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第二章

貧民窟の銅貨(2)

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 此処に住んでいるのだと。
 衝撃的な告白にヨルシャは頬を引きつらせる。
「結構住みやすいよ。此処なら銅貨一枚で一日暮らせるし」
「安っ。絶対危ないってば」
 薄暗い谷底へ降りながら、陽気なフーポーは街の事を語り出した。
 街跡の見た目は酷く静かで陰気だが、実際は今も多くの者が暮らしているという。
 岸壁には無数の木戸が並んでいた。
 大半は窓で、一際大きいものは岩の中に建造された道に繋がる扉だという。ぽっかりと闇が蟠る穴は、無人の民家を示していた。
 充分な幅のない道や階段が、岩肌に沿って造られている。これを外路と呼ぶ。外路は時とともに脆くなり、綱が張り巡らされてはいても危険なことにかわりはなく、滅多に利用されない。
 住民の殆どは、安全な岸壁内部の内路を使って家々を行き来している。内路は複雑に入り組み、迷宮状態になっている。その為、余所者や住み着いて日の浅い住民は十中八九、道に迷う。
 そんな話を聞かされて、ヨルシャはフーポーの黒い外套にしがみついた。
 未知の恐怖で声も出ない。
 大地が恋しいはずなのに、降り立った途端、空が恋しいと思えるのは不思議だ。
 正直なところ、ヨルシャは今すぐ帰りたかった。
 散々悪い噂を聞いているだけに、どんな目に合うか分からない。経験上、幾つか思いつくが考えたくもない。生きた心地がしないとはこのことだ。
 怯え続けるヨルシャの傍らで、フーポーは小刀を取り出して七色に煌めくシャボンを裂く。その後は、几帳面に畳み始めた。
「なにしてんの」
「持っていくんだよ。これ良い石鹸になるんだ。体を洗ったり洗濯したり」
 つまり水に溶けると言うことか。
 其処に気づいて、益々ヨルシャの顔色は悪くなっていった。青から白へと変じる。
「雨が降ったら帰れないじゃない」
「どんな文明利器にも欠点は存在するものだよ。神様じゃないんだから」
 そう言う問題ではない。
 つまるところ、飛行中に雨が降ってきたらシャボン玉は溶ける。
 遅かれ早かれ、あの高さから落下すると言うことは確実に命を落とす。
 亀よりも鈍い動きで天を見上げた。谷の狭間に、漆黒の天空と白銀に光る月が浮かぶ。
 雨雲は見えない。
 どっと全身から汗が噴き出した。安堵によるものか、問題の危険度を認識した為なのかは分からない。干上がっていく喉の奥で悲鳴を殺す。先ほどまであれほど空に戻りたいと願っていたのに、空に対する恐怖が高まっていく。
 地面に降りて良かった。落ちなくて良かった。雨が降ってなくて、本当に良かった。
「心配しなくても、帰りは別のシャボン玉を作るから」
 見当違いな言葉を口にする黒衣の男を、ヨルシャは凝視する。
 此処に取り残されるような事態は御免被りたいが、寿命が縮むような思いを味わうのも勘弁願いたい。結局の所、ヨルシャはフーポーに従うほか無かった。
 心細くて黒い外套の裾を握りしめたまま歩いていく。
 笑われたが、はぐれるよりはずっといい。
 一番近い扉から内路へ入り、歩き続ける。岩壁には所々、古びた角灯がつり下げられていた。橙色の温かい光が足下を照らし、奥へ奥へと導いていく。通気口から吹き込んで通路を通る風の音が、獣の唸り声のようにも聞こえる。
「人なんていないじゃない」
「そりゃあ、この辺は居住区じゃないから。明かりがついてるだけ、まだ内路として機能しているほうだし。本当に人が通らなくなった区域は、明かりさえも無いからね。もう少しで居住区に出るよ。向こうから声がするし」
 ヨルシャには聞こえない。
 当て推量なのか、それとも耳が異常にいいのか。
 大人しくついていくと、途中から地面の土埃が消えていた。砂利の代わりに煉瓦が精緻に敷き詰められ、岩壁は全面が白く塗装されている。
 雰囲気の変わり様に驚いていると、遠くに痩せこけた子供が立っていた。着ている物は薄汚れている。其れまで覇気のなかった漆黒の双眸に、意志が宿っていくのが分かった。
 少年が大きく手を振った。フーポーが手を振り返す。
 かと思うと、少年は腰に下げていた鈴を手に持ち、一心不乱に振り始めた。
 リン、リン、リン、リン、リン、リン、リン!
