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俺に“書かせて”ください(2)
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因幡の家には、まだ仄かに朝の光が残る午後の気配が漂っていた。
リビングのテーブルには、資料とゲラの束。黙々と赤を入れる因幡の斜め前で、黒川は無造作にリュックを置くと、その中から小さな紙袋を引っぱり出した。
「……あー……」
声をかけるのに一拍、妙に間が空く。
「……ほら、コレ」
ぽん、と紙袋をテーブルに置く。中身が崩れないように気をつけた手つきのわりに、目線はそっぽを向いたままだ。
「昨日、律くんと作ったやつ。……別に深い意味とかないですけど。バレンタインだし、編集担当だし、まぁ……その……なんか、流れっていうか」
言い訳が先に出るのが黒川らしい。言葉の端々が尖りながらも、どこか照れくさそうで。肩まで赤くなっているのを見て、因幡は小さく笑う。
「ありがとう。……いただくよ」
さらりと礼を言って、紙袋を受け取る因幡。中をちらりと覗き見て、「おや、律の手じゃないな」とでも言いたげな目をしてから、再び黒川を見た。
「黒川」
「……はい?」
不意に名前で呼ばれて、黒川は思わず背筋を伸ばす。
「そろそろ……うちに正式に住まないか?」
「は?」
思わず聞き返した黒川は、瞬時に眉をひそめた。だが怒ったというより、目の奥が妙に揺れている。
「いや、だからその。今は“よく入り浸ってる”って程度だろ?でも、こっちは……いっそ全部整えて、鍵もちゃんと渡して、生活の足場にしてくれて構わないって思ってる」
因幡の声はいつもの調子だった。落ち着いていて、どこか含みがあって。でもその目だけはまっすぐで、冗談じゃないことを語っていると、黒川にもすぐにわかった。
「……あんた、またそうやって、するっと変なこと言う」
黒川は視線を泳がせながら、ゆっくりと息を吐く。
「こっちは、いきなりそういうの、けっこう……くるんですけど。マジで……先生、からかってます?」
「本気だよ。……これ以上、黒川が遠慮してるの、見てるのも癪だしな」
そう言って因幡が少しだけ笑った瞬間、黒川の肩の力が抜けた。
「……仕方ない、っすね。だったら、ちゃんとスペース空けてくださいよ。俺の漫画の資料とか、荷物とか、ちゃんと置けるように」
「ふふ。了解」
「……あと、夕飯はちゃんと分担です。俺ばっか作るの嫌なんで」
「うん、それも交渉の余地ありだな」
そんなやりとりをしながら、因幡はそっと紙袋を抱える。甘さの代わりに、少しの覚悟と、たっぷりのぬくもりが詰まったチョコレートケーキが、その日ふたりの間に、ひとつの節目を作った。
---
因幡の家に黒川が正式に越してきて、数日。
夜もすっかり更け、灯りを落としたリビングで、黒川はスマホゲームの画面をじっと見つめていた。
「……またソレか。俺をほっといてまで?」
後ろから聞こえてくる落ち着いた声に、黒川はぴくりと眉を跳ね上げる。
気づけば、和服姿の因幡がそっと背後から覗き込んでいた。
長く艶のある髪が肩越しに揺れ、静かに結ばれたその姿は、どこか無防備にも見える。
「……俺、今ランキング戦やってるんですけど。先生、わざと邪魔してるでしょ」
「ふふ、さて? どうだと思う?」
さらりとした声に、黒川は苛立ちよりも先に、いつものように胸の奥が妙な温度に熱を帯びるのを感じた。
「ったく……」
ゲームを一時停止し、スマホを脇に置くと、黒川は振り返って因幡をじっと見つめた。
そのまま、ソファに凭れていた因幡の腰に手を回し、ぐいと引き寄せる。
「いつも先生の好きにさせてばっかだと思わないでくださいよ」
「へぇ……今日は積極的だな、黒川」
因幡はわざとからかうように目を細める。だが、その目の奥に揺れる色気は、黒川にとって見慣れたようで、見慣れていないような──そんな甘やかな不安定さを含んでいた。
