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第3章 武装天使エメラルド・スプリッツァー

DYE×BLACK

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「愛留! 愛留ー!」

 わたしは脱衣場に置いてあったブレスレットを掴むと、風呂場からバスタオルを体に巻き付けた状態で飛び出して、愛留の姿を探した。

「もーう、なんですか騒がしいですねお姉ちゃん?」

 恐れていたことは起きておらず、愛留はリビングに置かれた古びたソファに腰掛けていた。まだ濡れてしっとりとしている髪の毛は相変わらず真っ黒だ。……でも

「……愛留。あれは……あれはどういうことなの!?」

「さて、なんのことですか? あたしにはよく分かりませんね」

 愛留は可愛らしく首を傾げる。……ほんとに知らないのか、ただしらばっくれているだけなのか、よく分からないので、もう少し突っ込んでみる。

「わたし……見ちゃったの……お風呂の中で」

「お姉ちゃんがえっちなことしてるってことですか?」

「ちがーう!」

「なんかいやらしい声がしてましたけど」

 まさか……聞こえてるはずないよね? って、今はそれどころじゃない。

「いや、ちがっ、それは、あの……」

「えっ、ほんとにしてたんですか……?」

 愛留が途端に目を細めて汚いものを見るような顔をしながら体を大袈裟に後ろに引いた。
 しまった嵌められた! ほんとは聞こえてなかったんだ。本来はさらっと否定しなきゃいけなかったところを、別のことに気を取られていたせいで返事が必要以上にテンパってしまった。

「まあほら、それは置いといて!」

「置いとけないです。お父さんに報告案件ですね」

 やめて、そんなことされたらわたしは社会的に死んでしまう!

「お願いですからやめてください……」

 わたしはバスタオル姿のままその場で土下座をするという奇行に及んだ。愛留はこともあろうにその様子を手に持っていた携帯端末でカシャッと撮影する(おいっ!)と満足そうに頷いた。

「一つ貸しですからね?」

 末恐ろしいガキだ。彼女はこうやっていろんな人の弱みを握って支配するんだ……多分。まあ今回の場合は完全にわたしのミスなんだけどね。

「……で、用件はなんですか? えっちなお姉ちゃん?」

 ついにお姉ちゃんに変な冠詞がつくようになってしまった! わたしも先程の勢いは完全に削がれていて、とてもじゃないけど愛留を問い詰められる状況じゃない。
 数手で自分の色に空気を染めてしまう……つくづく愛留は恐ろしい。

「えっ、あっ、その、あれです……お風呂場にあった愛留専用の……」

「あー、ですか。しまいましたね」

「……?」

 こいつ、わたしに気づかせるためにわざと……!?

「多分お姉ちゃんの推測どおりです。……あれは黒い染料が含まれたシャンプーで……あたしんです」

「……やっぱり」

 愛留は少し申し訳なさそうな表情で、下ろしたつやつやの髪の毛を弄びながら話し始めた。

「あたしは……生まれた時から髪色がピンクだったんです。……お姉ちゃんたちみたいに薬漬けされて適合率を上げたんじゃなくて、元々機装との適合率が高かったいわゆる『天然モノ』。でも、機装の危険性について気づいていたお父さんはあたしが天使(アイドル)として生きることを認めてくれなかった。愛留を危険に晒すわけにはいかないって、わざとあたしの適合率を隠してきたんです」

「……」

 やっぱり『天然モノ』……養成所に通って、エリクサーの継続投与を受けずとも機装を操る力を持っていると言われる彼らは、ほとんど前例がない。レア中のレアケースだ。突然変異で、古代アトランティス人の遺伝子が覚醒したとか言われているが、そのメカニズムもよく分かっていないし、ましてや出現を予測することなんて不可能。大手事務所としては大金を積んででも欲しい存在だろう。

 そんな逸材が目の前にいる。しかも天使になることを拒んでいる。それは、人類にとっては大きな損失ではないだろうか。

 しかし、わたしはただ黙って愛留の言葉に耳を傾けるしかなかった。ほんとは、湯船にも浸かってないし、バスタオル一枚なので風呂上がりの体が冷めて凄く寒いんだけど。

「おまけに、大手事務所なんかに所属してしまったら、『天然モノ』のあたしは天使の適合率を上げるための実験材料として使い潰されることも考えられます。なので、天使のことは好きでしたしなりたくもありましたけど……あたしはお父さんの言いつけを守って、ずっと髪を染めてました」

「……どうして?」

「……?」

 愛留が、少し泣きそうな顔でわたしの方を伺う。初めて見る彼女の弱いところかもしれない。普段はあんなに堂々としていて、抜け目のないマセガキなのに。

「どうしてうかがみちゃんにそれを話してくれる気になったの?」

「だって……」

 うさぎさんパジャマ姿の愛留は、なにか抑えきれない感情に突き動かされているかのように、ソファから立ち上がると、わたしの目の前にやってきた。と、身振りでわたしに立ち上がるように促す。不思議に思いながら立ち上がると、愛留はガバッとわたしの体に抱きついてきた。

「ふぇっ!?」

 またしてもわたしから変な声が漏れる。ほんとにこの子の行動には毎回驚かされるし、ついていけないこともある。今回はなんのつもりなの?

