【完結】氷の王と炎の王妃

藤井 紫

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第一章 初めての夜よりも、身体は確かに応えていく

盗み聞き

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 部屋に戻る前、少し頭を冷やそうと、シルヴィアは静まり返った回廊を歩いていた。
 窓から差す月光が、大理石の床を照らしている。
 昼間のざわめきは消え、聞こえるのは自分の足音と遠くの衛兵の槍が鳴らす微かな音だけだ。

 ふと、角を曲がろうとしたとき声がした。
「……あの時の人、あなただったのね」

 その後、かすかに言い争うような声が聞こえた。
 低く押し殺した男の声と、それに応える女性の鋭い調子。

「……違うよ! 全部、ぼくのせいなんだ。……本当に、ごめん」

 若い男の声に、シルヴィアは足を止める。王宮内であまり聞かない、親しげな者に使うような口調。
 壁際に身を寄せ、そっと視線だけを向けると、月明かりに照らされた二人の影が見えた。

「そうやって、すぐに謝るのが平民のやりかたなの?」
 ラシェルだった。
 こちらも普段の口調と違う。さらに声の端に、軽蔑とも苛立ちともつかぬ色が混じる。

 相手は昼間に見た、黒髪の若い騎士だった。
 ヴァロニアで見る二人目の黒髪として、シルヴィアの記憶に鮮明に残っている。

(……ラシェルと、黒髪騎士さん……?)

 その騎士は、何か言い返そうと口を開きかけたが、視線が一瞬だけ揺れ、結局は沈黙した。
 ラシェルはその間も彼から目を逸らさず、冷ややかな横顔を見せている。

 シルヴィアは足音を忍ばせながら、自室の前まで戻った。
 扉を閉めると、静寂が耳に押し寄せる。

 寝台に腰を下ろし、銀細工の留め具を外して髪をほどいた。
 長い金の髪が肩に落ちると同時に、先ほどの光景がまざまざと甦る。

(……平民、って言ってたわ……。しかも、あの口ぶり……まるで昔から知っているようだった)

 ラシェルが普段見せない、挑むような眼差し。
 昼間は誰からも慕われ、柔らかな笑みを絶やさないラシェルが、あの黒髪の騎士には全く別の顔を向けていた。

 寝台に横たわっても、胸の奥のもやは晴れない。

(……殿下の騎士団、副団長の名前を聞けなかった。それに、あの黒髪さん……ラシェルは知らないって言っていたのに、どういう関係かしら……)

 まぶたを閉じても、耳に残るのは二人のやり取りと、青年の黒い髪。
 やがて、外套の裾を翻す黒髪の影が、夢と現の境を漂い続けた。
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