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第一章 突然の出来事
楽しいはずの卒業パーティー
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馬車の中で、私は呆然としていた。
ガタンと馬車が大きく揺れ、体が固いひじ掛けの角に当たった。
痛い。
ふと、意識が現実に引き戻された。そうだ、私は護送用の粗末な馬車に乗っているのだった。木の座面に木の背もたれ。お尻も背中も既に痛くなっている。今当たった所は、もちろんずきずきしている。
この私、リディア・ハントが?
私は第二王子ユーリ様の婚約者で、由緒ある伯爵家の令嬢なのに。
なぜこんなことになったのかしら。私は昨日の出来事を思い返してみた。
昨夜は学院の卒業パーティー。私は卒業するユーリ様のパートナーとして出席していた。
ユーリ様に喜んでもらえるように、私は出来る限りの準備をした。
淡い茶色の髪は大人っぽく結い上げ、緑の瞳と同じ色の髪留めで飾った。ドレスも緑で、胸元が大きめに開いた物を選んだ。胸の嵩上げパットは二枚仕込んでいる。
お化粧は、侍女達と三日かけて研究した、自然に見える厚塗り。私付きの侍女のマリーが、目を見開いたように見せる小悪魔風メイク、とか言っていた。
華奢な私は、16歳という実年齢より、いつも幼く見られ勝ちだ。
だから、少しでも大人っぽく見せたい。実は亡くなった母の様な、メリハリボディの美女に憧れている。焦らなくとも、あと一、二年したら、お母様そっくりになります、と母をも育てた乳母が言うが、今の貧相な体つきからは、全く想像もできない。
でも、色々頑張ったおかげで、その日の私は、だいぶ大人っぽく華やかな女性に変身していた。
仕上がりに大満足してご機嫌だった私だけれど、この日は学院のパーティー会場に入る前から、なんだか全てがおかしかった。
まずは、エスコート役のユーリ様が現れず、従僕が迎えに来たこと。
なぜ? と疑問だったが、王子が会場にてお待ちですと告げられ、従僕の先導に従った。
広間に着くと、すぐにドアが開けられ、驚くことに、そのまま一人で会場入りすることになってしまった。
足を踏み入れたパーティ会場は、楽し気なざわめきも、音楽の演奏もなく、シンとしていた。
しかも出席者達は、ドアの前から壇上までの中央を開けて、両脇に固まっている。あまりにも異様な光景だった。
壇上には、婚約者のユーリ様がいた。いつものように麗しいお顔を、金色の癖毛が縁取っていて、うっとりするほど素敵に見えた。
その後ろには、彼の側近達。
右側に、つややかな黒髪の公爵令息トーマス・リンツ様。いつもと同じクールな表情からは、何を考えているのか全く分からなかった。
ユーリ様と婚約して以来、頻繁に顔を合わせているが、殆ど目が合ったことも無いし、会話もした覚えがない。
隣の青い髪が華やかな、侯爵令息のレイノルズ・サマーズ様は、私を眺めてニヤニヤしていた。あきらかに、この状況を楽しんでいるのが分かった。彼とは時々話をするが、全く気が会わず、多分お互いに嫌い合っている。昨夜も意地悪気な顔をしていたと思う。
王子の左側には、伯爵家令息の、長い銀髪で、ほっそりとしなやかな体つきのロイ・レグルス。私の幼なじみだ。困ったような表情の中で、紫の瞳が気遣わし気に揺れていたのを、覚えている。
そして、見たくないけど、否応なしに目に入ってくる女。ユーリ様の横に張り付いている、侯爵家令嬢のドロレス・グレイ。同じ16歳なのに、彼女は普段からとても大人っぽく見える。
ふわふわした金髪をアップにして、青い派手な宝石の髪飾りで留めてある。
それと同じ青い目は、好戦的にこちらを睨みつけていた。
よく見ると、彼女のドレスはユーリ様とお揃いの物だった。
婚約者でもないのに、良くもそんなふざけた真似が出来るものね、と思った途端、このおかしな状況への戸惑いは頭から飛んだ。
広く開いている中央部分を滑るように歩き、真ん中辺りまで進むと、私は壇上に向かって声を上げた。
「ユーリ様。これはどういうことなんですか?」
「わからないか? 君を断罪しようとしているんだ」
「断罪? 何をですか?」