「……先生こそ、油断しないでくださいよ」
そう言って、黒川は因幡の首筋にそっと唇を落とす。
結んだ髪の根元に、吐息混じりのキスを一つ。因幡がわずかに肩を震わせるのがわかる。
「……くすぐったいな。黒川……」
「敏感なんですね、ここ。和服のせいですか?」
黒川の言葉に、因幡は息を飲み、何かを言いかけたが──その前に、もう一度、唇が耳元をなぞった。
「いつも先生に振り回されてばっかなんで……たまには、こっちが翻弄してもいいでしょ」
黒川は笑いながら、因幡の胸元を軽く掴む。
緩くはだけた襟元から覗く肌。触れてみると、驚くほど熱い。
「……黒川」
低く名を呼ばれ、黒川は満足そうに息を吐く。
因幡の唇も少し緩んでいる──拒まれていない。むしろ、その目にはどこか、誘いのような揺らぎすらあった。
「……俺、ちゃんとわかってますから。先生が、されるの嫌いじゃないって」
「……そう見えてるなら、君もたいしたものだな」
それはからかいとも、本音ともとれる声音。
だがその直後、因幡の指が黒川の背を撫で、手が腰にまわった。
「でも、翻弄するつもりなら──その覚悟、ちゃんとしてくれよ?」
その挑発に、黒川の頬がふっと赤く染まる。
「……そっちこそ、覚悟してくださいよ」
因幡の腰に回された腕をほどかぬまま、黒川は一度、浅く息を吸った。
「先生……今夜はもう、容赦しませんから」
その声音に、いつもの理性的な編集者の顔はなかった。
静かに、獲物を追い詰めるような熱のこもった視線だけが、因幡をとらえている。
「へぇ……ずいぶん強気じゃないか」
因幡は口の端を上げて見せたが、黒川はそれに乗らない。
返す代わりに、因幡の髪留めに手を伸ばし、するりとほどく。
「……っ、ちょっと、黒川……」
緩やかにほどけた黒髪が、夜の帳に溶けるように肩に落ちる。
黒川はその髪を一筋指先に絡め、頬にあてた。
「……ずっと、こうしてみたかった」
因幡の髪を弄ぶように撫でながら、黒川はそのまま手を滑らせ、首筋から鎖骨、胸元へ──。
はだけた襟から覗く因幡の肌は、すでにかすかに汗ばんでいた。
「ほんと、和服ってずるいですよね。……隠してるのに、ぜんぶ誘ってるみたいで」
「……言うようになったな、君も」
くぐもった声で返す因幡だったが、その目元にはわずかな滲みがある。
黒川はそれを見逃さなかった。
「先生って……責められるの、嫌いじゃないですよね」
「……さぁ、どうだろうね」
答えの代わりに、因幡の手が黒川のシャツを引く。
だが黒川は、その手を軽く押しとどめた。
「今日は、俺の番です。……ほら、ちゃんと“される覚悟”、できてるんでしょ?」
吐息交じりの低音。
その言葉の端に、普段の黒川らしからぬ、嗜虐的な気配すら滲んでいた。
因幡の瞳がわずかに揺れる。
それを見て、黒川は因幡をソファに押し倒すようにゆっくりと沈ませた。
---
和服の褄が崩れ、布越しの感触が互いの体温を伝える。
黒川の指は丁寧に、けれど容赦なく因幡の敏感な部分を撫でていく。
「……っ、黒川……どこで覚えたんだ、そんな……」
「先生が書いた本、ちゃんと全部読んでますからね」
挑むように唇を重ね、吸い、なぞり、耳元に囁きを落とす。
「自分の文章に……自分がやられるのって、どんな気分ですか?」
因幡は小さく笑った。だがその指先は、黒川の背をなぞりながら、確実に反撃のタイミングを狙っている。
「君に攻められるのも、悪くないって思ったよ……でも──」
「……でも?」
「一度許したら、君は……きっと、調子に乗るだろう?」
「そのときは、また先生が押し返してくればいいんじゃないですか?」
黒川の眼鏡がずれ、熱のこもったオッドアイが因幡を射抜く。
その瞳に、因幡の色香が、熱を持って映っていた。
因幡は笑みを崩さぬまま、黒川の襟元を掴んで引き寄せた。
「……いいだろう。受けて立とう。どこまで攻め込めるか、見せてみろよ」
「──はい。遠慮しませんから」
---