「あたし……お母さんには会ったことなくて、おじいちゃんも小さい頃に死んじゃったみたいで……物心ついた頃からお父さんと二人きりだったんです。……お父さんの前ではいい子でいなきゃいけないから、あまり悩んでるところ見せられなくて……お姉ちゃんができてほんとうに嬉しかったです」

「……愛留」

 冷えた体に愛留の体温が心地よい。
 わたしよりも幾分か背の低い愛留は、わたしの背中に手を回して、わたしの胸に頭を埋めた状態でもごもごと話している。普段の愛留からは考えられない態度だ。それほど辛かったのだろう。話さずにはいられなかったのかも。その相手にわたしが選ばれたことに……それほど信用されていたことに……わたしは心底驚いていた。

「ほんとはあたしだって、天使になりたかったです。天使としてみんなを守って戦いたかった。でも、とても言い出せなかった……あたしは……」

「……辛かったね」

 涙声になってしまった愛留の頭を優しく撫でた。多分、愛留に本物のお姉ちゃんがいたらこうしているだろう。わたしにも兄弟姉妹はいないけれど、歳下の泣いてる子どもに対してどう接すればいいかというのはなんとなく心得ていた。

「う……うぅ」

 愛留の声は嗚咽に変わった。彼女の小さな体は小刻みに震え、今にも壊れてしまいそうな程に脆く見えた。
 わたしはそんな彼女を守るように優しく抱きしめてあげた。あったかい。先程の愛留が感じ取ったという心臓の音。わたしは腕の中で、愛留の規則的な心音をしっかりと感じることができた。自分以外の心音を感じているのって、何か不思議な気分だ。あぁ、この子は生きているんだなって、そんな実感が溢れてきて、愛留のことがより一層愛しく感じられた。

「大丈夫、愛留のことはお姉ちゃんが守るから……」

 わたしが愛留と、そして自分に対しても、そう言い聞かせながら愛留の背中を撫でていると

「ありがとうお姉ちゃん……大好きだよ」

 と言いながら唐突に彼女が顔を上げた。わたしはその言葉に心臓が止まりかけた。でも、顔を逸らすことはできなかった。
 てっきり涙で濡れているかと思った愛留の顔は、真っ赤に火照っているものの、特に濡れている様子はなくて……

「……なーんて、ね?」

 ニコッと笑う愛留。わたしを必要以上に心配させまいと精一杯去勢をはったつもりだろうか。茶化すような雰囲気があった。しかし、笑みを浮かべる彼女の目尻から一筋の透明な液体が滑り落ちるのをわたしは見逃さなかった。

「なーんだ、心配して損したっ!」

 なので、空気を読んでわたしも努めて明るい声で茶化してやった。

「あははっ♪ お姉ちゃん騙されましたね!」

 愛留もさすがで、それ以上涙をこぼすことはなく、一瞬でいつも通りの明るい声に戻った。
 でも……愛留は大きな悩みを抱えている。それは理解出来た。
 他人の家庭事情だから、わたしにはどうすることもできないかもしれない。が、こうして一緒にいることで愛留が少しでも楽になるなら、いくらでも一緒にいてやろうと思った。そのためにももっと強くならないと!

 わたしと愛留が笑いながら小突きあっていると、玄関の扉が開いて、外出していたと思われる慎二郎が帰ってきた。

「あっ、おかえりなさいお父さん!」

 先程までそのお父さんのことで泣いていたとは思えないほど自然な声で愛留は慎二郎に声をかける。

「喜べ愛留! ついに私の研究を信用して、迎え入れてくれる天使事務所が見つかったぞ!」

「えっ、ほんとっ!? どの事務所?」

 愛留が驚きの声を上げる。無理もない。機装とエリクサーの危険性についてなんていう研究は機装とエリクサーがないと成り立たない天使事務所にとっては害でしかない。
 どこがそんな変わり者を受け入れたというんだろう。
 慎二郎は顎の無精髭を弄りながら、愛留がよくするように目を細めながら溜めを作って、得意げに告げた。

「『青海プロダクション』だ」
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