「まずは、私が発言を許していないのに、勝手に話し始めたことが問題だな。そう思わないか?」
いつも優しく、穏やかなユーリ様が、このときは別人のように冷たい声で答えた。
「婚約者を控室に放置して、一人きりで会場入りさせるのは、問題ありませんの?」
王子がグッと詰まった。ゴホンと咳をして、仕切り直そうとするところに、私は畳み掛けた。
「王子の隣に婚約者でもない女性を立たせ、しかも今夜の衣装はお揃いですのね。問題のないところが見当たりませんわ」
「黙れ。断罪は私がするんだ。お前のそういう所が嫌なんだ。これ以上揚げ足を取ったら、不敬罪に問うぞ」
ユーリ様ったら、突然に何を言い出すのだろう、とその時は驚いただけだった。
ユーリ様の事は大好きだが、時々理解できない時があるのだ。
周囲の者が、それは通常、相性が悪いと言います、とアドバイスしてくれる。屋敷の侍女や、学院の友人、幼なじみのロイにもよく言われる。
でもいつも私は、頑張れば大丈夫よと答えていた。
私はとてもユーリ様を愛しているので、相性の一つや二つ、愛の力で何とかなると思っていた。
ふと周囲を見ると、居並ぶ人々が困ったような表情で、ざわつき始めていた。
ここは彼の言いたいことを聞くべきかもしれない。そうでないと、パーティーが始まりそうにないと思ったので、背筋を伸ばし、レースの長手袋をはめた両手を、前で軽く組んだ。
『よろしいですか、重心は真直にして、指先までの隅々に神経を張り巡らせて。でも力みを感じさせては駄目です。目指すは涼やかな自然体です』
王子妃教育担当のシンプソン夫人の声が、耳によみがえる。
初めて聞いた時は、そこまで力を入れた自然体って、全く自然じゃないでしょう、と反発を覚えた。
隅々まで神経を行き渡らせると、疲れるの何の。始めのうちは、次の日に全身がギシギシいうほどだった。
それが、いつの間にかすっと出来るようになっていた。これこそが、愛の力だと思う。
私は完璧な淑女モードに入った。
傾聴いたしますとばかりに、柔らかい笑みをユーリ様に向けると、彼は少し後ずさった。
それを見て、またまたシンプソン夫人の言葉を思い出した。
『完璧ですわ。でも威圧感は抑えましょうね。完璧な淑女に威圧感が加わると、相手が怖がります。それは妃になった後、外交面などでお使いください』
そうだった。完璧な淑女モードになると、私は相手を威圧してしまうようなのだ。慌てて、ペットのロビーの、ピスピス鳴りながら動く、黒く濡れた鼻を思い出した。
これで威圧感は消えるのだ。シンプソン夫人と色々試した結果、一番効果があるのがこれだった。
効果は抜群で、ユーリ様が前に一歩進み出た。
「リディア、君はこのドロレス嬢に散々嫌がらせをしたそうだな。弁明があれば言ってみろ」
え、嫌がらせはしていませんが、としばし考えた。でも思い浮かばなかった。
「ユーリ様。私には覚えがございません」
ユーリ様は、なぜか顔を歪めて笑った。始めて見る黒い表情に驚いたけど、そんなお顔も魅力的。
「彼女を呼び出して、さんざん罵倒した事数回。一度など、持ち物を奪ったそうじゃないか」
ああ、あれのことね、とやっと思い至った。
「それは彼女が淑女として、おかしな行動をしていたので、注意したのですわ。持ち物を奪ったとおっしゃいますが、それは……」
言っていいものか迷い、言葉を選んでいたら、ユーリ様が責め立ててきた。
「なんだ。言えないのか。よほど言いたくない事情があるようだな」
「あの、後で二人きりで話しませんか」
「ここで今、言ってもらおう」
私は、観念した。
「私がユーリ様に贈った、刺繍のハンカチを、なぜかドロレス様が持っていらっしゃったので、返していただきました」
途端にザワッと、女性達の怒りの声音が、重低音で床を這った。
いつもは軽やかにさえずる乙女達だが、淑女教育のたまものである、声音で意思を伝える、を発動したようだ。
そこに込められた批判は、しっかりと伝わってくる。だから言いたくなかったのに。
ガタンと馬車が大きく揺れ、体が固いひじ掛けの角に当たった。
痛い。
ふと、意識が現実に引き戻された。そうだ、私は護送用の粗末な馬車に乗っているのだった。木の座面に木の背もたれ。お尻も背中も既に痛くなっている。今当たった所は、もちろんずきずきしている。
この私、リディア・ハントが?