因幡の指先が黒川の腰に回った瞬間、黒川の瞳に何かが灯った。それは、これまで翻弄されていた側の熱ではなく、主導権を奪い返す者の、意志。
「……覚悟できてるなら、先生の小説、参考にさせてもらいますよ」
「……は?」
因幡が目を細めたときには、すでに黒川の手は因幡の帯にかかっていた。ほどくのではない、焦らすように、触れる。指先がまるで読み込むように布をなぞりながら、囁くように言葉を落とす。
「“濡れた視線に、思考が溺れる”──先生の“あの短編”、冒頭の一文。……読んだとき、正直……やばかったです」
因幡の目がわずかに見開かれる。自作を引用され、なおかつそれを実践しようとする黒川に、気圧されるように背筋をのけぞらせる。
「……俺の文章で……?」
「ええ。だからこそ……先生、自分の文章にやられて、どんな気分ですか?」
黒川の指先が襟元をかき寄せ、さらりと覗いたうなじに口づけを落とす。思わず、因幡の口からかすれた吐息がこぼれる。
「く……黒川……」
「声、出ましたね。いい反応です、先生」
黒川の眼差しには、意地の悪い色はない。ただ、情熱と好奇心が熱を帯びて、因幡の全てを味わおうとするような視線だった。
「先生がどうされると一番感じるのか……小説から、けっこう推理したんですよ。……“咬まれるたびに、意識が薄れていくようだった”──ね?」
首筋を、少しだけ強めに甘咬みする。因幡の指が黒川のシャツを握りしめるようにして震える。
「……そ、こまで読んで……覚えて……ん、ふ……っ」
肩がびくりと揺れた。色気のある声音を、堪えきれず零すようにして因幡が洩らした声に、黒川の奥底が甘く疼く。
「新鮮な反応、ありがとうございます。……先生にも、こういう顔あるんですね」
恥じらいと悦楽の入り混じったその表情に、黒川はもう一度だけ、名を呼ぶ。
「……因幡先生」
因幡は目を伏せながら、けれど拒まず、むしろ黒川の手を引き寄せるようにして言葉を返す。
「……続きは……責任取る覚悟があるなら、好きにしな」
まるで自作小説の中の一節のように囁かれたその一言が、黒川の中で何かを決定的に弾けさせた。
黒川の唇がうなじから首筋へ、そして耳元へと這うように滑る。その間にも、指先は因幡の帯の結び目を弄ぶように撫で続けるだけで、ほどこうとはしない。焦らし、じらし、相手の反応を観察するように──。
「……やっぱり。先生、こういうの……弱いんですね」
「っ……ちょ……黒川、お前……」
因幡の声がかすれ、視線が揺れる。普段は人をからかう余裕のある男のはずなのに、今はまるでその余裕を剥がされる側だった。
「“呼吸が触れあうほどの距離で、言葉はもう意味をなさなくなる”──これ、三年前の短編集の中の一文ですよ。……まさに今、そうなってますけど?」
「……記憶力、良すぎるんじゃない……?」
「編集ですから。先生の文章……誰よりも読み込んでますよ。だから……こうされると、どう感じるのかも、だいたい分かる」
そう言いながら、黒川は因幡の胸元へ指を滑り込ませる。肌に直接触れる前に、指先がわずかに震えるのを因幡は感じ取った。躊躇ではなく、昂ぶりの裏返し。
「っ……ふ、……く、黒川……」
「声、いいですね……。もっと聞かせてください。文章だけじゃなくて、生の反応、全部……」
黒川の声はいつになく低く、息がかかるたび、因幡の肌が粟立つような感覚に満たされていく。
「……お前、本気で……攻めてくる気か……?」
「先生が言ったんですよね。『責任取る覚悟があるなら、好きにしな』って。……なら、遠慮しません」
その瞬間、黒川の手が帯を外した。しゅるり、と柔らかな音を立てて和服の前が緩む。因幡の肌が空気に晒されると同時に、黒川の舌が鎖骨をゆっくりとなぞっていく。
「……っ、く……う……」
因幡の息が跳ねるたびに、黒川の手はさらに奥へ、肌と肌の境界線を侵していく。肩から滑り落ちた衣が、床に落ちる音すら甘く響くほど、部屋の空気が熱に満ちていた。
「先生……意外と、攻められると弱いんですね」
