公爵夫人は命がけ!

保谷なのめ

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【第2章】迷宮と少女編

75話(132話) 完璧な幸せ

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 青い空にのぼる太陽から降り注ぐ柔らかい光が辺りを照らしている。綺麗に手入れされた邸宅の庭の花々はたっぷりの水を浴びてキラキラと輝き、そこを領地に暮らす人々が晴れやかな顔で訪れていた。

「領主様!」

 パンを抱えて走り寄って来た小さな子どもを受け止める。暖かな風、穏やかな空気。まるで作られたかのように完璧な光景だった。
 それなのに不思議と、どこか空虚な気がするのは何故だろうか。

「公爵様、どうされました?」
「ああ、いや……」

 心配そうに様子を窺う執事長のウィリアムに、キースは首を振る。こんなに大切な日に、こうぼんやりしてはいられない——と考えたところで、今日がどうして大切だったのか、思い出せないことに気が付いた。一体今日は何の日だっただろう。

「奥様があちらでお待ちですよ」
「ああ……」

——奥様。そうだ、俺には妻がいた。

 キースの脳内でぼんやりとした姿が像を結びかける前に、ウィリアムがほら、と示した。その先で陽の光を受けてキラキラと輝くのはブロンドの髪で、小柄な少女は微笑んで振り返る。

「キース様!」

 頬を薔薇色に染めて軽やかに駆けてきた彼女は、キースの横に立つと笑顔で「今日はとっても素敵なお天気ですね」と語りかけた。

「……アリシア?」

 胸を掠める微かな違和感。彼女は確かに美しいが、キースはそれに対して何も感じなかった。アリシアはキースの様子に「どうしました?」と首を傾げる。一体何がおかしいんだか、上手く頭が働かない。何かに気付きそうな気がするのに、一向にそこまで到達できないようなモヤモヤとした感覚だけがキースの胸のうちで渦巻いていた。

「すまない……あー……今日は……何の日だった?」

 顔を顰めながら尋ねるキースに、アリシアはふふ、と笑みをこぼす。愛おしさで溢れたようなその表情からは二人が親密な関係であることが伺えるのに、キースの中の大切な部分はまるで凍り付いてしまったかのように冷え切っていた。

「忘れてしまったんですか? 今日は、私たちの結婚を皆さんにお知らせする日ですよ」

——結婚。

 その言葉に、違和感が一層強くなる。これが正しい光景であると主張する脳に逆らって、もっと奥深く、胸の底がそうではないと拒否しているようだった。

——キース。

 聞き覚えのある声が、頭の中でこだまする。赤みがかった髪と琥珀色の瞳がフラッシュバックすると同時に走った鋭い頭痛に、キースはギュッと眉根を寄せる。

「——ッ、」
「わっ、どうされました!?」

 差し出されたアリシアの手を断り、キースは思わずフラついた姿勢を立て直す。一体今のは何だ。胸の奥の違和感はどんどん存在感を増し、その身を焦がすようだった。誰か、思い出さないといけない相手がいる気がする。大切なものがすっかり抜け落ちてしまっているような。

「……俺は、君と結婚しているのか」
「何をおっしゃってるんですか、もう……百年祭でのこと、忘れてしまったんですか?」

——百年祭?

 帝都で開かれるその祭りの名前に聞き覚えはあったが、キースに具体的な記憶はない。そもそも、それが開かれるのはもっと先だったはずだ。

——必ずあなたのところへ帰ってくるわ。

 まただ。夜のバルコニー。どこか寂しげな微笑みを浮かべるその姿。割れそうな頭痛に、キースは顔を顰めた。心配して駆け寄り「本当に大丈夫ですか?」と顔色を窺うアリシアに、キースは思わず問いかける。

「……俺が結婚している相手は、本当に君なのか?」
「……本当に、どうされました?」

 アリシアはその完璧な表情を崩さない。まるでそう筋書きが書かれているかのように。そして彼女は、「ああ!」と何か思いついたように顔を上げると、ふわりと笑って口を開いた。

「もしかして、前の奥様のことをおっしゃってます?」
「前……?」
「はい……確かお名前は……」

——リディア様。

 アリシアの唇から紡がれるその名前に、キースの心は激しくざわついた。これまでの色々な記憶が一気に溢れだす。初めて会った日のこと、連れ出されて一緒に回った街。ダンスの練習に、一緒に行った庭。ネックレスを渡した日のこと。結婚式。目の前で攫われていく彼女と、何もできなかった自分。魔法を勉強し、色々な人を救おうとする彼女の姿。旅立つ前日に感じた体温。

——そうだ、リディアだ。

 キースから抜け落ちていた大切なもの。唯一の妻。キースが大切にしたいと願った相手。ストンと違和感が消えると同時に、新たな疑問が湧きだす。

「——彼女はどこだ?」

 世界が動きを止める。風が止み、笑顔のままアリシアは固まった。陽の光だけは、嫌味なくらい明るいまま。

「……リディアは、どこにいる」

 まるでその名前が、禁忌であるように。
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