官能霊媒師は朗読で祓う

あしゅ太郎

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俺の先生は、ちょっと面倒で優しい(1)

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遮光カーテンの隙間から差し込む月明かりが、仄かに部屋を照らしていた。

因幡は黒川の隣で布団に入っていた。規則正しい寝息が背中越しに聞こえる。肩に黒川の指先がわずかに触れていて、そのぬくもりが心地よかった。

……はずだった。

夜が深くなり、因幡は不意に冷たい汗をかいて、荒い息とともに目を覚ました。全身が強張り、喉が乾いていた。夢の中で、またあの記憶が甦ったのだ。

——食器の割れる音。
——母の短い悲鳴。
——殴られる音。
——動けない自分。

「やめて……っ」と叫んでも、何も変わらなかった。あの夜も、あの朝も、何度も。

因幡はそっと体を起こして、眠る黒川を見下ろす。その穏やかな寝顔に、胸が締めつけられるような感覚が広がった。

(……俺の中にも、あの血が流れてる)

そう思うと、どうしようもなく怖くなる瞬間がある。

普段は冷静で、冗談も交わせる。多少のことで取り乱すような性格ではないつもりだ。だが——もし、自分もいつか、父のように“怒りに呑まれてしまったら”?

黒川に手をあげてしまったら。

そんな未来を想像するだけで、吐き気がした。

(黒川が、俺のそばで安心して眠ってる。それが、こんなにも嬉しくて幸せなのに。……なのに、なんで俺は……)

胸元に手を当てると、鼓動が早かった。汗ばむ指先を握りしめて、そっと布団の端を掴む。

「大丈夫だ、俺は父親とは違う……違うはずなんだ……」

けれど、確信は持てない。怒鳴られた記憶、殴られた母の姿、それを止められなかった無力な少年の自分が、いまだに背中にしがみついて離れない。

不意に黒川が寝返りを打ち、因幡の手に触れた。

「……ん、せんせ……どうかした?」

寝ぼけた声。無防備で、柔らかくて、優しくて——

その声に、因幡は何も言えなくなった。ただ黙って、黒川の手をそっと握り返す。言葉にすれば、きっと壊れてしまいそうだった。

(頼む。こんな俺のそばに、これからもいてくれ)

ただ、願うように。

明け方が静かに、部屋の空気を染め始めていた。

---

割れた窓から吹き込む夜風が、古びた書類の山をはためかせる。蛍光灯はとうに死んでいて、因幡の持つランタンだけが、二人の足元をぼんやりと照らしていた。

黒川が床を軽く蹴って、埃を舞わせる。

「うっわ……ほんとに、ここ出るんですかね? マジで人が住んでたとは思えねえ……」

「ま、出るかどうかはこれからのお楽しみ、ってとこだな」

因幡は懐から文庫本サイズの和綴じノートを取り出し、黒川に背を向けたままページを繰った。柔らかな声色に、微かな余裕が滲んでいる。

「……先生、それ、まさか朗読用じゃないですよね」

「おや。黒川、最近はもう“読むな”って言わなくなったな」

「誰が言いましたかそんなこと。俺は、あの朗読が別に……怖くないってだけで……つーか今それどころじゃないっての!」

肩をすくめる黒川に、因幡は笑いながら振り返った。その笑顔の奥に、どこか硬い影があることには、黒川はまだ気づいていなかった。

「そうだな。今日は少し、様子が違う」

因幡がゆっくりと前へ踏み出したその瞬間——。

空気が変わった。

冷気とは異なる、骨の奥をひやりと撫でるような、何かが“触れた”感覚。黒川が息を呑んだ直後、床の隙間から黒い“影”が這い上がってくる。

「う……な、何ですかあれ……」

影は人の形をしていた。だが、顔は曖昧に歪み、見るたびに違う誰かに似ている気がした。黒川の目にはただの“異形”として映るそれを、因幡は見て、凍りついた。

「……また、お前か」

その声は、いつになく乾いていた。冗談も、微笑もない。

「因幡……先生?」

「“影喰い”だ。俺の記憶に取り憑いた、厄介な奴さ」

影の顔がぬるりと因幡の父親へと変わる。次の瞬間には、幼い因幡が泣きながら母の前に立つ幻影。そして——因幡自身の姿が現れる。だが、その“因幡”は黒川に手を上げようとしていた。

