「二度とこんな危ないことはしないでくれ。心臓が止まるかと思った」

るーしあ

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最終話


 王宮の庭園に、初夏の柔らかな陽光が降り注いでいた。


 ルナリア王国が新体制となって数年。かつての「氷の王子」は、今や「稀代の名君」として、そして何より「世界一の愛妻家」としてその名を全大陸に轟かせている。


 「……ああ、もう! わたくし、今日こそは威厳ある王妃として、歴史にその名を刻むつもりでしたのに!」


 翡翠メルティ・ルナリア――いいえ、今はメルティ・ルナリア王妃は、豪華な刺繍が施されたドレスを揺らしながら、ふかふかの芝生の上で地団駄を踏んでいた。


 彼女の目の前には、砕け散った最高級のクリスタルグラス。
 先ほど、外交使節団を招いた午餐会で、優雅に乾杯の音頭を取ろうとしたメルティだったが、案の定、自分の足の指とドレスの裾が喧嘩をし、見事な放物線を描いてグラスを飛ばしてしまったのだ。


 「見てなさい、バニラ。わたくしのこの失態! 使節団の方々はきっと『なんて粗忽な王妃だ』と呆れて、わが国との同盟を白紙に戻すに違いないわ! おーっほっほっほ!」


 メルティは震える声で高笑いをした。
 後ろで、今や王妃付き筆頭侍従となったバニラが、手慣れた手つきで新しいグラスを盆に乗せて控えている。


 「……残念ながらメルティ様、使節団の代表は『王妃様がグラスを投げたのは、我が国との壁を打ち砕くという平和の儀式に違いない!』と感動のあまり涙を流して、先ほど倍の規模の通商条約にサインしていかれましたよ」


 「なんでええええええええ!!」


 メルティの絶叫が、美しく整えられた庭園に空しく響き渡る。


 「おまけに、先ほど転びかけた際に蹴り上げた芝生の下から、数百年前に紛失したとされる聖騎士の銀印が発見されました。民衆は今、『王妃様が歩けば大地から宝が湧き出る』と、広場で祝祭を始めています」


 「……嘘。嘘でしょう? わたくし、ただのドジですのよ? 呪われそうなほど運が悪いだけですのよ?」


 メルティは膝から崩れ落ちそうになった。
 しかし、その体が地面に触れるよりも早く、強靭な腕が彼女の腰を横からかっさらった。


 「……おっと。危ないじゃないか、私の愛しい女神(ミューズ)」


 聞き慣れた、けれど以前よりもずっと深く、甘く、独占欲を孕んだ声。
 メルティが顔を上げると、そこには漆黒の王衣を纏ったゼノ・アルカード王が、眩しいほどの笑みを浮かべて自分を見下ろしていた。


 「で、殿下……。いえ、陛下! 降ろしてくださいまし! わたくし、今、外交上の大失敗を……!」


 「失敗? そんなもの、この庭園のどこに落ちているというんだい?」


 ゼノはメルティを降ろすどころか、より密着させるように抱き寄せた。
 彼の瞳には、出会った頃の「氷」の欠片もない。そこにあるのは、メルティという存在をすべて飲み込もうとするような、狂おしいほどの愛の熱量だけだ。


 「君がグラスを投げれば、それは新しい時代の幕開けの鐘の音になる。君が転べば、そこには眠っていた歴史の真実が顔を出す。……メルティ、君は存在するだけでこの国を、そして私を幸せにする魔法使いだね」


 「違います! 魔法なんて使えませんわ! わたくしは、ただの不器用で、性格が悪くて、自称悪役令嬢の……」


 「ふふ、まだそんな可愛らしいことを言っているのか」


 ゼノはメルティの額に優しく口づけを落とし、その耳元で熱い吐息と共に囁いた。


 「いいかい、メルティ。君がどれほど自分を『悪女』だと主張しても、私の目は君の本質しか捉えない。……君がドジを踏むたびに、私は君を抱きしめる権利を得る。君が失敗するたびに、私は君を甘やかす口実ができる。……私にとって、君の不完全さは、この世で最も完璧な宝石なんだよ」


 「陛下……」


 「これからもずっと、私の腕の中で転び続けておくれ。君がどこへ向かおうと、何度地面に倒れようと、そのすべてを私が受け止めてみせる。……一生、私の過保護な愛から逃げられるとは思わないことだ」


 ゼノの指が、メルティの顎を優しく上向かせた。
 見つめ合う二人の視線が絡み合い、火花を散らすような熱い沈黙が流れる。


 メルティは悟った。
 前世で夢見た「悪役令嬢としての断罪」も「田舎でのスローライフ」も、この執着心の塊のような王様がいる限り、一生叶うことはないのだと。


 けれど、その絶望的な予感とは裏腹に、彼女の心臓は心地よいリズムを刻んでいた。


 「……もう、勝手になさいな。わたくし、これでも王妃なんですのよ? いつか本当に、あなたを困らせるほどの『大ドジ』をやらかして、愛想を尽かさせてやりますわ!」


 「ああ、楽しみにしているよ。その時は、今よりもっとひどい方法で君を溺愛してあげるからね」


 ゼノは満足げに目を細めると、周囲の視線も厭わず、メルティの唇を深く、熱く塞いだ。


 庭園のあちこちから、控えていた侍女や騎士たちの、祝福に満ちた溜息が漏れる。
 今や王国において、「王妃様のドジ」と「国王陛下の溺愛」は、平和の象徴として親しまれる日常の風景となっていた。


 メルティ・ルナリア。
 かつて悪女を目指し、断罪を求めた少女は。
 今、世界で最も不自由で、世界で最も甘い「溺愛」という名の檻の中で、最高に幸せな微笑みを浮かべていた。
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