PetrichoR

鏡 みら

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Prolog

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玖音くおん……どうしたの!?全身ずぶ濡れだよ?」
「……」
「とりあえず入って」
「いい。大丈夫だから」
「風邪引いちゃうでしょ」
「良いんだ……本当に。大丈夫……だから」
「……うん」
「ごめん」
「何に対して謝ってるの?」
「……」
「ねぇ玖音」
「君はもう、大丈夫。だからちゃんと幸せに。それだけを言いに来た」
「ちょっと!待って、待ってってば!」
「……なに」
「全部終わったの?ならそう言ってよ。捨て台詞みたいなことだけ言って居なくなろうとしないで」
「もう僕は、美結みゆと一緒には居られない」
「……え?」
「僕は……」








「おはようございます」

キッチンに立つ奏美かなみが俺に微笑みかける

「うん。いい匂い」

炊き上がったばかりの白米と香ばしい鮭の香りが
鼻腔を抜けて朝のスイッチを入れていく
カーテンから差し込まれる温もりに包まれながら
まだ少しぼんやりとした意識の中、テーブルへ向かった
奏美は2人用の小さな鍋から出来たての味噌汁を茶碗に入れて、冷蔵庫から納豆を差し出す
それを受け取ると彼女もそのまま正面の椅子に腰を下ろした
いつも通りの朝の食卓
寸分の狂いなく均一に並べられた朝食は彼女の几帳面な性格を表しているようで思わず笑みが零れる

弥一やいちさんどうして笑っているんですか?」
「ううん、何でもない」
「もしかして寝惚けてます?」
「起きてるよ」


何気ないやり取り
幸せで、平凡ないつも通りの日常
絵に描いたような幸せがそこにはあった

俺は今日、彼女にプロポーズする
今の仕事に就いて2年。仕事も落ち着いてきたし
3つ歳下の奏美は今年で30歳になる
年齢的にも丁度いいタイミングだと思った
何よりこれからは恋人ではなく、家族として
共に残りの人生を歩みたい。そう思ったのだ

最初は豪勢なホテルや大掛かりなサプライズを仕掛ける事も考えてみたが
昔テレビを見ている時、普段通りにしているときにプロポーズされる方が嬉しいと呟いていた事を忘れていなかった
何より奏美はああ言った場所が苦手らしく
1度だけドレスコードのある高級レストランに連れて行った時は酷く萎縮してしまっていたのだ



「また笑ってますよ」
「奏美の作った朝飯が美味いからな」
「それは私が作ったからじゃなくてお魚さんが美味しく育ってくれたからですよ」
「何だよそれ、ところで今日って何時に帰ってくる?」
「買い物行くから多分17時くらいには帰れると思います。何食べたいですか?」
「何でもいいよ、奏美が作ってくれるなら」
「またまたご冗談を」
「ほんとさ」
「それじゃあ弥一さんが1番好きなカレー作りましょうか」
「ほんとかい?良いね、カレー。嬉しいよ」
「決まりですね」
「楽しみにしてる」



次のニュースです
11月21日午前、京都府流地るち市の山中で性別不明の遺体が見つかった事件で、警察が身元の確認を進めていましたが、本日12月6日、遺体が滋賀県内海瓦うみかわら市に住む、子安こやす 明宏あきひろさん(31)と判明したと発表しました。
子安さんは5年前の2000年6月に突然行方が分からなくなっており、何らかの事件に巻き込まれたとして警察が捜索していました
見つかった骨の損傷が激しかったことから警察は殺人事件の可能性があるとみて調べています



相変わらずテレビは気が滅入るようなニュースばかりが流れている
朝の幸せな時間に水をさされるような気がして
チャンネルを変えようとリモコンに手を伸ばした時だった。隣で箸の落ちる音と共に空気の漏れるような呼吸音と細い悲鳴が聞こえた
驚いて隣を見ると、奏美が両手で頭を抱えながら何かに怯えているようにうずくまっている

椅子から立ち上がり肩に触れようとして
その腕が小刻みに震えることに気付く

「……つっ。っはぁっはぁはぁ……」
「奏美!急にどうしたんだ?大丈夫か?」
「ふーっ……はぁっはぁはぁ」
「おい、奏美。深呼吸してみろ」

1度、2度と肩が大きく上下し
表面張力を越えた涙がぽつぽつと零れる
しばらく背中をさすり見守っていてやると
少しずつ少しずつ落ち着きを取り戻し始めた

「弥一……さん」
「そうだよ。大丈夫か?」
「…………うん、大丈夫。ごめんなさい。自分でも分からないけど、何だか急に……恐くなって」

怖くなった
その言葉がいやでも気にかかる
思い当たる節と言えば、つい先程流れたニュースぐらいしかないが、それほど恐怖を感じるような事件だったろうか?
確かにショッキングではあるが、ありふれた事件と言えるだろう
自分の身近な場所で起こった事であれば
まだ分からなくもないが、事件のあった場所も
ここからはかなり離れている

ーーーもしかして
と発しそうになった所で口を止めた
今、余計な事を口にして彼女をこれ以上恐がらせる必要はない

「大丈夫なら、良いんだ」
「ごめんなさい……。驚かせちゃいましたよね」
「ううん。気にしないで」

丁度、朝の情報番組が次の番組に切り替わり
アナウンサーが挨拶と共に8時になった事を告げる

「弥一さん、もう行かないと遅れちゃいます」
「ああ、そうだな。本当に大丈夫か?顔色悪いけど」
「はい。本当に……大丈夫ですから」
「分かった。それじゃ、行ってくるよ」
「うん、行ってらっしゃい。気を付けて」

彼女が気丈に振舞おうとしている事は明らかだったが、仕事を休んだ所で自分に出来る事は限られている。
後ろ髪を引かれる思いを抱きながら玄関へ赴いた

「弥一さん」

ドアノブに手をかけた所で彼女の声が背中に伝わる

「うん?」
「……ごめんなさい」

確かに少し驚いたがそんなに気にする事ではないのに。彼女にとっては俺に心配をかけさせた事が気になるのだろうか
返事の代わりに微笑み
手をかけたままのノブを回した
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