黒川は一歩後ずさる。

「……なんだよ、あれ……俺を、殴ろうとしてんのか?」

因幡は首を振った。

「違う。あれは……俺が恐れている俺自身だ」

影喰いが口を開く。だが声は因幡のものだった。

「“黒川を守るなんて、無理だ。お前は血を引いてる。いずれ同じように手を上げる。壊すんだ、いちばん大事なものを”」

因幡の指が震えた。だが、黒川の声が静寂を切り裂いた。

「先生」

はっと顔を上げる。

「……そんな顔すんなよ」

黒川が強引に因幡の腕を掴んだ。

「先生が自分のことどう思ってようと、俺が信じてる因幡先生は、そんなことしない人だっての」

因幡は息を詰める。

「黒川……」

「それに、俺がそんな簡単に壊れるかっての。俺だって……先生を守りてえんだよ」

その一言が、影喰いの形を揺るがせた。黒い輪郭が、びりびりとひび割れ始める。

因幡はゆっくりとノートを開いた。

「……読み聞かせてやろうか、“優しくて愚かな男”の物語を」

黒川が思わず「うわ、それはやべぇヤツだ」と呟いた時、因幡の声が廃ビルに響いた。

> 「——彼は己の罪を恐れていた。それでも、愛する人の隣に居ることを選んだのだ」

文字が音に変わり、影喰いの身体にぶつかるたびに、影は焦げるように煙を上げて消えていく。

最後に残ったのは、幼い因幡の幻影。その手に触れるように、因幡が指を伸ばした。

「……もう、大丈夫だ。お前は何も悪くない」

そして、それも煙のように霧散した。

---

因幡がその場に崩れそうになるのを、黒川が肩で支えた。

「……先生。さっきのセリフ、なんか本気っぽかったですよ」

「おや、さすがに今のは効いたか」

「……先生、からかってます?」

「さあ、どうだろうね」

しかしその手は、微かに黒川の背に回っていた。自分が誰かを傷つける人間ではないと、少しだけ思えるようになったその夜。因幡は、ようやく少しだけ眠れそうな気がした。

---

「……やっと消えた、か……」

緊張が解けたのか、先生の身体から力が抜けるのがわかった。ぐらりと体勢が崩れそうになったのを、俺はとっさに両腕で支えた。思ってたより細くて、骨ばってる背中。こんな体で、あんなもんと向き合って、ひとりでずっと……。

「先生、大丈夫……っすか?」

うつむいて、因幡先生は何も言わなかった。まぶたを伏せたまま、ただ深く呼吸してる。平静を装ってるけど、手が、ほんの少し震えていた。

この人、強がってる。たぶん、さっきの影……自分自身と向き合ったのが、相当きつかったんだ。

ふと、俺の胸に先生の頭が、そっと寄りかかってくる。

「せ、先生……」

声が裏返りそうになる。なんかもう、いろいろ近い。が、今は文句言ってる場合じゃねえ。

俺は小さく息を吐いて、先生の頭を軽く抱き寄せた。指が髪に触れて、驚くほど柔らかかった。たぶん、緊張してるのは俺のほうだ。

「……なんかあったら、ちゃんと俺に言ってくださいよ」

ぽつりと、呟いた。

「そんで……怖くなったら、こうやって……俺のとこ、来りゃいいっす」

先生は何も言わない。だけど、肩の力が少しだけ抜けたのがわかった。

たぶん、こういうの、正解かどうか分かんねえけど——俺にできんのは、こいつの隣に立ってることくらいだから。

「先生は、俺のこと殴ったりしねえよ。……だって先生、優しいもん」

言いながら、ちょっと照れてる自分が嫌になる。でも、口に出しとかないと、不安そうな先生に届かない気がして。

「……なに言ってんのか、俺……」

ぼそっと呟いた俺の言葉に、ようやく因幡先生が小さく笑った。
「……黒川って、本当に馬鹿だな」

その言葉に、俺はちょっとだけ口元を歪めて笑った。先生の声には、いつもの皮肉と、ほんの少しの優しさが混じってる。

「馬鹿でも、いいっすよ。先生が笑ってくれるなら」

自分で言っておいて、顔が熱くなるのがわかった。恥ずかしさを隠すみたいに、先生の頭にそっと手を置く。

「……先生のこと、ちゃんと支えられる馬鹿でいられるように、頑張るからさ」

隣にい続けるって、そういうことだろ。

先生は少し黙ってから、ふっと息をついた。笑ったのか、安心したのか、たぶんその両方。

「……もう少し、このままでもいいか」

その言葉が、俺の胸の奥にじんと染みてくる。

「……俺も、もう少しこうしてたいんで。……ダメ、じゃないです」

先生がうなずく気配がした。静かな廃ビルの中、ふたりの呼吸だけが、ゆっくりと溶け合っていった。

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