PetrichoR

鏡 みら

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scene3 玖音

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「ずっと乗ってたから少し酔っちゃったかも」
「少し車、停めようか?」
「ううん、大丈夫。今は少しでも先を急ごう」
「……そうだね」
「風が子守唄みたいで気持ちいい。そう思わない?」

ハンドルから彼女の方に視線を向けると
長い髪が夜と溶けてなびいた

正直、あまり雑談をするような気分ではなかったが
出来るだけいつもと変わらないように振る舞う美結を見て
それにならった

返せなかった返事を待つことなく彼女は続ける

「こんな風にドライブするの夢だった」
「言ってくれたら幾らでも迎えに行ったのに」
「ほんと?」
「当たり前じゃん」
「嬉しい。やっぱり優しいね、玖音は」
「……」
「ごめん。優しいって言われるの嫌だったね」

別に。と言おうとして言葉を飲み込む

「これからは色んな所に行って沢山の思い出を作って嫌な記憶は上書きしたらいい。それで……」
「忘れないよ。私は。今日さえ乗り越えれば明日からは楽しい毎日が待ってるから」
「……そうかもね」
「信じよう?」
「……うん」


「あ、ぺトリコールの匂い」
「なんて?」
「ぺトリコール」
「何それ」
「雨が降った時の匂いだよ」
「へぇ。雨の匂いに名前なんてあるんだ」
「そうでしょ。私、これ好きなの」
「変わってるね」
「玖音に言われたくないよ。少しだけ雨、強くなってきたね、今日は珍しく晴れる日って言ってたのに」
「天気予報なんてあてにならない」
「私達が初めて会った日もこんな空模様だったっけ」
「そう、うんざりするほどの雨」
「懐かしい」
「もう思い出せないぐらい遠くに感じるよ」
「玖音は……これからどうするつもり?」
「……」
「誰かにバレたらそこで私達は終わりだよね」
「私達って……もしも、この件が明るみに出たとしても罪を被るのは僕だけでいいと言っただろ。美結は何も知らない顔をして元の日常へ帰ったらいい」
「でも、私にも責任はある」
「違う!美結が言ったのは遠ざけて欲しい。それだけだろ!」
「それは……」
「もしも、罪悪感に苛まれて庇おうとしているのなら正直迷惑だよ」
「そんなのじゃない」
「じゃあどうして!!僕が望んでいるのは美結が平穏に、幸せに暮らしていくこと、それだけなんだよ!!それが叶うなら僕がどうなろうと構わない!」
「玖音は……自分の事ばっかりだよね」
「何でそうなるんだよ……ただ君のことを想って!」
「じゃあ私の気持ちは無視?あなたが私の事を大切に思ってくれてるのと同じくらい私だってあなたのこと思ってるんだよ?」

胸がつっかえて何一つ言い返す事が出来なかった
彼女は何も言わない僕に不服そうな表情を浮かべて
また窓の外へ目を向けた

何となく気まずい空気が流れ始めた事に耐えかねて思い付いたことを口にしてみる

「……お腹空かない?」
「そうだね」
「じゃあ次のサービスエリア入るよ」
「ごめんね、もう3時間近く運転させちゃってるしやっぱり少し休もう」
「さっきはごめん。怒鳴ったりして」
「ううん。私の方こそ」
「自分が思ってるより冷静じゃないのかも」
「仕方ないよ。誰だってそうなると思う」

サービスエリアには平日の夜にも関わらず
多くの車やトラックが止まっている
先に車を降り、後部座席に積んでいた傘を差し
助手席の彼女を傘の中に入れた

「近江牛サンドだって」
「大きいね。ボリューム過ごそう」
「2人で食べる?」
「うーんそうだなぁ。今はちょっと……」
「お腹空いたんじゃなかったの」
「そうだったね。玖音は食べたい?」
「僕もあんまり」
「……やっぱり何か食べておこうか。次いつ食べられるか分からないし」
「……」
「ごめん」

「ん。美味しい、1口食べなよ」
「僕はいいって」
「怒ってる?」
「……別に」
「分かりやすいよね。昔から」
「何を知ってるって言うんだよ」
「そうじゃないかなって、ただ思っただけ」
「……先に車戻ってる」
「分かった。何か飲み物いる?」
「要らない」
「じゃあ珈琲だけ買っとくね。煙草吸ったらすぐに戻るから」

車に戻るまでの短い距離
冷たい雨が皮膚を貫通して火照った身体を冷ましていく
半ば強引だったとはいえ
彼女を連れてきてしまった事を後悔していた
そもそも何も告げず
姿を消せば良かっただけのはずなのに
そうしなかったのは心のどこかで助けを求めていたのだろうか。情けない話だと思う

車内に響く雨とワイパーの音がとても心地よくて
耳を傾けている間だけは現実逃避出来た

もういっそこのまま彼女を置いてーー
そんな考えが頭を過ぎると同時に助手席のドアが開いた

戻ってきた彼女の手には飲み物はなく
煙草の残り香も纏ってはいなかった

「ライターでも忘れた?」
「ううん、やっぱり吸わない」

彼女は助手席に滑り込むと目を合わせることなく
正面の窓を見つめている
その姿は何も言わせまいと態度で示しているように見えた

「別に少しくらい待つよ」
「良いから」
「でも今日まだ……」
「良いから。早く行こう」

それ以上のことは何も言わず、車を発進させる
ハンドルを握る指に自然と力がこもり
窓に打ち付ける雨は激しさを増すばかりだった

それから目的地へと辿り着くまでの時間
僕達は口を開かなかった

点々と灯っていた街明かりは消え
舗装されていた道は悪路へと変わっていく
覆い被さるように並ぶ樹木はまるで異界のようで
雨の激しさも相まって息苦しさを感じさせた

しばらく山道を走らせた後、目的の場所で車を停める

「着いたよ」
「うん」
「美結はここで待ってて」
「え?何で?私も行くよ」
「本当は連れてきたくなかったんだ。それでもここまで来てもらったのは最大の譲歩だよ」
「嫌!」
「……それにこの雨だから。ただでさえ危ない場所だし、もしも何かがあった時、美結がここに居てくれた方が僕も助かる」
「……」
「2時間くらいで戻って来るから。少しだけ、待っていて欲しい」
「……分かった」
「ごめん。美結も何かあったら携帯に」
「絶対に、帰ってきてね」
「分かってるよ」

ドアを開けると雨音が1層激しく響く
一歩踏み出しただけでくるぶしまで足先が沈んだ
後部座席に積んでおいたレインコートを羽織ると
懐中電灯を口に咥え、トランクから
まとめておいた重い袋を拾い上げる
ずっしりとした重みが手の平から
心の深い所まで伝わってきて
これが現実なんだと、深く刻み込ませる
大丈夫。上手くやれる。きっと、大丈夫
窓越しに見える美結がこちらを向いている
だがその表情は雨に掻き消されて見えなかった

「ごめん。美結」

車に背を向け
永遠に辿り着けない深い闇の中に身を投じた
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