令嬢のあとさき

春月もも

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令嬢のあとさき

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朝のテーブルには、毎日すこしだけ中身の違うパンの籠が並ぶ。
白パン、ライ麦パン、クロワッサン。

わたしはいつも、迷わず白パンを取る。
柔らかくて、何も考えずに飲み込める味だから。

その朝だけ、手が勝手に別の方へ伸びた。
理由もないのに、気づけば指先はライ麦パンを掴んでいた。

触った感じも見た目どおり、少し固い。
ナイフを入れると、皮がかすかに音を立てる。
バターを塗って、ひと口かじる。

噛むたびに、顎の付け根がゆっくり動く。
噛み締めるほど、鼻の奥に土っぽい穀物の匂いが広がる。
洗練とは縁のない、重たい匂い。

「お代わりは?」

侍女の声が、テーブルの向こうから飛んでくる。
皿の端に寄せたパンくずを眺めてから、首を横に振る。

「いいわ。これで」

明日はまた、白パンでいい。
そう思いながら、水で口の中の重さを流し込む。

夜、社交界から戻るころには、
身体じゅうに外の世界の名残がくっついている。

いくつもの香水が混じり合って、肺の裏に貼りつくような甘い匂い。
笑い声。
誰かの視線の感触。

背中のホックを外してもらいながら、大きく息を吐く。
コルセットの跡が、腰と肋骨に赤い線を残す。
少し痒い。

鏡の前で髪をほどく。
頭がふっと軽くなる。
髪飾りのピンがテーブルの上に落とされる音が、やけに静かに響く。

鏡の中の頬は、笑いすぎてじんじんする。

昼間の冗談はもう思い出せないのに、
作り笑いの疲れと、
首筋に残った誰かの香水だけが、きちんと居座る。

部屋着に着替えて、やっと一人になる。
ドレスも宝石も、椅子の背に預けてしまう。

石鹸の、味気ないくらい清潔な匂いをまとって、
肌に残った他人の気配をこすり落とす。

裸足で床に触れる。
冷たさが、そのまま足裏からあがってくる。

その冷たさと、ほんの少しの自分の肌の匂い。
その組み合わせで、ようやく自分の輪郭がはっきりしてくる。

ベッドに倒れ込んで、
天蓋の布の模様を、ぼんやり目でなぞる。

明日もまた舞踏会だ。
胸の奥に、うすい溜息がたまる。
声にして吐き出すほどの元気は、もうない。


翌朝。
テーブルの上の籠には、昨日と同じ三種類のパンが並ぶ。

今度は迷わない。
手はまっすぐ白パンを掴む。

今日は、噛むことに力を使いたくない。

柔らかいパンを喉へ流し込みながら、
頭の片隅では、ライ麦パンの重さをなぞる。

あの「重さ」を知ったせいで、
いつもの白パンが、少しだけ頼りなく感じる。

支度の途中で、手袋が見当たらないことに気づく。

客間のソファのクッションを持ち上げると、
隙間に片方だけ落ちている。
もう片方は、すぐそばの床の上。

埃を払って、指を通す。
左手の親指のあたりが、少しきつい。

前からこうだったのか、
昨日どこかで湿気を吸ったのか。
考えてみても、答えは出ない。

少し気になる。
でも、時計の針は待ってくれない。

新しい手袋を出すほどのことでもない。
そのまま指を押し込む。

外套のボタンを留め終わるころには、
親指の窮屈さなんて、もう忘れている。

夜。
また舞踏会から戻る。

今日も、よく笑った。
そのはずなのに、
ベッドに倒れ込むころには、
華やかな会話のほとんどが、もう霧みたいに薄い。

残っているのは、
朝の白パンの物足りなさと、
手袋の親指にかかっていた、あのわずかな圧。

明日の朝、どのパンを選ぶか。
その答えは、明日のわたしに丸投げして目を閉じる。
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