 硬質で高い響きが内路を満たしていく。鈴の音に交じって鉄板を叩くような音も混じりだした。音の波は着実に数を増し、無数の足音がこちらへ押し寄せてくる。
「なに。なんなのよ。なにやってんの? あれなにやってんの!」
「仲間を呼んでるんだよ」
 半狂乱のヨルシャに比べて、フーポーは落ち着いている。
「仲間を呼ぶ? 増えるの? くるわけ? 私達襲われるの? 冗談じゃない!」
「落ち着きなって。危ないことは起きないよ」
 説得力がない。背中に隠れてがたがたと震えるヨルシャの目の前に、二十人近い子供達が群れを成していた。じぃっと此方を見ている。数人の子供達が進み出て、両手を伸ばした。物乞いの仕草だ。
 フーポーが指を動かす。その手の動きは紛れもなく『手話』だった。
 子供達が首を何度も縦に振る。何を言っているのか、ヨルシャには分からない。石鹸になるというシャボンの膜と茶色い紙袋を二つとも下ろすと、子供達はそれぞれ二人がかりで運び始めた。
 盗むつもりだろうか。
「ちょっと!」
 ぴた、と子供達が動きを止めた。全員がヨルシャを凝視する。無数の黒い目に縫い止められたヨルシャは、かろうじて傍らのフーポーを向く。視線で助けを求めると、翡翠の瞳が笑いながら手を動かした。
 すると子供達は明るい顔を見合わせて微笑んだ。荷物を運んでいく。他の子供も、ぱたぱたと足早にかけていく。
「何言ったの? てか持って行かれちゃうわよ。早く追いかけないと」
「いいんだよ。あれは彼等の為の品物だし、頼まれものだから。この布鞄の中身もそう」
 呆気にとられた。
「自分のじゃないの?」
「僕のは別。此処には毎日暮らしてるわけじゃなくて、ふらっと何日か立ち寄る程度なんだ。だから親しい家や子供達から、次に帰ってくる時はこういうのを買ってきて、って頼まれることもあるし」
「……先に言って頂戴」
 全身で警戒したのが莫迦らしい。ヨルシャは心底疲れていた。何の目的で此処へ来たのか分からない。単に振り回されている気がしていた。
 フーポーの後に付き従うと、子供だけではなく多くの者と擦れ違う。
 皆、見窄らしい姿をしている。
 街に行くと思っていたヨルシャの小綺麗な格好は、異様なほど浮いていた。追い剥ぎに遭遇しては堪らないと思い、極力人と目を合わせない様に心がける。フーポーの影に隠れながら、時折、様子を盗み見た。
 年若い夫婦や酒を飲みながら賭博をしている男達。彼等はフーポーが通ると動きを止めて、子供達と同じく片手を振って愛想を振りまく。水瓶の蓋の上に腰掛けた老人が、ヨルシャに笑いかけてくることもあった。
 ただコエは聞こえない。
 足音や物音だけに包まれていた。
 外出が滅多に認められない音子の学院という、特殊な環境で何年も過ごしてきた為に忘れがちになるが、一般人はコエを持たない。話すことも、歌うことも、叫ぶこともない。
 意志の疎通は手話に限られる。
 其れが当たり前だと言うことを、今この時に思い知った。
 掠れるような小声でフーポーに問いかける。
「どこいくのよ」
「僕の隠れ家。きっと驚くよ」
 フーポーは道を進んでいく。
 時折、おつかいの品物を届けながら辿り着いたのは、比べものにならないほど広い空間だった。全面は白く塗装されている。様子からして洞窟の生活が息苦しくないようにする為の配慮だろうが、内路と異なる圧倒的な荘厳さに言葉を失った。
 吸い寄せられるように歩いてゆく。
 赤茶けた煉瓦ではなく、青い文様の描かれたタイルが敷き詰められている。
