溢れる雫

五嶋樒榴

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wine

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5月の新緑の季節。この爽やかな季節の中で、頬を思いっきり引っ叩かれる男。
「サイッテー!バカ颯人!」
女はそう言うと裸のままベッドから飛び出て、脱がされた下着を着け服を着ると、早々に一人ラブホテルの部屋から出て行った。
「いってー」
叩かれた頬を右手の甲でさするとベッドから出て裸のまま、テーブルに置いていたタバコを取り出すと火を着け吸い始めた。
「全く、俺は誰のものでもないってーの」
そう吐き捨て、ほとんど吸っていないタバコを灰皿に押し潰し火を消すとシャワーを浴び始めた。
神原颯人は、新宿でホストクラブのグループ経営をしているやり手オーナーだった。
今はほとんど店に出る事はないが、新宿の夜王としての伝説は数限りなくあった。
現在は特定の恋人はいないものの、女側としては颯人のオンナになりたくて、そう言う意味では女が途切れる事はなかった。
ただ最近は、みんなの颯人から、特定のオンナになりたがる女達からの執拗なプッシュに「遊びで終わらないなら別れよう」とつい言ってしまう。
それがこの顛末である。
颯人の身体と財力に目が眩んでいる女豹達に、颯人は体の関係以外の興味は一切なかった。

めんどくせーのはごめんだ。

それが颯人のポリシーである。颯人にとっては、女は宝飾品の一部に過ぎなかった。
いつまでもここにいても仕方ないと颯人はラブホテルを出ると、自宅近くの高級スーパーに入って惣菜売り場を見て回っていた。
高級感漂う惣菜を吟味していると、ふと、1人の女性が目に入った。目が釘付けになるほどいいオンナだなと颯人は思って、その姿を目で追った。
その目鼻立ちがはっきりとした美女は子連れだった。
美女によく似た美少年。背は小柄の美女より少し高いぐらいでやはり小柄だったが、制服を着ているので中学生かなと颯人は思った。
だが、見ているうちに颯人は違和感を感じる。
2人でカートを押しているのだが、美女は美少年と固く手を繋いでいる。
中学生の子供と手を繋ぐか?普通、あの年頃なら嫌がるよな。
と颯人は思った。
そして美少年は、どこを見ているのか、会話もしていないのに口がパクパク動いている。
美女がたまに口に指を当て「し!」って言っているようにも見える。
正直不思議にしか思えず、ずっと2人の姿に見入ってしまった。
しばらくすると美少年が、右手の中指で左胸のあたりをトントンするジェスチャーを始めた。
美女は慌ててカートを滑らせ、美少年とトイレの方向に向かう。
颯人はつい気になって後を追ってしまった。
多目的トイレの前で2人は困っていた。
美少年はしきりに
「トイレ行ってきます。トイレ行ってきます」
と美女に訴えるが、多目的トイレが使用中になっていた。
美女は男子トイレに自分が入るわけもいかず、だからと言って女子トイレにも入れず困っていた。
「トイレ行ってきます。トイレ行ってきます」
美少年は同じ言葉を連呼する。
「望亜、もう少し待って。もうちょっとだから」
のあと呼ばれる美少年も、もう我慢の限界だと颯人には思えて、咄嗟に美女に声を掛けた。
「子供、トイレ行きたいんだろ。俺が付いてってやるよ」
颯人は自分でもその行動が分からなかったが放って置けなかった。
美少年の手を颯人が握ると、美少年はびっくりして、その手を払ってしまった。颯人もびっくりして美少年を見る。
「ごめんなさい。この子、知的障害があるんです。すみません、一緒にトイレの中に入れば、後は自分で出来るので、個室トイレの外から様子を見てもらって良いですか?自閉症児なので、色々敏感なので体とかは絶対に触れないでください!」
切羽詰まった美女は颯人にそう頼むと、颯人は男子トイレの扉を開けて美少年を入れた。
美少年は美女が言うように1人で個室に入った。扉の外から様子を伺っていると、用を足したのか、清々しい顔で出てきて、手を洗うと制服のポケットからハンカチを出して手を拭き、スタスタと外で待つ美女の元に戻った。
「俺が手助けしなくてもちゃんとできたぞ」
そう報告すると、美女は深々と頭を下げた。
「本当に助かりました。ありがとうございました」
颯人は少し照れながら、美少年を見た。
「トイレ行く時、何かサインしてたよね」
颯人が尋ねると美女は頷いた。
「この子は今もそうなんですか、言葉が小さい時から話せなかったんです。なので支援学校に入ってからは、トイレはマカトンサインを使ってこちらに伝えてくれるんです」
手話とは違うのかと颯人は思った。
「それじゃ、本当にありがとうございました」
再度深々と頭を下げると美女親子は立ち去った。
颯人はしばらくその場で見送っていると、多目的トイレから2人の女子高生が笑いながら出てきた。
どう見てもこのトイレを必要としてる様子はない。
「おい、お前ら」
身長185はある大柄のイケメンに声をかけられた女子高生達は、え?っと少し嬉しそうな顔をして颯人を見た。
「このトイレは必要な奴が使う場所なんだよ。必要もないのに二度と使うんじゃねーぞ」
ドスの効いた声で注意され、周りにいた人達にもジロジロ見られ、恥ずかしそうに2人はそそくさと逃げていった。
「俺、何やってんだ」
らしくない態度に自分でも戸惑う颯人だった。
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