「黙れ……お前……っ」
因幡は顔を背けながらも、黒川の手を払おうとはしない。むしろ、次の接触を待つように、身体がほんのわずかに開かれていく。
「……なんだ。もっと煽ってくるかと思ったけど……素直ですね」
黒川がそう囁きながら、再び首筋に吸いついた。今度は跡が残るほど深く、確かにそこにいたという証を刻むように。
「っ……黒川……そこ、だめ……あっ……!」
甘い喘ぎとともに、因幡の手が黒川の肩を掴む。その指先の力は弱くも、確かな意思を伝えてくる。
「じゃあ……どこなら、いいんですか? 先生が一番感じる場所……文章から想像した通りの場所、試しても?」
「……っ……ど、どこまで読んでんだよ、お前……」
「全部ですよ。声にならない感情の行間まで、読み込んでます」
その言葉とともに、黒川は因幡の身体を優しく寝かせ、自らの体重を預ける。眼鏡越しのオッドアイが真っ直ぐに因幡を射抜く。そこにあるのは、編集者としての冷静さではなく、一人の男としての欲と、覚悟。
「先生。……俺に、任せてみませんか?」
「……く……黒川……お前……ほんとに……変わったな……」
「先生が……俺を変えたんです。自覚、ありますか?」
そして黒川は、その手を──文章でしか触れたことのなかった快楽の核心へと伸ばしていく。
リビングのテーブルには、資料とゲラの束。黙々と赤を入れる因幡の斜め前で、黒川は無造作にリュックを置くと、その中から小さな紙袋を引っぱり出した。
「……あー……」
声をかけるのに一拍、妙に間が空く。
「……ほら、コレ」
ぽん、と紙袋をテーブルに置く。中身が崩れないように気をつけた手つきのわりに、目線はそっぽを向いたままだ。
「昨日、律くんと作ったやつ。……別に深い意味とかないですけど。バレンタインだし、編集担当だし、まぁ……その……なんか、流れっていうか」
言い訳が先に出るのが黒川らしい。言葉の端々が尖りながらも、どこか照れくさそうで。肩まで赤くなっているのを見て、因幡は小さく笑う。
「ありがとう。……いただくよ」
さらりと礼を言って、紙袋を受け取る因幡。中をちらりと覗き見て、「おや、律の手じゃないな」とでも言いたげな目をしてから、再び黒川を見た。
「黒川」
「……はい?」
不意に名前で呼ばれて、黒川は思わず背筋を伸ばす。
「そろそろ……うちに正式に住まないか?」
「は?」
思わず聞き返した黒川は、瞬時に眉をひそめた。だが怒ったというより、目の奥が妙に揺れている。
「いや、だからその。今は“よく入り浸ってる”って程度だろ?でも、こっちは……いっそ全部整えて、鍵もちゃんと渡して、生活の足場にしてくれて構わないって思ってる」
因幡の声はいつもの調子だった。落ち着いていて、どこか含みがあって。でもその目だけはまっすぐで、冗談じゃないことを語っていると、黒川にもすぐにわかった。
「……あんた、またそうやって、するっと変なこと言う」
黒川は視線を泳がせながら、ゆっくりと息を吐く。
「こっちは、いきなりそういうの、けっこう……くるんですけど。マジで……先生、からかってます?」
「本気だよ。……これ以上、黒川が遠慮してるの、見てるのも癪だしな」
そう言って因幡が少しだけ笑った瞬間、黒川の肩の力が抜けた。
「……仕方ない、っすね。だったら、ちゃんとスペース空けてくださいよ。俺の漫画の資料とか、荷物とか、ちゃんと置けるように」
「ふふ。了解」
「……あと、夕飯はちゃんと分担です。俺ばっか作るの嫌なんで」
「うん、それも交渉の余地ありだな」
そんなやりとりをしながら、因幡はそっと紙袋を抱える。甘さの代わりに、少しの覚悟と、たっぷりのぬくもりが詰まったチョコレートケーキが、その日ふたりの間に、ひとつの節目を作った。
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「……またソレか。俺をほっといてまで?」
後ろから聞こえてくる落ち着いた声に、黒川はぴくりと眉を跳ね上げる。
