は確かに思い出したんだ。
でも、今はまだ。
まだ私は、目を閉じていることにするよ。
ーーーーー
その年も、変わらず桜は咲いていた。
校門を彩る桜並木には、優雅な花弁が満開に咲き誇る。
風に煽られ、惜しげなく散りゆく桜でさえも、その生を存分に謳歌する。
路上に積もった桃色の花弁は、踏まれ、崩れ、跡を無くし。
それでも春を告げていた。
桜はいつ死ぬのだろうか。
木が枯れた時か。
満開の花が散った時か。
地面への墜落を終えた時か。
それとも、忘れられてしまった時か。
埋もれた桜には、誰も気付かなかった。
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だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
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