 白い漆喰の上から絵を描いたのだろう、正確に区切られた壁には、旧書や新書を彷彿とさせる宗教画が並んでいる。大人三人分の身長はあろう天井を、彫像の彫り込まれた柱が支えていた。軽く見積もっても三百人は収容できる大空間。
 壁に並ぶ角灯と柱の像が持つ蝋燭の炎が、幻想的な空気を生んだ。
 贅をこらした学院の歌劇場にも勝るとも劣らない。
「すご……い」
 小さな声が反響する。視界の果てには祭壇があった。
「街が移転される前、此処で宗教的な儀式や行われていたそうだよ。今でも少数の信心深い者は朝と夜、或いは悩みを抱えた時にやってくる」
 振り返ると、フーポーが出入り口の壁にもたれてヨルシャを見ていた。
「すごい、すごーい。見てよ、三百年経ってるのに壊れてもなければ塵一つないわ!」
 ヨルシャの声が煩いほど響く。フーポーの足下にいた子供達が煩そうに耳を押さえた。
「そりゃ、僕や子供達なんかが頻繁に掃除に来るからね。汚かったら泣くよ」
 冗談めかしてヨルシャの傍へ歩み寄る。
「此処なら王立歌劇場に引け劣らない響きで練習が出来る。誂え向きだろう」
 ヨルシャの目が点になった。見る見るうちに感動と興奮で、頬が朱に染まっていく。
「こ、此処で練習して良いの」
「そのつもりで連れてきたんだよ。学院の合同練習室じゃあ雰囲気でないし、自分の声なんか分からないだろう」
 学院では個室の練習室もあるが非常に狭い。
 ピアノが一台入るか否かの狭さで、防音効果だけが立派な壁は、お世辞にも王立歌劇場のような音の響きは望めなかった。合同練習室のような広い空間を独り占めにすることは難しく、練習は思うように進んでいない。
 此処は確かに穴場だ。
 音の響きは最高で邪魔が入らない。隣に師匠もいる。純粋な感動で胸が詰まった。
「ありがとう!」
 心の底から感謝した。
 まさか此処まで考えてくれているとは、露ほども考えていなかった。
 心が躍る。これで練習に打ち込める。何故かフーポーだけが面食らった顔をしていた。
「なに?」
「いや、其処まで喜んでくれるとは思わなくて」
 視線が泳いでいたフーポーの袖を引く者がいた。
 子供の指先が小刻みに動く。何か話しかけているようで、フーポーの表情が変わった。
 何を話しているのか知りようがない。
 指の動きを目で追えない。
 少なくともヨルシャは、音子買いの商人達に売られるまでは、多少の手話を話せていた覚えはある。だが学院でコエの使い方を教えられ、言葉を習って使い始めてからは、いつしか微かに覚えた手話も忘れてしまった。
 悲しい思い出ばかりで、思い出したくないだけかも知れない。
 アルトーラへ訪れることに対してヨルシャが過剰な拒否反応を示したのも、悪い噂を聞いていたからだけではなく、心の底で昔の事を思い出すからだ。
 つい目を背けたくなってしまう。
 コエの所為で幼い頃から化け物扱いされ、食べ物も滅多に口に出来なかった。
 親に売られ、鎖に繋がれたまま商人と共に旅し、学院に買われた。
 何よりも、この世と神を呪った。
 思い出したくない。
 戻りたくない。
「手話で挨拶したら?」
 我に返る。険しい顔をしていたのか、子供達が怯えた目でヨルシャを見ていた。
「この子達は手話と簡単な文字は理解できるけれど、コエの言葉は分からないんだ。先生になりそうな学者はいないし、僕も教える暇が無くてね」
 跋が悪くなり顔を背ける。
「……手話の成績は悪いのよ。最低限しか科目とってないし、まだ五十音と数字も全部覚えていないのに」
 嘘だ、五十音くらいなら覚えている。
 フーポーの顔を見ることが出来ない。
 かといって俯けば、まとわりついている子供達と顔を合わせることになる。
 ヨルシャの視界にはフーポーの黒髪と腕だけが映っていた。溜息が聞こえる。