気づけば、和服姿の因幡がそっと背後から覗き込んでいた。
長く艶のある髪が肩越しに揺れ、静かに結ばれたその姿は、どこか無防備にも見える。
「……俺、今ランキング戦やってるんですけど。先生、わざと邪魔してるでしょ」
「ふふ、さて? どうだと思う?」
さらりとした声に、黒川は苛立ちよりも先に、いつものように胸の奥が妙な温度に熱を帯びるのを感じた。
「ったく……」
ゲームを一時停止し、スマホを脇に置くと、黒川は振り返って因幡をじっと見つめた。
そのまま、ソファに凭れていた因幡の腰に手を回し、ぐいと引き寄せる。
「いつも先生の好きにさせてばっかだと思わないでくださいよ」
「へぇ……今日は積極的だな、黒川」
因幡はわざとからかうように目を細める。だが、その目の奥に揺れる色気は、黒川にとって見慣れたようで、見慣れていないような──そんな甘やかな不安定さを含んでいた。
「……先生こそ、油断しないでくださいよ」
そう言って、黒川は因幡の首筋にそっと唇を落とす。
結んだ髪の根元に、吐息混じりのキスを一つ。因幡がわずかに肩を震わせるのがわかる。
「……くすぐったいな。黒川……」
「敏感なんですね、ここ。和服のせいですか?」
黒川の言葉に、因幡は息を飲み、何かを言いかけたが──その前に、もう一度、唇が耳元をなぞった。
「いつも先生に振り回されてばっかなんで……たまには、こっちが翻弄してもいいでしょ」
黒川は笑いながら、因幡の胸元を軽く掴む。
緩くはだけた襟元から覗く肌。触れてみると、驚くほど熱い。
「……黒川」
低く名を呼ばれ、黒川は満足そうに息を吐く。
因幡の唇も少し緩んでいる──拒まれていない。むしろ、その目にはどこか、誘いのような揺らぎすらあった。
「……俺、ちゃんとわかってますから。先生が、されるの嫌いじゃないって」
「……そう見えてるなら、君もたいしたものだな」
それはからかいとも、本音ともとれる声音。
だがその直後、因幡の指が黒川の背を撫で、手が腰にまわった。
「でも、翻弄するつもりなら──その覚悟、ちゃんとしてくれよ?」
その挑発に、黒川の頬がふっと赤く染まる。
「……そっちこそ、覚悟してくださいよ」
因幡の腰に回された腕をほどかぬまま、黒川は一度、浅く息を吸った。
「先生……今夜はもう、容赦しませんから」
その声音に、いつもの理性的な編集者の顔はなかった。
静かに、獲物を追い詰めるような熱のこもった視線だけが、因幡をとらえている。
「へぇ……ずいぶん強気じゃないか」
因幡は口の端を上げて見せたが、黒川はそれに乗らない。
返す代わりに、因幡の髪留めに手を伸ばし、するりとほどく。
「……っ、ちょっと、黒川……」
緩やかにほどけた黒髪が、夜の帳に溶けるように肩に落ちる。
黒川はその髪を一筋指先に絡め、頬にあてた。
「……ずっと、こうしてみたかった」
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はだけた襟から覗く因幡の肌は、すでにかすかに汗ばんでいた。
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黒川はそれを見逃さなかった。
「先生って……責められるの、嫌いじゃないですよね」
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「今日は、俺の番です。……ほら、ちゃんと“される覚悟”、できてるんでしょ?」
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それを見て、黒川は因幡をソファに押し倒すようにゆっくりと沈ませた。
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和服の褄が崩れ、布越しの感触が互いの体温を伝える。
黒川の指は丁寧に、けれど容赦なく因幡の敏感な部分を撫でていく。
