通勤中の出来事です

トウモロコシ

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通勤中の出来事です

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龍樹と共に電車通勤をはじめて五年、付き合い初めて三年、同居をはじめて二年、なかなか長い年月、龍樹と一緒にいると思うがここ最近の龍樹の行動はなんとなく目につく。
悪い意味ではなく、なんとなく心配になる、という意味で。

満員電車、座る席なんて空いていない。荷物を自分の下の方で持ち、リュックなんて背負っていられない。隣に立つ女性の胸なんかに一瞬でも当たれば即、痴漢扱いされてしまうだろうこの時間。身動きひとつ取れないなかでも首を動かすことくらいはできる。
前に立っている龍樹の顔色が悪く見えた。

朝起きた時はそうでもなかったのにな。でも気づかなかっただけかもしれないし、気づいてて声かけなくて後でぶっ倒れられたら、俺自身が俺を責める自信がある。そして自惚れではなく龍樹は俺を慰めた上で、自分を責める。

声をかけないなんて選択肢は、はなからない。

「龍樹?大丈夫?顔色悪いよ。」
「遥…」

俺の名を呼んで、それ以上は話してくれなかった。具体的に何を聞いている、というのもないので、答えにくいというのもわかる。

俺の名前を呼んだあとに続く言葉はなく、遠くを見つめるように、カーテンの降ろされた窓の方を見つめた。

わかったことは何かある、ということだけ。人が多くて声も聞こえづらいだろうし、問い詰めることも出来ず、ただ様子を見ることにした。

じっと様子を見ていても、ほとんど窓から視線が外れることはなかった。実際は窓を見ている訳では無いのだろう。時々、目を伏せては小さく息を吐き出していた。目に若干ではあるが、涙の膜が張っているようにも見える。


大きな駅、降りる人が多いこの駅、車内は一瞬人が半分程度になる。席も空くので競走の駅だったりするが、俺としては龍樹の真横に行ければ十分だ。出来れば壁際によりたかったが、それは叶わなかった。
すぐにまた満員電車の構図が完成する。今度は隣は女性ではなく龍樹。

「龍樹。どうかしたの。」

年は俺の方が上だけど、身長は俺の方が低いから、自然と見上げる形になる。体調が悪い時に、上を向く人はあまりいないだろうから、下を向いても顔色がよく分かるという意味ではこの身長差は利点かもしれない。

「遥、かいしゃ、までどれくらい。?」

そんなの、駅名と時間を見ればすぐにわかるだろう、と普段なら思っただろうが、今日の龍樹が普段とは違うことはわかっている。

「いつも行っている時間までは三十分くらい。規定時刻までは一時間くらいあるよ。三本あとの電車に乗れれば間に合うかな。」
「……」
「降りたい?」
「…」
「余計なこと考えなくていいよ。龍樹の今の気持ちだけで答えてくれればいい。降りたい?」
「……うん。」

自分の荷物を手首にかけて、手で龍樹の荷物を持った。空いた手で龍樹の背を摩った。
何も言わないけれど、遠くを見つめるような視線はマシになったような気がする。


数分で次の駅についた。背を摩っていた手で龍樹の手を握って、周りに、降ります。通してください。と声をかけながら割って進む。

ホームに降りた所で通勤ラッシュの今、安心してはいけない。押し戻されることだって十分に有り得るのだから、なんとか奥まで進む。ホームのど真ん中、小さな無人の空間にまで進むと、一旦足を止めた。

俺の後ろをついてきていた龍樹を見ると、俺が掴んでいないほうの腕でお腹を抑えていた。手を離すと掴んでいた方の手もお腹を抑えた。
軽く前かがみになって、首だけ動かし、忙しなく周りを見渡す。今にもこぼれ落ちそうなほどの涙が目にたまって、呼吸も早くなってくる。
焦っているのは一発でわかった。それとなりふり構わない行動に限界が近いことも察した。
満員電車という身動きがとれない空間では十数分我慢するのもしんどいだろうに。