「成績の話ではないんだよ。いいかい、両手の掌を顔の横で相手に向けて」
 両肩を捕まれてくるりと半回転。フーポーを背にしてヨルシャは子供達の方向を強制的に見る羽目になった。半分抱きしめるような形なので、逃げられない。
「なにするの」
 抗議の声を、フーポーは取り合わなかった。
「いいから。そしたら交差させるように顔を隠して」
 渋々腕を動かす。
 どうせ数日しか来ないのなら手話を覚える必要などないのに、そうヨルシャは思った。
「次に両手を握りしめて、両手の人差し指をぴんっと立ててから、折り曲げる」
 言われるがままに動作を繰り返す。
 子供達がきょとんとヨルシャを見上げた。互いに顔を見合わせていたが、すぐにヨルシャの方向を向いて、全く同じ動作を繰り返した。子供達の顔には先ほどまでの一線を置いたものとは違う、親しみやすい表情が見て取れる。
「……あ」
 分かった。フーポーが何をさせたのか。
 ほんのり朱に染まる耳元で声が聞こえた。
「今の動作が『こんばんわ』だよ。ね、ちゃんと返事をしてくれる。沢山覚えれば、その分だけ意志の疎通が出来る。勉強だと頭で考えていては、何も覚えられないさ」
 ほんの少しだけで良い。前を見ろと。
 そう言われた気がしてヨルシャは黙り込んだ。フーポーが両腕の拘束を解くと、人見知りをしない性分の子供達数人が、既にヨルシャの両手や服の裾を掴んでいる。その様子を満足げに見下ろしていたフーポーが身を翻した。
「練習の前にちょっと準備をしてくるから、子供達とここで待って――――ん?」
 びーん、とヨルシャの手が黒い外套を握っていた。
 苦笑が零れる。
「どうしたの? 心細い? 心配しなくても、すぐ帰ってくるよ」
 女性を労ると言うより、幼子に言い聞かせるような言葉使いに、其れまで黙り込んでいたヨルシャが怒鳴った。
「誰が心細いか! ……『初めまして』と『私の名前はヨルシャです』って、どうすればいいの? 行く前に教えてよ」
 子供達が二人を交互に見た。
 破顔一笑。フーポーは「勿論」と答えた。
 いくら昔の自分や辛い境遇を彷彿とさせるからと言って、顔を背けて対話を拒否する。
 というのは、改めて考えると人間として最低だ。
 そんな考えに至ってか、ヨルシャは素直に教えを請うた。出会った時のような自尊心はおくびにも出さない代わりに、子供達の見ている目の前で手話を習うという気恥ずかしさで顔が赤い。
 苦労して『はじめまして』と『私の名前はヨルシャです』を覚えて、近寄ってくる子供達に自己紹介し続けていたヨルシャは奇妙なことに気づく。
 人数が増えている。
 子供だけではなく、自分と同じくらいの年頃の若者達もいる。
 彼等を初めとした老若男女がこの場所へぞろぞろと集まってきていた。
 砂埃や煤にまみれた襤褸の衣装や垢だらけの顔、節榑立った固そうな指先は日々厳しい労働に費やす者と同じだ。此処の住人達の姿はお世辞にも清潔とは言い難かったが、嫌悪するより先に、何処かやり切れない思いに駆られた。
 何気なく自分の両手をかざす。
 今でこそ傷一つない肌色の柔肌は、四年の歳月をかけて手に入れたものだ。あのざらざらとした硬い皮膚の感触。骨と皮だけの指を、ヨルシャはよく知っている。
 物思いに耽っている間に部屋は住民達で埋め尽くされていた。
 室内の様子を伺うように黒い頭が顔を出す。
「ちょっとフーポー、今日は礼拝か何か?」
「いいや。僕らが呼んできたんだ。子供達がこうした方が良いって。名案だろう」
 先ほどフーポーに話しかけていた子供の頭を乱暴に撫でている。
「これから練習するのに?」
