架け橋

しん

文字の大きさ
1 / 1

架け橋

しおりを挟む
多賀大社一帯は椋木で覆われており、地元の住人からは神の森と呼ばれていた。雑誌などにはパワースポットとして紹介されており、境内で狐を見ると、その人の心に潜んでいる最も強い清らかな思いが叶うとされている。もちろん、多賀大社を訪れる参拝者らは本気で叶うとは信じておらず、狐が見ることが出来たら「あんたツイてるね」程度のものだった。仮に願いが叶ったとしても、それは本人が努力したからに過ぎず、まさか狐が願いを叶えたとは到底信じないだろう。だが、狐に「呼ばれて」参拝する者らは、単なる迷信とは違うことを知っていた。

祖母の敏子は、自身が認知症と診断されてひどく落ち込んだ。仲の良かった大叔母の郁子に連れられて病名が判明した。父の明夫は数年前から仕事のストレスで重度のアルコール依存症になっており、「大樹」という施設で暮らしていた。母の優子は中学生の一人息子の直人を支えるために、交替勤務の仕事をしており、毎日忙しいようだった。したがって、両親がとても敏子を病院に連れていける状況ではなかった。敏子は大腿の手術をしてからは、滅法足腰が弱くなり、おまけに運転免許を持っていなかった。そこで、唯一仲の良かった郁子に連絡を取り、病院に連れて行ってもらったのである。

敏子は病院から帰ってくると、直人に向かって沈痛な面持ちで言った。
「ばあちゃん、軽度の認知症と診断されてしまった」
敏子の表情とは裏腹に直人には、正直、他人事のように思えた。むしろ、この先、優子の負担が余計に増えることになるだろうと優子の心配をしていた。直人は特に返す言葉が見つからず、ただ黙って苦笑いをするしかなかった。敏子のことを夜勤明けの優子に伝えると、露骨に嫌な顔をされた。
「明夫さんはあんな状態のうえ、この先、お義母さんまで介護が必要になってくるなんて。今でも暮らしていくのに精一杯なのに」
優子の口から放たれた言葉は、冷たいものだった。嫁と姑の間はこんなものだろうと直人は常識のように思っていたので、別段、母を責める気になれなかった。夕飯の支度はしていないことがしばしばで、直人はストックしているカップラーメンを食べる日が多かった。

認知症の診断をされた敏子は、嫌な記憶と同時に大切な記憶までが失われていく恐怖に耐えかねて、一人の時を見計らい煉炭自殺を試みた。けれども、途中で直人が家の中の異変に気づいた。たまたま、今日は体調がすぐれず学校を早退したことが、功を奏したようだ。直人は敏子の部屋の戸を勢いよく開けた。
「ばあちゃん、何やってるんだよ」
「私なんて、この先、生きていたって何の価値もないし、このまま死なしてちょうだい」
直人は敏子がこれ程までに辛い思いをしていたことなど知らなかったので、一瞬、どのような対応をとればよいか分からなかった。しかし、自然に口が動いていた。
「今のばあちゃんも素敵だけど、記憶が失われていくばあちゃんも素敵だよ。そんなに忘れていくことが不幸なことかな。むしろ、新鮮さが感じられるんじゃないかな。その時、その時の一瞬を大切に出来るんじゃないかな」
直人は敏子の瞳を見つめて、敏子の痩せ細った手を両手で握りしめた。直人の手の温もりは敏子にも伝わった。もうこれ以上、言葉にしなくてもお互いに分かった。

認知症は徐々にではあるが、敏子の認知機能を低下させた。最初はホームヘルパーが自宅に来ての介護だったが、症状が進行してくると「ふるさと園」という施設に入居することになった。そしてーーー。とうとうあんなに食べることが楽しみだった敏子が、食事を一切摂らなくなった。ある日、優子と直人は施設長に呼び出された。大叔母の郁子も一緒に連れ添った。
「このまま、ここで最期を看取るかそれとも、静脈から栄養剤を補給して延命治療を施すかのどちらかの決断をお願いします」
敏子は、意思表示が無くなる前に何らの意思をも示してはいなかった。それ故、残された家族らは悩んだ。しかし、直人は敏子が健在だった頃、よくこんな言葉を口にしていたことを思い出した。
「直人、ばあちゃん、このまま健康な状態のまま“自然に“命を終えることが出来たらこれ以上の幸せはないと思う」
そう、敏子は”自然に“という言葉が好きだった。きっと、敏子の視点に立ったら延命治療など望んでいないはずだ。もちろん、世間体を考えるなら延命治療を選択するだろう。医療技術が発達して、より長く生きながらえることが出来るのに、それをしないなんて早く死んで欲しかったに違いないと思われたくないからだ。最終、家族らが下した結論は、「ふるさと園」で最期を看取るというものだった。本人の意思を尊重しての決断だった。それから二週間後、敏子は安らかに息を引き取った。亡くなる直前は、家族らの顔と名前すら覚えていなかったが、施設での暮らしは穏やかだったという。