「……っ、黒川……どこで覚えたんだ、そんな……」
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「自分の文章に……自分がやられるのって、どんな気分ですか?」
因幡は小さく笑った。だがその指先は、黒川の背をなぞりながら、確実に反撃のタイミングを狙っている。
「君に攻められるのも、悪くないって思ったよ……でも──」
「……でも?」
「一度許したら、君は……きっと、調子に乗るだろう?」
「そのときは、また先生が押し返してくればいいんじゃないですか?」
黒川の眼鏡がずれ、熱のこもったオッドアイが因幡を射抜く。
その瞳に、因幡の色香が、熱を持って映っていた。
因幡は笑みを崩さぬまま、黒川の襟元を掴んで引き寄せた。
「……いいだろう。受けて立とう。どこまで攻め込めるか、見せてみろよ」
「──はい。遠慮しませんから」
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因幡の指先が黒川の腰に回った瞬間、黒川の瞳に何かが灯った。それは、これまで翻弄されていた側の熱ではなく、主導権を奪い返す者の、意志。
「……覚悟できてるなら、先生の小説、参考にさせてもらいますよ」
「……は?」
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「“濡れた視線に、思考が溺れる”──先生の“あの短編”、冒頭の一文。……読んだとき、正直……やばかったです」
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「……俺の文章で……?」
「ええ。だからこそ……先生、自分の文章にやられて、どんな気分ですか?」
黒川の指先が襟元をかき寄せ、さらりと覗いたうなじに口づけを落とす。思わず、因幡の口からかすれた吐息がこぼれる。
「く……黒川……」
「声、出ましたね。いい反応です、先生」
黒川の眼差しには、意地の悪い色はない。ただ、情熱と好奇心が熱を帯びて、因幡の全てを味わおうとするような視線だった。
「先生がどうされると一番感じるのか……小説から、けっこう推理したんですよ。……“咬まれるたびに、意識が薄れていくようだった”──ね?」
首筋を、少しだけ強めに甘咬みする。因幡の指が黒川のシャツを握りしめるようにして震える。
「……そ、こまで読んで……覚えて……ん、ふ……っ」
肩がびくりと揺れた。色気のある声音を、堪えきれず零すようにして因幡が洩らした声に、黒川の奥底が甘く疼く。
「新鮮な反応、ありがとうございます。……先生にも、こういう顔あるんですね」
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「……因幡先生」
因幡は目を伏せながら、けれど拒まず、むしろ黒川の手を引き寄せるようにして言葉を返す。
「……続きは……責任取る覚悟があるなら、好きにしな」
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「“呼吸が触れあうほどの距離で、言葉はもう意味をなさなくなる”──これ、三年前の短編集の中の一文ですよ。……まさに今、そうなってますけど?」
「……記憶力、良すぎるんじゃない……?」
「編集ですから。先生の文章……誰よりも読み込んでますよ。だから……こうされると、どう感じるのかも、だいたい分かる」
そう言いながら、黒川は因幡の胸元へ指を滑り込ませる。肌に直接触れる前に、指先がわずかに震えるのを因幡は感じ取った。躊躇ではなく、昂ぶりの裏返し。
「っ……ふ、……く、黒川……」
「声、いいですね……。もっと聞かせてください。文章だけじゃなくて、生の反応、全部……」
黒川の声はいつになく低く、息がかかるたび、因幡の肌が粟立つような感覚に満たされていく。
「……お前、本気で……攻めてくる気か……?」