背伸びして見渡すとトイレのマークが見えた。

「龍樹、おいで。」
「はるか…!?」
「見つけた。」

龍樹の手を引いて、人の並をぐんぐんと進んでいく。
男性用トイレの前で手を離して、龍樹に行ってくるように促す。

「ありがと。」
「いいよ。行っといで。時間はあるから。」







待ったのは電車二本分ほどだった。時間にして二十分程度だろうか。
出てきた龍樹はさっきよりマシになったとはいえ、いいとは言えない顔色をしていた。

「大丈夫?まだ顔色悪いよ。」
「うん。さっきよりマシ。次乗れなかったら遅れるよね。行こう。あ、かばん。」
「あ、うん。いいよいいよ。俺が持っておく。」

先程とは逆で、俺が龍樹に手を引かれてホームに戻った。握られた手首は痛くもなんともなく、体調が悪いんだな。というのを改めて感じられるようだった。
それに、トイレから出てきた時間を考えると間に合わせるためにまだ我慢している、というのも可能性として出てくる。
出てこれたのだから、とりあえずは大丈夫なのだろう、と龍樹を信じることにした。


先程よりは人は少なく、チラホラと席が空いていた。
空いている席に龍樹を座らせ、その前に立った。
電車が発車した。

「今朝の占い龍樹一位だったよね。」
「覚えてない。」
「俺は覚えてる。一位だったよ。ラッキーアイテムはクマのぬいぐるみ、だった気がする。」
「…。遥は?」
「俺は七位。微妙だよねぇ。相手との関係が悪化しそう、って書いてた。相手って誰だろうって思った。」

なんでもない世間話で気が紛れればいいという淡い期待もこめて、話を降った。トイレから出てきた時から、龍樹の手がお腹にある事はわかっている。まだ違和感や、痛みはあるんだろうなぁと想像をつけ、自分がその状態なら、どうして欲しいか考えた結果だけど、これで気が紛れるかどうかはまた別問題だということもわかっている。


しばらく話していたが、だんだん龍樹の口数が減ってきた。
下を向いているから、表情や顔色はわからない。しかし、両腕でお腹を抑えて、足をピタットくっつけて、時々貧乏ゆすりをする足の動きを見ていれば、龍樹が今どうしたいか、なんてすぐにわかる。

「降りる?」
「……でも、じかん…」

座っている龍樹に小さな声で囁くと、予想通りの答えが返ってきた。
予想通りということはそれに対する策を用意しているということで。

「有給、残ってるでしょ。とりあえず半休使って昼から出るっていうのもありじゃない?幸い、うちの会社はそこまでブラックじゃないよ。」
「。。。でも。」
「我慢出来る?会社まで。」
「……」

会社、という部分を強くして言った。別に駅から会社までの道にコンビニなどが無いわけではない。だが、たぶん腹痛のほうに気を取られている今の状態でそこをついてくることはないだろうと踏んでのこの質問だ。少し意地悪だが、仕方がない。

「どうする?」
「。。…おり、たい…」
「ん。いいよ。連絡は俺の方から入れておくから。」 
「ん。っ…」


しばらく電車に揺られていると、駅に着いた。
今度は降りたい理由がはっきりわかっている。龍樹の手を引いてホームにおり、さっと周りを見回すとすぐにトイレのマークを見つけた。

手を引いて、先程と同じように人を避けて進む。
が、数歩歩いたところで、後ろに軽く引っ張られた。引っ張ったのは紛れもなく龍樹で、俺は振り返った。

「どした?」
「ま、、って……は、やい…っ、、」
「ごめん。」

急いだろ方がいいと思っての早歩きは龍樹にとって無理になっていたみたいだ。しばらく立ち止まった後、また歩き始めた。
ゆっくり、龍樹の速さで。

「ぃ、はっ、、ん。。」
「もうちょい頑張れ。」
「ぅん……」

龍樹の表情を見る限り、限界が近く早く歩けるほどの余裕が無い、という感じだ。焦りだけが物凄い勢いで膨らんでいくこの状況は非常にまずいのではないだろうか。現に、龍樹の頬には涙が数滴流れていた。真っ青になっている顔色は本当に辛そうだ。
でも、大分と酷だが頑張ってもらうしかない。俺では龍樹は運べない。

永遠にも感じる距離を歩いて、やっと着いたトイレに俺もほっとした。個室の前まで連れて行って、中に入れる。

俺がいる、っていうことも気にせずに個室に入った。

中から、不規則な足音と共にベルトを外すガチャガチャという音と布が擦れ合う音が聞こえて、直後水っぽいものが叩き合う音が聞こえた。聞かないようにしても聞こえてくるそれに、少し申し訳なさを覚えた。