私は第二王子ユーリ様の婚約者で、由緒ある伯爵家の令嬢なのに。
なぜこんなことになったのかしら。私は昨日の出来事を思い返してみた。
昨夜は学院の卒業パーティー。私は卒業するユーリ様のパートナーとして出席していた。
ユーリ様に喜んでもらえるように、私は出来る限りの準備をした。
淡い茶色の髪は大人っぽく結い上げ、緑の瞳と同じ色の髪留めで飾った。ドレスも緑で、胸元が大きめに開いた物を選んだ。胸の嵩上げパットは二枚仕込んでいる。
お化粧は、侍女達と三日かけて研究した、自然に見える厚塗り。私付きの侍女のマリーが、目を見開いたように見せる小悪魔風メイク、とか言っていた。
華奢な私は、16歳という実年齢より、いつも幼く見られ勝ちだ。
だから、少しでも大人っぽく見せたい。実は亡くなった母の様な、メリハリボディの美女に憧れている。焦らなくとも、あと一、二年したら、お母様そっくりになります、と母をも育てた乳母が言うが、今の貧相な体つきからは、全く想像もできない。
でも、色々頑張ったおかげで、その日の私は、だいぶ大人っぽく華やかな女性に変身していた。
仕上がりに大満足してご機嫌だった私だけれど、この日は学院のパーティー会場に入る前から、なんだか全てがおかしかった。
まずは、エスコート役のユーリ様が現れず、従僕が迎えに来たこと。
なぜ? と疑問だったが、王子が会場にてお待ちですと告げられ、従僕の先導に従った。
広間に着くと、すぐにドアが開けられ、驚くことに、そのまま一人で会場入りすることになってしまった。
足を踏み入れたパーティ会場は、楽し気なざわめきも、音楽の演奏もなく、シンとしていた。
しかも出席者達は、ドアの前から壇上までの中央を開けて、両脇に固まっている。あまりにも異様な光景だった。
壇上には、婚約者のユーリ様がいた。いつものように麗しいお顔を、金色の癖毛が縁取っていて、うっとりするほど素敵に見えた。
その後ろには、彼の側近達。
右側に、つややかな黒髪の公爵令息トーマス・リンツ様。いつもと同じクールな表情からは、何を考えているのか全く分からなかった。
ユーリ様と婚約して以来、頻繁に顔を合わせているが、殆ど目が合ったことも無いし、会話もした覚えがない。
隣の青い髪が華やかな、侯爵令息のレイノルズ・サマーズ様は、私を眺めてニヤニヤしていた。あきらかに、この状況を楽しんでいるのが分かった。彼とは時々話をするが、全く気が会わず、多分お互いに嫌い合っている。昨夜も意地悪気な顔をしていたと思う。
王子の左側には、伯爵家令息の、長い銀髪で、ほっそりとしなやかな体つきのロイ・レグルス。私の幼なじみだ。困ったような表情の中で、紫の瞳が気遣わし気に揺れていたのを、覚えている。
そして、見たくないけど、否応なしに目に入ってくる女。ユーリ様の横に張り付いている、侯爵家令嬢のドロレス・グレイ。同じ16歳なのに、彼女は普段からとても大人っぽく見える。
ふわふわした金髪をアップにして、青い派手な宝石の髪飾りで留めてある。
それと同じ青い目は、好戦的にこちらを睨みつけていた。
よく見ると、彼女のドレスはユーリ様とお揃いの物だった。
婚約者でもないのに、良くもそんなふざけた真似が出来るものね、と思った途端、このおかしな状況への戸惑いは頭から飛んだ。
広く開いている中央部分を滑るように歩き、真ん中辺りまで進むと、私は壇上に向かって声を上げた。
「ユーリ様。これはどういうことなんですか?」
「わからないか? 君を断罪しようとしているんだ」
「断罪? 何をですか?」
「まずは、私が発言を許していないのに、勝手に話し始めたことが問題だな。そう思わないか?」
いつも優しく、穏やかなユーリ様が、このときは別人のように冷たい声で答えた。
「婚約者を控室に放置して、一人きりで会場入りさせるのは、問題ありませんの?」
