二度と敷居を跨ぐな。二度と私の前に姿を見せるな!

るーしあ

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三度目の結婚記念日。

 テーブルの上には、フィラルナが朝から準備した色鮮やかな料理が並んでいる。
 
 中央には、彼が好きだと言っていたはずの赤い薔薇が、銀の花瓶に生けられていた。
 
 フィラルナは、自らの指先をそっと見つめる。
 
 彼女が触れた花は、不思議と鮮やかさを増し、その場所だけ空気が澄み渡るような錯覚を覚える。
 
 それが彼女にとって唯一の誇りだったが、この家では「無能の証」と蔑まれていた。
 
「……まだ、帰ってこないのかしら」
 
 窓の外はすでに帳が下り、冷たい雨がガラスを叩いている。
 
 フィラルナの夫、ヴォルティグが帰宅したのは、深夜を回る頃だった。
 
 バタン、と乱暴に扉が開く音が響く。
 
 フィラルナは弾かれたように立ち上がり、玄関へと急いだ。
 
「おかえりなさい、ヴォルティグ様。お仕事、お疲れ様で……」
 
 言いかけた言葉が、凍りついた。
 
 ヴォルティグの隣には、見知らぬ女が寄り添っていたからだ。
 
 燃えるような赤いドレスに、派手な金の耳飾り。
 
 そして何より、鼻を突くような強烈な人工香水の香りが、フィラルナの嗅覚を激しく刺した。
 
「あらぁ。この方が、ヴォルティグ様がおっしゃっていた『無能な奥様』?」
 
 女は扇子で口元を隠し、クスクスと下品に笑った。
 
 ヴォルティグはフィラルナを一瞥すると、不快そうに鼻を鳴らす。
 
「フィラルナ、まだ起きていたのか。気味が悪い」
 
「……ヴォルティグ様、その方は……?」
 
「私の愛するメリシアだ。今日からこの館で暮らす。お前は予備の客間へ移れ」
 
 心臓がドクン、と大きく脈打った。
 
 頭が真っ白になり、フィラルナは震える声で聞き返す。
 
「愛人……? でも、今日は私たちの結婚記念日で……」
 
「そんなことのために、わざわざ待っていたのか? 反吐が出る」
 
 ヴォルティグはコートを脱ぎ捨て、メリシアの腰に手を回した。
 
 メリシアから漂う合成香料の「不協和音」が、フィラルナには耐え難い。
 
 調香師の家系に生まれた彼女にとって、香りは魂そのものだ。
 
 しかし、彼女自身からは何の香りもしない。
 
 それを世間は「無能」と呼び、ヴォルティグは「欠陥品」と断じた。
 
「いいか、フィラルナ。お前のような香りのない女は、貴族の妻として価値がない。それどころか……」
 
 ヴォルティグは一歩歩み寄り、フィラルナを蔑みの目で見下ろした。
 
「お前のその、無機質な体臭は不快なんだよ。側にいるだけで気分が悪くなる」
 
「……不快、ですか?」
 
「そうだ。メリシアのように、華やかで、誰の目にも明らかな『価値』が、お前には微塵もない」
 
 フィラルナは、必死に涙を堪えた。
 
 彼女の周りの空気は、彼女の悲しみに呼応するように、しんと冷たく澄み渡っていく。
 
 だが、鈍感なヴォルティグはそれに気づかない。
 
 彼は懐から一通の封筒を取り出すと、それをフィラルナの足元に投げ捨てた。
 
「離縁状だ。さっさとサインをしろ」
 
 カサリ、と冷淡な音が床に響く。
 
「離縁……。本気、なのですか?」
 
「当たり前だ。お前との婚姻など、最初から間違いだった。名ばかりの調香師の娘など、今の私には必要ない」
 
 メリシアが勝ち誇ったように、フィラルナの顔を覗き込んできた。
 
「聞こえた? あなたの居場所なんて、もうどこにもないのよ。この館の空気も、私が素敵な香水で塗り替えてあげるわ」
 
 メリシアがわざとらしく香水の小瓶を振りまく。
 
 安っぽい薔薇の香りと、刺激の強いムスク。
 
 それはフィラルナにとって、美しい旋律の中に混じった不快な騒音のようだった。
 
「……分かりました」
 
 フィラルナは静かに屈み、離縁状を拾い上げた。
 
 指先が震えていたが、不思議と心の一部は冷めていた。
 
 三年間、尽くしてきた。
 
 彼の健康を考え、食事の香りを整え、寝室の空気を密かに浄化してきた。
 
 彼が夜、安らかに眠れていたのは、フィラルナがいたからこそだというのに。
 
「サインをしたら、すぐに荷物をまとめて出ていけ。一晩たりとも、同じ屋根の下にいたくない」
 
「今すぐに、ですか? 外は雨が……」
 
「知ったことか。お前の不快な臭いが消えるなら、雨に流されるのがお似合いだ」
 
 ヴォルティグはそう言い捨てると、メリシアを連れて二階へと上がっていった。
 
 階段を上がるメリシアの笑い声が、いつまでも耳に残る。
 
 フィラルナは一人、玄関ホールに立ち尽くした。
 
 誰もいないダイニングテーブルでは、丹精込めて作った料理が、刻一刻と冷めていく。
 
 彼女はペンを手に取り、迷うことなく離縁状に名前を書いた。
 
 フィラルナ・ゼフェルナ。
 
 今日から、彼女は誰の妻でもなくなる。
 
「……ああ、そう。不快、だったのね」
 
 ポツリと、独り言が漏れた。
 
 彼女がこの家を守るために張り巡らせていた「見えない香り」の結界が、ぷつりと切れる。
 
 その瞬間、館の隅々に溜まっていた澱んだ空気が、一気に動き出した。
 
 古い木材の湿った匂い、壁紙の裏の黴、メリシアが撒き散らした香料の酸化した異臭。
 
 それらが混ざり合い、重く暗い「淀み」となって館を満たしていく。
 
 しかし、フィラルナはもう振り返らなかった。
 
 彼女は自分の身の回りのわずかな品だけを鞄に詰めると、勝手口へと向かった。
 
 そこには、一人の老侍女、キシャラが涙を流して待っていた。
 
「お嬢様……! あんな、あんまりです! ヴォルティグ様は、お嬢様がどれだけこの家を支えてきたか、何も分かっておいででない!」
 
「いいのよ、キシャラ。私はもう、自由になれるんだわ」
 
「お供いたします! たとえ火の中水の中、お嬢様を一人で行かせたりしませんわ!」
 
 フィラルナはキシャラの手を優しく握った。
 
「ありがとう。心強いわ」
 
 二人は、激しさを増す雨の中へと足を踏み出した。
 
 門をくぐる直前、フィラルナは一度だけ館を見上げた。
 
 二階の窓には、ヴォルティグとメリシアの影が楽しげに揺れている。
 
「二度と、ここには戻らない」
 
 その言葉は、雨音にかき消されて誰にも届かなかった。
 
 だが、その決意は彼女の体から、かつてないほど清冽で強烈な「浄化の香り」を放たせた。
 
 彼女が去った後の地面には、季節外れの小さな白い花が、一瞬だけ芽吹いては消えた。
 
 フィラルナの旅立ちを、世界だけが祝福しているようだった。
 
 冷たい雨は、彼女の過去を洗い流していく。
 
 新しい運命の香りは、まだ風の向こう側にあった。

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