敏子は生前、軽度の認知症と診断されてから、郁子と隣市にある多賀大社を訪れていた。初詣以外の時には神社などに興味のない敏子からの突然の電話に、郁子は意表を突かれた気分だった。郁子は敏子にどうして行きたいのかを尋ねた。
「きつ、きつ、多賀大社の狐が私を呼んでいるの」
郁子はとうとう本格的に呆けてしまったのだと確信したが、敏子がどうしてもと言うので、訪れることになった。夏のお盆の夕方に参拝に来ている者など、ほとんどいなかった。境内には、電話越しに言っていた狐がまるで二人の参拝を待ち構えていたように佇んでいたので、郁子は薄気味悪さを感じた。しかし、それは単なる偶然だろうと思い、それ程深くは考えなかった。賽銭箱に小銭を投げ入れると、二人は荘厳な出立ちの神社に静粛に参拝した。敏子がどのような内容の事を拝んだのかは知らない。

敏子の死後、直人にも敏子と同じ現象がお盆に起こった。無意識の内に自転車を小一時間汗だくになりながら、多賀大社に向けて走らせていた。境内には敏子の時と同様に狐がおり、手招きしているように直人には感じられた。賽銭箱に小銭を入れ参拝した。特に何かの思いを念じた訳ではない。だが、俄かには信じられないことが起こった。亡くなったはずの敏子の姿が脳裏に浮かんだからだ。

尋常小学校のグランドがサツマイモ畑で埋め尽くされていたり、B-29というアメリカの戦略爆撃機が上空を飛んでいたりしていた。直人はこれは敏子の記憶を覗き込んでいるのだと確信した。次いで、敏子が高田工場で働く映像が流れた。軍服を縫製したり軍需品であるゲートルを製造していたりしていた。精力的に働く敏子の姿勢からは、自分には想像出来ないくらいのパワーが滲み出ていた。映像の流れが止まったかと思うと、最後に一言だけ言い残した。
「この映像を後世へ」

多賀大社を去る時、直人は神社に一礼した。パワースポットの正体はこういうことだったのかと合点した。次第に一人歩きして、願いが叶うという迷信が生まれたのだ。敏子の戦争に関する映像は直人に全て受け継がれた。この脳裏に焼かれた映像を元に戦争体験を多くの人に語ることが出来る。日本で起こった戦争を風化させてはいけない。直人はそう胸に深く刻み込んだ。架け橋」

多賀大社一帯は椋木で覆われており、地元の住人からは神の森と呼ばれていた。雑誌などにはパワースポットとして紹介されており、境内で狐を見ると、その人の心に潜んでいる最も強い清らかな思いが叶うとされている。もちろん、多賀大社を訪れる参拝者らは本気で叶うとは信じておらず、狐が見ることが出来たら「あんたツイてるね」程度のものだった。仮に願いが叶ったとしても、それは本人が努力したからに過ぎず、まさか狐が願いを叶えたとは到底信じないだろう。だが、狐に「呼ばれて」参拝する者らは、単なる迷信とは違うことを知っていた。

祖母の敏子は、自身が認知症と診断されてひどく落ち込んだ。仲の良かった大叔母の郁子に連れられて病名が判明した。父の明夫は数年前から仕事のストレスで重度のアルコール依存症になっており、「大樹」という施設で暮らしていた。母の優子は中学生の一人息子の直人を支えるために、交替勤務の仕事をしており、毎日忙しいようだった。したがって、両親がとても敏子を病院に連れていける状況ではなかった。敏子は大腿の手術をしてからは、滅法足腰が弱くなり、おまけに運転免許を持っていなかった。そこで、唯一仲の良かった郁子に連絡を取り、病院に連れて行ってもらったのである。

敏子は病院から帰ってくると、直人に向かって沈痛な面持ちで言った。
「ばあちゃん、軽度の認知症と診断されてしまった」
敏子の表情とは裏腹に直人には、正直、他人事のように思えた。むしろ、この先、優子の負担が余計に増えることになるだろうと優子の心配をしていた。直人は特に返す言葉が見つからず、ただ黙って苦笑いをするしかなかった。敏子のことを夜勤明けの優子に伝えると、露骨に嫌な顔をされた。
「明夫さんはあんな状態のうえ、この先、お義母さんまで介護が必要になってくるなんて。今でも暮らしていくのに精一杯なのに」
優子の口から放たれた言葉は、冷たいものだった。嫁と姑の間はこんなものだろうと直人は常識のように思っていたので、別段、母を責める気になれなかった。夕飯の支度はしていないことがしばしばで、直人はストックしているカップラーメンを食べる日が多かった。