王子がグッと詰まった。ゴホンと咳をして、仕切り直そうとするところに、私は畳み掛けた。
「王子の隣に婚約者でもない女性を立たせ、しかも今夜の衣装はお揃いですのね。問題のないところが見当たりませんわ」
「黙れ。断罪は私がするんだ。お前のそういう所が嫌なんだ。これ以上揚げ足を取ったら、不敬罪に問うぞ」
ユーリ様ったら、突然に何を言い出すのだろう、とその時は驚いただけだった。
ユーリ様の事は大好きだが、時々理解できない時があるのだ。
周囲の者が、それは通常、相性が悪いと言います、とアドバイスしてくれる。屋敷の侍女や、学院の友人、幼なじみのロイにもよく言われる。
でもいつも私は、頑張れば大丈夫よと答えていた。
私はとてもユーリ様を愛しているので、相性の一つや二つ、愛の力で何とかなると思っていた。
ふと周囲を見ると、居並ぶ人々が困ったような表情で、ざわつき始めていた。
ここは彼の言いたいことを聞くべきかもしれない。そうでないと、パーティーが始まりそうにないと思ったので、背筋を伸ばし、レースの長手袋をはめた両手を、前で軽く組んだ。
『よろしいですか、重心は真直にして、指先までの隅々に神経を張り巡らせて。でも力みを感じさせては駄目です。目指すは涼やかな自然体です』
王子妃教育担当のシンプソン夫人の声が、耳によみがえる。
初めて聞いた時は、そこまで力を入れた自然体って、全く自然じゃないでしょう、と反発を覚えた。
隅々まで神経を行き渡らせると、疲れるの何の。始めのうちは、次の日に全身がギシギシいうほどだった。
それが、いつの間にかすっと出来るようになっていた。これこそが、愛の力だと思う。
私は完璧な淑女モードに入った。
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それを見て、またまたシンプソン夫人の言葉を思い出した。
『完璧ですわ。でも威圧感は抑えましょうね。完璧な淑女に威圧感が加わると、相手が怖がります。それは妃になった後、外交面などでお使いください』
そうだった。完璧な淑女モードになると、私は相手を威圧してしまうようなのだ。慌てて、ペットのロビーの、ピスピス鳴りながら動く、黒く濡れた鼻を思い出した。
これで威圧感は消えるのだ。シンプソン夫人と色々試した結果、一番効果があるのがこれだった。
効果は抜群で、ユーリ様が前に一歩進み出た。
「リディア、君はこのドロレス嬢に散々嫌がらせをしたそうだな。弁明があれば言ってみろ」
え、嫌がらせはしていませんが、としばし考えた。でも思い浮かばなかった。
「ユーリ様。私には覚えがございません」
ユーリ様は、なぜか顔を歪めて笑った。始めて見る黒い表情に驚いたけど、そんなお顔も魅力的。
「彼女を呼び出して、さんざん罵倒した事数回。一度など、持ち物を奪ったそうじゃないか」
ああ、あれのことね、とやっと思い至った。
「それは彼女が淑女として、おかしな行動をしていたので、注意したのですわ。持ち物を奪ったとおっしゃいますが、それは……」
言っていいものか迷い、言葉を選んでいたら、ユーリ様が責め立ててきた。
「なんだ。言えないのか。よほど言いたくない事情があるようだな」
「あの、後で二人きりで話しませんか」
「ここで今、言ってもらおう」
私は、観念した。
「私がユーリ様に贈った、刺繍のハンカチを、なぜかドロレス様が持っていらっしゃったので、返していただきました」
途端にザワッと、女性達の怒りの声音が、重低音で床を這った。
いつもは軽やかにさえずる乙女達だが、淑女教育のたまものである、声音で意思を伝える、を発動したようだ。
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