二度と敷居を跨ぐな。二度と私の前に姿を見せるな!

るーしあ

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アスティル帝国の歴史において、これほどまでに清浄で、かつ華やかな朝はなかっただろう。
 
 雲一つない真っ青な空から、冬の柔らかな太陽が降り注ぎ、街中の雪がダイヤモンドのように輝いている。
 
 シュネーシュロス城の鐘が、祝祭の幕開けを告げるように高らかに鳴り響いた。
 
「……お嬢様。ああ、なんて、なんてお美しいのでしょう……!」
 
 控室でフィラルナの姿を鏡に映したキシャラが、手にしたハンカチを握りしめ、既に大粒の涙を流していた。
 
 そこに立っていたのは、アスティルの伝統的な純白の婚礼衣装こんれいいしょうを纏ったフィラルナだった。
 
 ドレスには数万粒の真珠が縫い込まれ、彼女の銀髪には、ゲザラエルが自ら選んだという蒼氷石のティアラが誇らしげに輝いている。
 
 かつて、冷たい雨の中で離縁状を拾い上げた、あのボロボロの女性の面影はどこにもない。
 
「ありがとう、キシャラ。……あなたがずっと側にいてくれたから、私は今日この日を迎えられたの」
 
「何を仰いますか! あたくしこそ、お嬢様の本当の価値が世界に認められたこの日が、誇らしくて仕方ありませんわ! 見てください、窓の外を!」
 
 キシャラに促されて窓の外を見下ろすと、城の広場を埋め尽くすほどの領民たちが、手に手に白い花を持って二人を祝福するために集まっていた。
 
 国境を越え、行き場をなくした「無能の調香師」を救ったのは、この国の冷たい風と、一人の孤独な公爵だった。
 
 そして今、彼女はその恩返しとして、この国に永遠の「呼吸」を授けようとしていた。
 
「フィラルナ。準備はいいか」
 
 扉が開き、正装を纏ったゲザラエルが現れた。
 
 漆黒の軍礼装に銀の肩章。冷徹な氷の公爵と恐れられた彼は、今日、誰よりも慈愛に満ちた瞳でフィラルナを見つめていた。
 
「……ゲザラエル様。はい、準備は整いましたわ」
 
 ゲザラエルはフィラルナの前まで歩み寄ると、その震える手を優しく取った。
 
「お前という光が、私の人生を塗り替えた。……今日この瞬間から、お前は私の妻であり、この帝国の聖なる守護者だ。何があっても、お前の香りが絶えることは私が許さない」
 
「……はい。私も、あなたの隣で、どこまでも澄んだ未来を紡ぎ続けますわ」
 
 二人は腕を組み、ゆっくりと大聖堂へと続く廊下を歩き出した。
 
 歩む一歩ごとに、フィラルナの体から銀色の光の粒子が溢れ出し、城中の空気が春の芽吹きのような、甘やかでいて凛とした香りに包まれていく。
 
 聖堂の扉が開かれた瞬間、万雷の拍手が二人を包み込んだ。
 
 
 式典のクライマックス。
 
 神官が祝詞を捧げ、二人が誓いの口づけを交わした、その時。
 
 フィラルナは母から受け継いだ銀の香炉を手に取り、最後にして至高の調合を行った。
 
「……。アスティルの冷たき風よ。私の愛する人々の心に、永遠の安らぎと光を」
 
 彼女が香炉に一滴の「真実の雫」を落とすと、そこからかつて誰も経験したことのないほどの、透明な香りの波動が爆発した。
 
 それは城を越え、街を越え、アスティル帝国の全土へと一瞬にして広がっていった。
 
 不眠に悩んでいた者。
 
 病に伏せていた者。
 
 未来を悲観していた者。
 
 そのすべての人々の肺に、フィラルナの放った「幸福の香り」が届いた。
 
「……ああ、なんて清々しいんだ」
 
「心が、温かい……。なんだか、生きていてよかったと思えるわ」
 
 帝国全土が、目に見えるほどの輝かしい透明感に包まれ、あらゆる「淀み」が消滅していく。
 
 それは、フィラルナという一人の女性が、自らの運命を切り拓き、真の愛を手に入れたことで生まれた、奇跡の香りだった。
 
 
 一方、その香りは風に乗って、遠く離れたゼフェルナ王国の国境付近、廃墟と化したヴォルティグの元にも届いていた。
 
「……っ!? この、香りは……」
 
 もはや立ち上がることもできず、泥にまみれて這いずっていたヴォルティグは、風に乗ってきたその香りを嗅いだ瞬間、号泣した。
 
 それは、彼がかつて自らの手で雨の中に捨てた、あまりにも清らかな「至高の幸福」。
 
 一瞬だけ、彼の不快な体臭が消え、心が凪の状態に戻る。
 
 だが、それは同時に「彼が一生手に入れることのできないもの」を突きつける、残酷なまでの美しさだった。
 
「フィラルナ……。すまなかった……。戻ってきて、くれ……。頼む、一目で、いい……」
 
 彼の悲鳴は、幸せの香りの渦の中に吸い込まれ、霧散した。
 
 もはや、彼の執着に反応する者は誰もいない。
 
 
 * * *
 
 
 アスティルの夕暮れ。
 
 披露宴を終えたフィラルナとゲザラエルは、二人だけで「光の温室」のテラスにいた。
 
 空には満天の星が輝き、二人の周囲には「銀嶺の雫」が満開に咲き誇っている。
 
「……。夢のようですわ。ゲザラエル様」
 
「夢ではない。……。これが、私たちの新しい日常だ。フィラルナ」
 
 ゲザラエルは、フィラルナの腰を抱き寄せ、深く彼女の香りを吸い込んだ。
 
「お前という香りのない調香師が、私の世界をこれほどまでに鮮やかに染めてくれた。……。ありがとう。私を見つけてくれて」
 
「私こそ。……。あの雨の夜に私を救ってくださったのが、あなたで本当によかった。……。二度と帰らないと決めたあの日、私は本当の『家』を見つけたのですね」
 
 フィラルナは、ゲザラエルの胸に顔を埋めた。
 
 もう、どこへも行く必要はない。
 
 この清らかで、温かな「静寂」の中に、彼女の居場所はあるのだから。
 
 夜風が、二人の誓いを乗せて、どこまでも遠くへ。
 
 アスティル帝国の隅々まで広がったその香りは、人々の記憶に深く刻まれ、決して消えることはなかった。
 
 それは、かつて「無能」と蔑まれた女性が紡いだ、世界で一番甘やかで、一番力強い、真実の物語。
 
 
 ――至高の香りは、永遠に二人の側にあり続ける。
 
 
(完)

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