公爵夫人は命がけ!

保谷なのめ

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【第1章】婚約・結婚式編

4話 メイド長の影

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「リディア様」

「は、はい……」

 

 イザベラに呼び止められ、本の保管庫へ向かおうとしていたリディアは足を止めた。声がこわばってしまうのは、リディアが彼女のことを苦手に思っているからである。

 メイド長であるイザベラは小説中にも登場するのだが、モデルは前世で勤めていた会社の上司だった。彼女は規律に厳しくきっちりした人間で、色々と自由にやりたいタイプのリディアもとい、里奈とはそりが合わなかった。このイザベラは小説中では、家柄を理由にキースのアリシアとの結婚に反対する。まあいわばラスボスより前に登場する、初期の敵キャラだった。敵キャラ然とした厳しい顔立ちの彼女は、渋い表情をするリディアのことを少しも気にとめずに口を開く。



「先日お渡しした、使用人のリストはご覧になりましたか?」

「えっ? あぁ……」



 そういえば何日か前、リストを渡されて、それを管理するのが夫人の仕事だと言われたっけ。その後色々バタバタとしていて、一度軽く目を通しただけだったが、何か問題でもあったのだろうか? リディアの気の抜けた返事に、イザベラは大きくため息を吐く。



「それぞれいくら程度の報酬を与えているかについても書いていますから、きちんと目を通すようにしてください。とにかく……今日はこの家の予算とお金の管理についてお教えしますから、来ていただけますか?」

「……今?」



 リディアの問いに、イザベラは厳しい表情を崩さないまま「今です」と即答した。



 ***



 イザベラは、前夫人——つまり、キースの母が使っていたという書斎にリディアを案内した。



「帳簿はこの辺りにまとめてあります」



 イザベラが指した棚には、何種類かの帳簿が綺麗に収まっていた。前夫人が亡くなってから、この部屋は使われていないと聞いたが、どこにも埃はなく、きちんと手入れがされている。何も刺さっていない花瓶のそばには、親子3人の写真が飾られていた。

 部屋に色濃く残る前の主の気配に、リディアは物語の都合で彼女を死なせてしまったことを申し訳なく思った。



「リディア様」

「! ッ、ごめんなさい。……この部屋、よく片付いているのね」



 部屋を眺めて上の空だったリディアの意識を、イザベラの声が呼び戻す。彼女が部屋に対する素直な感想を述べると、イザベラはふっと表情を消した。



「奥様が亡くなってから、この部屋は使っていませんから」



 その声は低く静かで、感情を殺しているようだった。この“奥様”というのは当然リディアではなく、前夫人のことだろう。写真の中の彼女はその美しい顔に、やわらかい笑みを湛えている。キースの淡いブルーの瞳は母親譲りらしい。今の、笑った顔も想像できないような冷ややかな美しさとは違い、まだ無邪気に笑う幼いキースが印象的だった。



「それだけ皆さん、彼女とのことを大切にしてきたのね」



 リディアは写真立ての置いてあるテーブルをそっと撫で、心の中で彼女にごめんなさいと謝った。



「……はい。奥様は誰にでも優しく、素晴らしい方でしたから」



 イザベラが懐かしむような表情を浮かべているのを、リディアは眺めていた。気の合わない上司をモデルに単なるヴィランキャラとして登場させた彼女にもまた、今までの人生があり、生きているのだ。



「——よし、始めましょうか」



 そんな彼女たちが今まで受け継いできた仕事だ。気合を入れて取り掛かろう。リディアは自分の頬を軽くたたいて己に喝を入れた。



 ***



「こちらがリディア様がなさるお仕事の帳簿です」



 公爵夫人としてリディアに任された仕事は主に2つ。ひとつは、キースの苦手分野である、社交界での関わり。彼が妻をとることにしたのもここが一番大きな理由だろう。そしてもうひとつが、使用人や経済的な面を含めた屋敷の中のことに関する管理だった。

 イザベラが示したのはちょうどその屋敷の管理全般に関する諸経費を記したもので、予算は月いくら程度で、どこにどう記入するかといった説明がなされた。ある程度は実家でも学んできたが、家自体の規模がかなり違うので、貴族として育った感覚であっても少しびっくりするような金額が割り当てられている。



「ほかのものは何に関する帳簿なの?」

「騎士や防衛に関わるものと、領地の経営に関するものです。こちらは旦那様が担当なさっています。ここにあるのは控えです」



 領地の経営などは、家によってどう運営しているかが異なる。リディアの実家であるアークェット家では両親が揃って行っていたが、家によっては外部の専門家を入れることもある。ローゼンブルク家では、キースが行っているらしい。

 ひとつを管理するだけでもこんなに大変そうなのに、防衛のほかに領地経営もしているなんて、考えただけでも胃が痛くなりそうだ。



——これだけ仕事を抱えてたら、あんな態度にもなるわね。



 リディアは顔合わせをしたとき、キースの横に積まれていた書類の量を思い出し、考えなしに非難してしまったことを反省した。



 ***



 書斎の勝手やローゼンブルク家の主な収入、支出について少し教わったところで、リディアは無理を言って休憩にさせてもらった。イザベラは顔をしかめて「まだ基本中の基本の部分すら終わっていませんよ」と言ったものの、ため息を吐いてそれを許した。



「少し散歩してくるわ」



 先日の矢でリディアの部屋が襲われた騒ぎで、警備が強化された。屋敷内であっても護衛のための騎士が少なくともふたりつく。リディアとして生きてきた期間、メイドや使用人が常に一緒にいるというのは当たり前のことだったが、前世のことを思い出してからはひとりで気ままに歩き回れる環境が懐かしくて仕方ない。命の危険に晒され続けていることを思えばひとりではない方が心強くはあったが、少しは息抜きしたいのもまた事実。