認知症の診断をされた敏子は、嫌な記憶と同時に大切な記憶までが失われていく恐怖に耐えかねて、一人の時を見計らい煉炭自殺を試みた。けれども、途中で直人が家の中の異変に気づいた。たまたま、今日は体調がすぐれず学校を早退したことが、功を奏したようだ。直人は敏子の部屋の戸を勢いよく開けた。
「ばあちゃん、何やってるんだよ」
「私なんて、この先、生きていたって何の価値もないし、このまま死なしてちょうだい」
直人は敏子がこれ程までに辛い思いをしていたことなど知らなかったので、一瞬、どのような対応をとればよいか分からなかった。しかし、自然に口が動いていた。
「今のばあちゃんも素敵だけど、記憶が失われていくばあちゃんも素敵だよ。そんなに忘れていくことが不幸なことかな。むしろ、新鮮さが感じられるんじゃないかな。その時、その時の一瞬を大切に出来るんじゃないかな」
直人は敏子の瞳を見つめて、敏子の痩せ細った手を両手で握りしめた。直人の手の温もりは敏子にも伝わった。もうこれ以上、言葉にしなくてもお互いに分かった。

認知症は徐々にではあるが、敏子の認知機能を低下させた。最初はホームヘルパーが自宅に来ての介護だったが、症状が進行してくると「ふるさと園」という施設に入居することになった。同時に、優子は明夫と経済上の困難を理由に離婚した。そしてーーー。とうとうあんなに食べることが楽しみだった敏子が、食事を一切摂らなくなった。ある日、優子と直人は施設長に呼び出された。大叔母の郁子も一緒に連れ添った。
「このまま、ここで最期を看取るかそれとも、静脈から栄養剤を補給して延命治療を施すかのどちらかの決断をお願いします」
敏子は、意思表示が無くなる前に何らの意思をも示してはいなかった。それ故、残された家族らは悩んだ。しかし、直人は敏子が健在だった頃、よくこんな言葉を口にしていたことを思い出した。
「直人、ばあちゃん、このまま健康な状態のまま“自然に“命を終えることが出来たらこれ以上の幸せはないと思う」
そう、敏子は”自然に“という言葉が好きだった。きっと、敏子の視点に立ったら延命治療など望んでいないはずだ。もちろん、世間体を考えるなら延命治療を選択するだろう。医療技術が発達して、より長く生きながらえることが出来るのに、それをしないなんて早く死んで欲しかったに違いないと思われたくないからだ。最終、家族らが下した結論は、「ふるさと園」で最期を看取るというものだった。本人の意思を尊重しての決断だった。それから二週間後、敏子は安らかに息を引き取った。亡くなる直前は、家族らの顔と名前すら覚えていなかったが、施設での暮らしは穏やかだったという。

敏子は生前、軽度の認知症と診断されてから、郁子と隣市にある多賀大社を訪れていた。初詣以外の時には神社などに興味のない敏子からの突然の電話に、郁子は意表を突かれた気分だった。郁子は敏子にどうして行きたいのかを尋ねた。
「きつ、きつ、多賀大社の狐が私を呼んでいるの」
郁子はとうとう本格的に呆けてしまったのだと確信したが、敏子がどうしてもと言うので、訪れることになった。夏のお盆の夕方に参拝に来ている者など、ほとんどいなかった。境内には、電話越しに言っていた狐がまるで二人の参拝を待ち構えていたように佇んでいたので、郁子は薄気味悪さを感じた。しかし、それは単なる偶然だろうと思い、それ程深くは考えなかった。賽銭箱に小銭を投げ入れると、二人は荘厳な出立ちの神社に静粛に参拝した。敏子がどのような内容の事を拝んだのかは知らない。

敏子の死後、直人にも敏子と同じ現象がお盆に起こった。無意識の内に自転車を小一時間汗だくになりながら、多賀大社に向けて走らせていた。境内には敏子の時と同様に狐がおり、手招きしているように直人には感じられた。賽銭箱に小銭を入れ参拝した。特に何かの思いを念じた訳ではない。だが、俄かには信じられないことが起こった。亡くなったはずの敏子の姿が脳裏に浮かんだからだ。

尋常小学校のグランドがサツマイモ畑で埋め尽くされていたり、B-29というアメリカの戦略爆撃機が上空を飛んでいたりしていた。直人はこれは敏子の記憶を覗き込んでいるのだと確信した。次いで、敏子が高田工場で働く映像が流れた。軍服を縫製したり軍需品であるゲートルを製造していたりしていた。精力的に働く敏子の姿勢からは、自分には想像出来ないくらいのパワーが滲み出ていた。映像の流れが止まったかと思うと、最後に一言だけ言い残した。
「この映像を後世へ」

多賀大社を去る時、直人は神社に一礼した。パワースポットの正体はこういうことだったのかと合点した。次第に一人歩きして、願いが叶うという迷信が生まれたのだ。敏子の戦争に関する映像は直人に全て受け継がれた。この脳裏に焼かれた映像を元に戦争体験を多くの人に語ることが出来る。日本で起こった戦争を風化させてはいけない。直人はそう胸に深く刻み込んだ。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

離婚した妻の旅先

tartan321
恋愛
タイトル通りです。

盗み聞き

凛子
恋愛
あ、そういうこと。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

処理中です...