そっとその場を離れ、トイレの入口まで移動して携帯電話を取り出し、俺と龍樹の全休をとった。案外すんなりと聞き入れて貰えた。まあ、ブラックではないし取れるだろうとは思っていたが。

失礼します、と言って電話を切って、もう一度トイレの個室前まで来た。

「龍樹、ちょっと水買ってくるね。会社には連絡しといたから。」
「、、、うん。ありがと…」

中から、本当に小さい声でそう聞こえた。


トイレ近くの自動販売機で、熱いお茶を買って、トイレに戻った。
お湯があればよかったんだうけど、自動販売機にそれは流石に置いていなかった。

トイレに戻ってもまだ龍樹は出てきていなくて不定期に排泄の音がした。あまり聞かれたくはないだろうと分かってはいるが、心配で。あとから謝ればいいと自己解決してトイレの前で待った。

しばらくして水を流す音が聞こえて、個室の扉が開いた。

「あ、、、はるか……」
「ん?手洗っておいでよ。会社には休みって言ったよ。」
「うん…ありがとう。」

言いながら手洗い場に行って手を洗う。

自分のカバンからハンカチを出して龍樹に渡す。

「お腹、大丈夫?」
「マシ。」
「とりあえず、出よっか。」
「うん。」

手を出すと、すんなりと握ってくれた。普段は恥ずかしがることが多いから、ここまで素直ということは結構きてる証。

手を引いて、さっき乗っていた線路とは反対の線路のホームのベンチで電車を待った。ラッシュが過ぎたホームはとても静かになっていた。

「…」
「…!?」

ほっとした落ち着いた表情の中にまだ不安や恐怖などが残っていた。なんと声をかけたらいいものかもわからなくて、何も言葉にすることは出来なかった。その代わりと言ってはなんだが、握っている手に力を入れて、カバンを自分の膝に置いて、手を空けて頭を撫でた。

「…はるか。」 
「ん?」

泣くのを我慢しているのが分かる。震えた声で名前を呼ばれた。

「誰にも、、、いわないで、」

必死に訴えかける声。今から何を言おうとしているのか全く想像がつかなくて少し怖い。けれど、それ以上に震えている龍樹は怖いんだ。

「うん。」

我慢しきれなかった涙を流しながら、話されたのは、到底信じ難いような話だった。

「社内いじめ?」
「そぅ、、だから、、」
「そっか。」

いい歳した大人が寄ってたかって何やってんだと言いたくなる内容ばかりだが、確実に精神にくるやり方。
おそらくそのせいでここ最近、電車で腹痛を起こすことが続いていたこと。
それを俺に言えなかった理由も。

俺の大事な龍樹を泣かせた会社の数人の顔が自然と頭に浮かぶ。
いい人が多くて、働きやすい会社だと思っていたが、俺の知らないところでそんなことが起きていたなんて。もちろん、いい人もたくさんいる。こんなことをするのは数人だとは思うが。

「きら、、わない、で……」
「ならないよ。今の話のどこに龍樹を嫌いになる要素があるのさ。龍樹に非があるところがあったとしても、向こうはそれの倍以上のことをしてる。」
「……おこら、、ないで。」
「だから。っ…」

話の中に出てきた人達の怒りが外に出てしまっていたのだ。龍樹には全く怒っていないのだが、今の龍樹にそれを判断できるかと言われれば、答えはノーだろう。自分の失態に悔やんで、舌打ちをしそうになるのを堪える。

「ごめんね。怒ってない。」

そっと肩を抱き寄せて、できる最大の甘い声でそう言った。

「頑張ったね。」
「泣くの、我慢しなくていいよ。」

肩を抱く手はそのままに、小さい子にするように頭を撫でた。

「っーー…ぁっ…はっ。。。っっ」

声を殺して泣くのはここが外だという唯一の抵抗だろう。
カバンから二枚目のタオルを出して、龍樹の目を覆う。擦ったら腫れてしまうから。
それとは反対の手でずっと、頭を撫で続けた。

龍樹の手は俺のジャケットを握っていて、後でシワになることは確実だ。それでも、それだけだ。

しばらくして、少し、落ち着いてきた頃。

「もう、、少し。。。このまま、」
「うん。」

龍樹が帰れるくらいに回復するまで、俺は龍樹を抱きしめた。
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