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みえない
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突然、周りの景色が味気なくなった。
季節は5月の中旬、濃い緑の匂いや、ふんわり漂う庭先の上品なばらの香り、道路沿いのさつきの鮮やかなピンク色など、一年でもとてもきれいな時期なのに。
羽織るものもいらないほど、暖かな風が吹いて、外はうきうきと出かけたくなるような陽気なのに。
原因はわかっている。
ゴールデンウィーク中に出された宿題のせいだ。
将来なりたい職業、興味のある仕事を調べて提出するというもの。進路指導の一環のようだ。
小学校でも、中学校でも散々聞かれた問いだ。その都度、当たり障りのないことを返答してきた。
はっきり言って、なりたいものなんてない、わからない、というのが私の答えだ。
好きなことはある。本やマンガを読むのが好き、絵を描くのが好き、ユーチューブで最新の曲をチェックして聞くのも好き。でもそれが、どうやって将来の職業に結びつくの?
あぁ、提出期限は明日だ、と思うとますますいい考えが浮かばず、かと言って今までのように安易な答えを書く気にもなれず、思い余って私は外に出た。
せっかくの休日なのに、何をする気も起きず、重い気持ちを抱いたまま、とぼとぼと歩を進める。
気がつくと、近くに住む叔母の家に向かっていた。借家ながら、こじんまりとしたお洒落な一軒家で、小さなコーヒー店も併設している。
叔母はそのお店を一人で切り盛りしていた。
彼女の作るスイーツは格別美味しいと評判で、小さなお店はいつも繁盛していた。
近付くにつれ、香ばしいコーヒーの匂いが流れてきた。
あれ?今日はお休みって言ってたのに…。
私の母はフルタイムで働いており、休日も出かける事が多い。
小さい頃はちょくちょく叔母の家に預けられていたが、そのうち大きくなると、逆に忙しい時は私がお店を手伝うこともあった。
「ゆう姉ちゃん、こんにちはー!」
カランコロンと古風な鐘の鳴る扉を開けて、私は声をかけた。
叔母は母とは10歳以上離れているせいか、若々しくきりっとしていて、とてもおばさんと呼ぶ雰囲気ではない。
小さい頃から、私は叔母のことをこう呼んでいた。
「あ、みく?いらっしゃいー!ちょうどいいところに来てくれた。」
叔母はカウンターの奥からそう言うと、ひらひらと私に向かって手招きした。
私はごつごつとした木でできた椅子やテーブルの間を縫って、叔母のいる場所まで進んだ。
「ねえ、今日ってお店休みじゃなかった?月曜日は祝日に関わらず休みだったよね。」
「うん、そう、でも新作スイーツとそれに合うコーヒーを入れてみたくてお店で作業してたんだ。店の外には定休日って札を下げてたはずだけどね。」
…コーヒーの香りにつられてうっかり見逃していた。
「そう、それでちょうど誰かに試食してもらおうかと思ってたところに、みくが来てくれてグッドタイミングだったんだ…。でも…。」
叔母はそう言うと、私の顔を覗き込んだ。
「何かあったの?冴えない顔してるけど…。」
そこで私は正直に、今の悩みを打ち明けた。
「ふうん、最近ではあまり子どもに将来何になりたいのかって執拗に聞くのも良くないって何かの新聞で読んだけど…。」
叔母はそう言うと、カチャカチャとコーヒーカップを一組用意して、カウンターの椅子に腰かけた私に、淹れたてのコーヒーを注いでくれた。
「はい、酸味の少ないさっぱりしたブレンドコーヒーだよ。このスイーツとも合うはず。」
「…ありがとう。あのさ、ゆう姉ちゃんは、子どもの時、将来の夢ってあった?コーヒー店を出すのは、昔からの夢?」
薫り高いコーヒーをゆっくり口にしながら、私は尋ねた。
…それにしても、何ていい匂い。鼻から抜けて体中落ち着くこの感じ…アロマ効果もあるって言うけれど、本当だよね…最近ブラックで飲める様になって良かった…。
「夢ね…、うん、私の場合はありすぎて逆に絞れなかったかな。色々あって、今のコーヒー店に落ち着いた感じ。」
茶目っ気たっぷりに言う叔母に、私はがくっとなった。
「…参考にならないし。」
「ちなみに、このコーヒー店もまだ終着点じゃないのよ。やりたいこと、色々あるからさ。まぁね、結局のところなるようになるしかないのよ…。月並みだけど、学生のうちはいろんなものを見て、聞いて、食べて、五感をフルに活用して、自分の中の経験袋を一杯にしておくの。そうすると、ふとした瞬間に、あれ、この感覚、やりたいことと合致する…って思う事があるんだよね。」
「要するに、焦らなくていい、ってことかな。みくは真面目過ぎるところがあるからね…。私なんて逆に言うと、アラフォーになってもまだ迷ってるわけだしね。」
そう言うと、叔母は白磁のシンプルなお皿に載せたふわふわのシフォンケーキを私の前に置いた。
ケーキの上には真っ白なクリーム、更にその上にはイチゴやベリーのジャムがとろりとかかっている。
「はい、新作のシフォンケーキだよ。ジャムソースからもちろん手作りでーす!ちなみにクリームはただのホイップではなくて、ヨーグルトソース入り。それと…。」
ふいに叔母は声を潜めると、私の耳に内緒話をするかのように囁いた。
「実はねえ、このケーキには薫り付けにバニラビーンズを使ってるんだけれど、これが旅行先で手に入れたちょっと珍しいもので、食べると不思議なことが起こるとか起こらないとか…。」
「まぁ、騙されたと思って食べてみて。」
叔母はそう言って、パチンと片目を瞑ると、いたずらっ子の様な笑みを浮かべた。
季節は5月の中旬、濃い緑の匂いや、ふんわり漂う庭先の上品なばらの香り、道路沿いのさつきの鮮やかなピンク色など、一年でもとてもきれいな時期なのに。
羽織るものもいらないほど、暖かな風が吹いて、外はうきうきと出かけたくなるような陽気なのに。
原因はわかっている。
ゴールデンウィーク中に出された宿題のせいだ。
将来なりたい職業、興味のある仕事を調べて提出するというもの。進路指導の一環のようだ。
小学校でも、中学校でも散々聞かれた問いだ。その都度、当たり障りのないことを返答してきた。
はっきり言って、なりたいものなんてない、わからない、というのが私の答えだ。
好きなことはある。本やマンガを読むのが好き、絵を描くのが好き、ユーチューブで最新の曲をチェックして聞くのも好き。でもそれが、どうやって将来の職業に結びつくの?