「先生が言ったんですよね。『責任取る覚悟があるなら、好きにしな』って。……なら、遠慮しません」
その瞬間、黒川の手が帯を外した。しゅるり、と柔らかな音を立てて和服の前が緩む。因幡の肌が空気に晒されると同時に、黒川の舌が鎖骨をゆっくりとなぞっていく。
「……っ、く……う……」
因幡の息が跳ねるたびに、黒川の手はさらに奥へ、肌と肌の境界線を侵していく。肩から滑り落ちた衣が、床に落ちる音すら甘く響くほど、部屋の空気が熱に満ちていた。
「先生……意外と、攻められると弱いんですね」
「黙れ……お前……っ」
因幡は顔を背けながらも、黒川の手を払おうとはしない。むしろ、次の接触を待つように、身体がほんのわずかに開かれていく。
「……なんだ。もっと煽ってくるかと思ったけど……素直ですね」
黒川がそう囁きながら、再び首筋に吸いついた。今度は跡が残るほど深く、確かにそこにいたという証を刻むように。
「っ……黒川……そこ、だめ……あっ……!」
甘い喘ぎとともに、因幡の手が黒川の肩を掴む。その指先の力は弱くも、確かな意思を伝えてくる。
「じゃあ……どこなら、いいんですか? 先生が一番感じる場所……文章から想像した通りの場所、試しても?」
「……っ……ど、どこまで読んでんだよ、お前……」
「全部ですよ。声にならない感情の行間まで、読み込んでます」
その言葉とともに、黒川は因幡の身体を優しく寝かせ、自らの体重を預ける。眼鏡越しのオッドアイが真っ直ぐに因幡を射抜く。そこにあるのは、編集者としての冷静さではなく、一人の男としての欲と、覚悟。
「先生。……俺に、任せてみませんか?」
「……く……黒川……お前……ほんとに……変わったな……」
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高校3年の春、同級生の名取に告白した冬だったが名取にはあっさりと冗談だったことにされてしまう。それを否定することもなく卒業し手以来、冬は親友だった名取とは距離を置こうと一度も連絡を取らなかった。そして8年後、勤めている会社の取引先で転勤してきた名取と8年ぶりに再会を果たす。再会してすぐ名取は自身の結婚式に出席してくれと冬に頼んできた。はじめは断るつもりだった冬だが、名取の願いには弱く結局引き受けてしまう。そして式当日、幸せに溢れた雰囲気に疲れてしまった冬は式場の中庭で避難するように休憩した。いまだに思いを断ち切れていない自分の情けなさを反省していると、そこで別の式に出席している男と出会い…
血のつながらない弟に誘惑されてしまいました。【完結】
まつも☆きらら
BL
突然できたかわいい弟。素直でおとなしくてすぐに仲良くなったけれど、むじゃきなその弟には実は人には言えない秘密があった。ある夜、俺のベッドに潜り込んできた弟は信じられない告白をする。
王子様と一緒。
紫紺
BL
田中明夫は作家を目指して10年、全く目が出ない男だ。
ある日、書店の前で金髪青い目の青年が突然話しかけてきた。最初は胡散臭く思っていたのだが……。
南の国の第2王子アスラン、その護衛トーゴー、田中が住むアパートの大家や住人の奨励会員などなど。
様々な人間模様と恋模様が織りなすBL多めのラブコメ開幕です!
竜神様の番
田舎
BL
いつかX内で呟いた、
『えーん、えーん…💦
竜人の攻めが長いこと探してた番の人間くんを探して(半強制的)に結婚したのに、ツンデレどころかクーデレが過ぎてたせいで、ある日人間くんが「離縁します」と置き手紙残して失踪…!
後悔とブチギレしてる話がなきゃ掃除と洗濯できない😭😭』
という自分の愚痴から始まったツイノベもどきを、再構成と校正しました。
「番」とは何かも知らされず、
選択肢すら与えられなかった人間リオと、
大切にしている“つもり”だった竜人のナガレ。
ちゃんとハッピーエンドです。
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