 胸躍る興奮が冷めていく。代わりに、もやもやとした黒いものがこみ上げてきた。
 不服そうに顔を歪ませたヨルシャの腕を引いていく。人々が道をあけ、子供達が鈴を鳴らしながら後に続いた。奇妙な行列の向かう先は祭壇だ。
「だからいいんじゃないか。最初のお客さんになってくれるって言ってるんだから」
「お客、さん?」
 虚をつかれて瞬く間に壇上へ挙げられた。
 百を越える視線が痛い。降りようとするヨルシャを冷たく押し戻す。
「そ、お客さん。皆の為に歌ってみなよ。これくらいできないと本番は話にならないな」
 学院付属歌劇場の観客収容数は二百。歌花祭の舞台である王立歌劇場は二千人以上の大観衆を収容する巨大な空間だ。つまりはそう言う意味だろう。
 翡翠の瞳が嘲笑っているように見えた。
「莫迦にしないで!」
 ヨルシャの負けん気に火がついた。
 怒りに駆られたヨルシャは自ら中央の位置へ向かい、正面を向く。
 大凡三百人を余裕で座らせることの出来る教会跡。ついさっきまで百人ほどだった住民の数は益々増えていく。無数の黒い瞳は、期待に満ちた眼差しで壇上のヨルシャを見つめていた。
 瞼を閉じた。
 緊張をほぐす為に、胸中で己に言い聞かせる。
 たかが貧困層の教養のない人間達に歌を聞かせるのだ。何を怯える必要がある。どうせろくな歌も聞いたことがないに違いない。何も恐れることはないのだ――……
 再び正面をみた。
 視界の隅にフーポーが映る。
 あの、人の良さそうな笑顔に戦慄した。
 ヨルシャは息を呑む。精神的な圧迫感に喉が潰れる。
 忘れていた。半ば此処に住んでいるというフーポーが、住民達に歌ってみせた事がない保証など何処にもない。住民達とかなりの面識がある様だし、ヨルシャとコエで話している様子に住民達が驚いていた節もない。
 住民達がフーポーの美声を聞き慣れているとしたら、話は全く違ってくる。
 ヨルシャの事を手話で、どう紹介したのかは分からない。しかし歌を聞き慣れているとしたら、十中八九、ヨルシャはフーポーと比べられる。生半可な歌は歌えない。
 覚悟を決めたヨルシャは、最も得意な聖歌を唇にのせた。

「――――アヴェ マリア、
     グラーツィア プレーナ――――」
 
 しぃんと部屋が静まりかえる。楽器の音も聞こえない。
 長く細く透き通った水のように、滑らかに広がりゆくヨルシャの歌声。聖母への賛歌。
 
「――――ノォビィヌゥス テークム、
     アヴェ マリア、
     ベネディクタ トゥ インムゥリエ、
     エ エリブス、
     エ ベネディク トゥ フゥツゥス、
     ヴェ、トゥリス トゥ イエズス――――」

 結婚式や祭典などで歌われる事が多く、教養ある者で知らぬ者はいないとまで言われる歌だが、馴染み深いが故に幾度も編曲が作られており、相当の技量も要求される。
 この宗教曲は賛歌であると同時に『祈り』でなければならない。

「――――サンクトァ マリア、 
     オーラ プロノォビス、
     サンクトァ マリア、
     オーラ プロノォビス、
     アヴェ マリア アーメン――――」

 静寂が満ちた。
 刹那、拍手が起こった。ホッと胸を撫で下ろす。
 悪くない出来映えだったと心の中で己を褒めた。なりやまぬ拍手は、相手が貴族や富豪でなくとも気分がいい。営業用の笑顔を浮かべて何度も頭を下げていたが、突然、ヨルシャの帽子をひったくる者がいた。フーポーだ。
 足下の子供達が、拍手をうち消すように、鈴や鉄板を煩く鳴らす。