——少しくらいは、良いわよね。



 この間店で買った、防御魔法のかけられたブレスレットはまだ一度も作動していないし、安全な場所に飛ばしてくれるペンダントも、頭上のものから身を守るための傘もある。



「……よし」



 後ろを振り向くと、騎士は数メートル離れたところにいた。少しずつ歩くペースを上げ、角のところで歩きにくいヒールを脱いで手に持ち、思い切り走り出す。後ろから呼び止める声が聞こえていたが、耳は貸さずにとにかく走った。







 広い庭の端にひっそりと構える温室にたどり着いたころには、運動不足のリディアの息はすっかりあがっていた。やっぱりドレスって動きづらすぎる。前かがみで息を整えながらも、彼女の胸中は爽快だった。



——こんなに思いっきり走ったのって何年振りだろう。



 貴族の令嬢として生まれると、物心つくころから礼儀作法やらなんやらをみっちり叩きこまれ、なかなか全力で走ることなんてない。体育の授業なんか当然ないし、鬼ごっこやなんかで遊ぶ機会もなかった。主なスポーツといえば乗馬か狩りくらいのもので、球技なんてもってのほか。前世で特別運動が好きだったわけでもないけれど、いざ無くなってみるとやりたくなるものだな、とリディアは懐かしく思った。

 そんなことを考えながら、彼女は温室の中の一番大きな木の根元に、足を投げ出して座る。ドキドキとうるさかった心臓が徐々に落ち着いて、空気の温かさが心地よかった。リディアはこの温室の雰囲気や静かさが気に入って時折訪れていたが、こうして地面に座るなんてことは、今までしたことがなかった。目を瞑って地面の感触を楽しんでいると、カサ、とわずかに草の揺れる音がした。



「おーおー、ずいぶんお転婆なお嬢さんだなあ」



 突然の人の声に、リディアは驚いて飛び上がる。ここにはめったに人がいないので、今日も当然誰もいないと思っていた。ペンダントをギュッと握り、声のした木の反対側を恐る恐る覗く。そこにいたのは見たことのない男だった。



「よお」



 気の抜けた声で砕けた挨拶をする男は、甘い顔立ちにへらりと軽薄そうな笑みを浮かべた。明るい茶髪が目立つ彼は、年齢はリディアとそれほど変わらないように見える。警戒して睨みつけるリディアの様子に、彼は心外だとでも言うように両手を上げた。



「なにも怪しいもんじゃないぜ」

「……それをどうやったら証明するつもり?」

「証明? いやあ、誰かに聞きゃあできるけど……今、サボってるとこだからさあ、俺」

「はあ?」



 どうにもペースがつかめない。間延びしたしゃべり方でリズムを崩されて、ついつい警戒がゆるみそうになるのをリディアはグッとこらえた。



「とにかく、あんま見つかりたくないのよ、オレ。多分お嬢さんも……似たようなモンだろ?」

「……あなたには関係ないわ」



 男の視線が一瞬リディアの頭上に向いたので、気になって触ってみると葉が1枚、ひらりと地面に落ちた。思わず顔が赤くなるのを見て、彼は愉快そうに笑う。



「まあそんなに警戒しないで……つっても無理か」



 怪しいってよく言われるんだよね、と男が軽い動作で立ち上がる。



「仕方ない、俺は出てくか——ッ、伏せろ!」



 さっきまでの柔らかい声色から一転、急に焦ったような大声で叫ばれて、リディアは反射的に体を伏せる。目の前に飛び出てきた男は短剣を手にしていた。



——殺される! やっぱりひとりで来るんじゃなかった。



 リディアはぎゅっと目を瞑ったが、予想していたような痛みは走らず、代わりにカキン!と金属音が響いた。



——何? 何が起きたの?



 恐る恐る目を開いてみるが、見えるのは広い背中だけ。男はリディアを庇うように隠しながら、辺りを警戒しているようだった。



「ご無事ですか!」



 間を開けず温室の扉が開き、弾かれるように中に飛び込んできたのは、騎士の制服を身にまとった、小柄で生真面目な顔立ちの男だった。彼はリディアを見て無事を確かめると、彼女を背にして立つ男と視線を合わせた。



「今すぐ人を向かわせろ。遠隔魔法だ。南西の方角。ここは俺ひとりで大丈夫だ」

「はい、ただちに」



 指示を受けた小柄な男はそう言うとすぐ何かの機器で誰かと話しながらそこを去った。

 やっぱりアイツ、着いてきてたのかよとひとりごとのように呟いた茶髪の男は辺りをしばらく見渡して、何かをブツブツ唱えると地面に手を当てた。そこに現れた光が、走るように散っていく。



「あ、あの……」

「あぁ、……うん、もう大丈夫だ」



 男はそういうことじゃなくて、と状況説明を求めるリディアの手をとって立ち上がらせる。と、そこにもう一度、温室の扉が開いた。



「リディア様!」



 表情を強張らせたミラが飛び込んできて、リディアに傷が無いかあちこちをチェックする。隣にいる男のことなど目に入らない様子だ。



「リディア様!」

「ご無事です——団長!?」



 ミラの後からやってきた、リディアの護衛をしていた騎士ふたりが入口で躓くように足を止める。



「おー、お前ら。お嬢さんに振り切られたのか、情けねえな」



 団長、と呼ばれた男はそう言ってまたへらりと笑った。

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