あぁ、提出期限は明日だ、と思うとますますいい考えが浮かばず、かと言って今までのように安易な答えを書く気にもなれず、思い余って私は外に出た。
せっかくの休日なのに、何をする気も起きず、重い気持ちを抱いたまま、とぼとぼと歩を進める。
気がつくと、近くに住む叔母の家に向かっていた。借家ながら、こじんまりとしたお洒落な一軒家で、小さなコーヒー店も併設している。
叔母はそのお店を一人で切り盛りしていた。
彼女の作るスイーツは格別美味しいと評判で、小さなお店はいつも繁盛していた。
近付くにつれ、香ばしいコーヒーの匂いが流れてきた。
あれ?今日はお休みって言ってたのに…。
私の母はフルタイムで働いており、休日も出かける事が多い。
小さい頃はちょくちょく叔母の家に預けられていたが、そのうち大きくなると、逆に忙しい時は私がお店を手伝うこともあった。
「ゆう姉ちゃん、こんにちはー!」
カランコロンと古風な鐘の鳴る扉を開けて、私は声をかけた。
叔母は母とは10歳以上離れているせいか、若々しくきりっとしていて、とてもおばさんと呼ぶ雰囲気ではない。
小さい頃から、私は叔母のことをこう呼んでいた。
「あ、みく?いらっしゃいー!ちょうどいいところに来てくれた。」
叔母はカウンターの奥からそう言うと、ひらひらと私に向かって手招きした。
私はごつごつとした木でできた椅子やテーブルの間を縫って、叔母のいる場所まで進んだ。
「ねえ、今日ってお店休みじゃなかった?月曜日は祝日に関わらず休みだったよね。」
「うん、そう、でも新作スイーツとそれに合うコーヒーを入れてみたくてお店で作業してたんだ。店の外には定休日って札を下げてたはずだけどね。」
…コーヒーの香りにつられてうっかり見逃していた。
「そう、それでちょうど誰かに試食してもらおうかと思ってたところに、みくが来てくれてグッドタイミングだったんだ…。でも…。」
叔母はそう言うと、私の顔を覗き込んだ。
「何かあったの?冴えない顔してるけど…。」
そこで私は正直に、今の悩みを打ち明けた。
「ふうん、最近ではあまり子どもに将来何になりたいのかって執拗に聞くのも良くないって何かの新聞で読んだけど…。」
叔母はそう言うと、カチャカチャとコーヒーカップを一組用意して、カウンターの椅子に腰かけた私に、淹れたてのコーヒーを注いでくれた。
「はい、酸味の少ないさっぱりしたブレンドコーヒーだよ。このスイーツとも合うはず。」
「…ありがとう。あのさ、ゆう姉ちゃんは、子どもの時、将来の夢ってあった?コーヒー店を出すのは、昔からの夢?」
薫り高いコーヒーをゆっくり口にしながら、私は尋ねた。
…それにしても、何ていい匂い。鼻から抜けて体中落ち着くこの感じ…アロマ効果もあるって言うけれど、本当だよね…最近ブラックで飲める様になって良かった…。
「夢ね…、うん、私の場合はありすぎて逆に絞れなかったかな。色々あって、今のコーヒー店に落ち着いた感じ。」
茶目っ気たっぷりに言う叔母に、私はがくっとなった。
「…参考にならないし。」
「ちなみに、このコーヒー店もまだ終着点じゃないのよ。やりたいこと、色々あるからさ。まぁね、結局のところなるようになるしかないのよ…。月並みだけど、学生のうちはいろんなものを見て、聞いて、食べて、五感をフルに活用して、自分の中の経験袋を一杯にしておくの。そうすると、ふとした瞬間に、あれ、この感覚、やりたいことと合致する…って思う事があるんだよね。」
「要するに、焦らなくていい、ってことかな。みくは真面目過ぎるところがあるからね…。私なんて逆に言うと、アラフォーになってもまだ迷ってるわけだしね。」
そう言うと、叔母は白磁のシンプルなお皿に載せたふわふわのシフォンケーキを私の前に置いた。
ケーキの上には真っ白なクリーム、更にその上にはイチゴやベリーのジャムがとろりとかかっている。
「はい、新作のシフォンケーキだよ。ジャムソースからもちろん手作りでーす!ちなみにクリームはただのホイップではなくて、ヨーグルトソース入り。それと…。」
ふいに叔母は声を潜めると、私の耳に内緒話をするかのように囁いた。
「実はねえ、このケーキには薫り付けにバニラビーンズを使ってるんだけれど、これが旅行先で手に入れたちょっと珍しいもので、食べると不思議なことが起こるとか起こらないとか…。」
「まぁ、騙されたと思って食べてみて。」
叔母はそう言って、パチンと片目を瞑ると、いたずらっ子の様な笑みを浮かべた。
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