 折角の余韻が台無しだ。目の前で、フーポーや子供達の指先が動いた。暫く顔を見合わせていた『お客さん』達が、一人残らず笑顔でフーポーの所へ集まってくる。
 茶色の帽子に投げ込まれていたのは無数の銅貨だった。
 子供達が握りしめた一枚。若い夫婦が二枚。賭博をしていた男達も老人達も、例外なく銅貨を入れていく。塵も積もれば山となる、とは言うけれど、精々銀貨に換金しても数枚程度だろう。
 ヨルシャの帽子は小汚い銅貨で一杯になり、底が抜けそうな量になっていた。
 洗濯しなければいけなくなった。と青ざめたヨルシャに向かって、嬉しげに手を振っていく住民の多いこと。皆が帰ってから、フーポーはヨルシャに茶色の帽子を返した。帽子は型崩れしていた。まだ新しかったのに、あんまりだ。
「これはヨルシャのものだよ。今日はこれでおわり。帰るからついてきて」
 折角の帽子を汚されたと腹を立てたものの、数日分の小遣いか食事代程度にはなるはずだ。
 文句を飲み込んで後に続く。
 結局、練習らしい練習はしていない。臨時収入があっただけよしとするべきだろう、と考え込んでいると通路を抜けて降りた場所へ戻って来た。フーポーが振り向く。
「貰ったお金は、そのまま大切に取っておきなよ」
「なんで?」
「宝石や金貨より、重いから」

 ――――『此処なら銅貨一枚で一日暮らせるし』。

 脳裏に蘇る会話。言葉を失う。此処は賑やかなパフェルではない。何処にも行き場のない者達が住まう貧民窟、岸壁の街パヘルだ。
 ヨルシャは立ち止まる。帽子の中の銅貨の山を見つめる。震える声が零れた。
「……返さなきゃ」
「なんだって」
「このお金、みんなに返さなきゃ。こんなの貰えないわ。飢え死にしたらどうするの」
 貧困の辛さは、身に染みて分かっていたはずなのに。
 ようやく今になって、本気で自分を罵った。
 貰えない。これは彼等の日々の糧。限界の境界線の中で、命を繋ぐ為の魂の金貨だ。
「返したら駄目だよ」
「でも」
「そのお金は、皆がヨルシャの歌を美しいと思ったから、払われたものだ。一日分の食事よりも価値があると、喜んでくれたんだ。それを君は返すのか?」
 唇を噛み締めた。
 受け取れない。貰えない。
 こんなに重い代金を、受け取る資格は持ち合わせていない。
 ヨルシャは、みんなの為に歌ったわけではなかった。己の自尊心を守る為、実力を見せつけて認めさせる為、結局は己の為だけに歌ってみせた。感謝されて良いはずがない。
 あまつさえ命にも等しい財産を奪うなど。
「どうしよう」
 どうしていいか、分からない。
 困惑し続ける様を見下ろしていたフーポーが、ぽんっと骨張った手をヨルシャの頭に乗せた。
 わしゃわしゃと乱暴に撫でる。陶器のような指先が、赤銅の髪を梳いた。
「価値が分かっただけで結構」
 手を放す。翡翠の瞳と漆黒の瞳がぶつかった。
「何の為に毎日差し入れをしてると思う。心配ないよ。そのお金は、大事にしまっておくといい。今日の出来事を忘れない事が宿題かな」
 フーポーは来た時と同じように、シャボン玉製造機械を持ち出して帰り支度を始めた。
「将来的に彼等が『ヨルシャの歌を聞いたことがある』と誇れる様な存在になれば、充分に見合った代金だと思うけど。どう?」
「……うん」
 短い返事は決意を含む。
 真面目にやろう。
 自分の為だけではなく、この銅貨に見合うような実力をつける為に。
 シャボン玉に入る為、差し出された手に手を重ねる。二人を乗せた七色のシャボン玉は頼りなさげに舞い上がり、月光に隠れて学院へと戻っていった。
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