【完結】氷の王と炎の王妃

藤井 紫

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第五章 夜の海を揺蕩う舟のように

誰であろうと許さない

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 迎賓控え室の空気の中、ラシェルは身じろぎ一つせず立っていた。
 銀盆の重みも、茶器の湯気も、もはや意識の外にある。

 視線の先には、柔らかく微笑む王妃と、それに向かって真っすぐな言葉を投げかける少女――リアナ・フォン・グラディス。
 そのやりとりは、まるで旧知の姉妹のようだった。
 けれどラシェルには、そこに馴れ馴れしさ以上の何かを感じ取っていた。

(……何なのかしら、この嫌な感覚。この子、絶対に、ただの侍女じゃない)

 それは、今まで、危険思想の持主の兄に、散々振り回されてきた少女の直感だった。

 リアナの、言葉選び、所作、視線の使い方。
 一つひとつが計算されている。なのに、それを意識させない自然さがある。
 ――それは、ただの教養では磨けない。

 そして、炎派の少女たちの不思議な連帯感。


 ラシェルは心の中で、幼い頃から叩き込まれてきた氷派の掟を反芻した。

『氷は乱さず、冷たく澄んで支えるもの』
 それが、ラシェルが育った氷派王家を支持するラヴァール家の教えだった。

 ラシェルの父も、祖父も、王に忠誠を誓って生きてきた。

 しかし、それに背いたのが鬼才の兄ヴィンセントだ。
 だが、その兄も、背いたなど微塵も思っておらず、自分の思う通りに生きているだけで、決して炎派に傾いたわけではない。


 シルヴィア・フォン・レーヴェンヌ。
 炎派の娘――敵国シーランドの、それも、両国どちらの王家にも、縁も血もない地方の下級貴族の出身者など、決して『王妃に相応しい』と認められるはずがなかった。
 しかし、それは兄の選んだ女性だ。

 初めてその名を聞いた時、ラシェルの胸に浮かんだのは、困惑と同情だった。

 あの悪魔のような兄は、(当時)王太子様と王国まで、何か大きなモノに巻き込もうとしているのではないか。
 危険思想を持つヴィンセントの実妹として敬遠され、自分の人生をめちゃくちゃにされただけでなく、王太子様と、隣国の娘まで犠牲にするのかと、
……そんなふうに、勝手に同情していた。

 この人は、知らぬ間に人生を奪われた哀れな娘なのだと。

 でも実際は違った。
 この人は、自らの足で、王妃としての道を歩んできたのだ。

(……シルヴィア様の傍にいると、心が温かくて、毎日楽しい。今までこんな幸せ感じたことない)

 窓から差し込む光が、シルヴィアの横顔を照らしていた。
 気品をたたえながらも、決して押しつけがましくないその姿。
 リアナに向ける言葉の一つひとつが、相手を打ち負かすためではなく、包み込むために紡がれていることを、ラシェルは知っていた。

 『ほのおと こおりが てをつなぐと みずが うまれました。
  そのあと せかいには ぽんっと はなが さきました』

 あの物語は、ラシェルも知っている。
 炎が氷を溶かし、力によって征服する筋書きだったはずだ。

 だが、王妃は違った。

 あえて力の論理を拒み、対立の物語に共に生きるという解釈を加えた。
 ――それは、ラシェルが知らなかった『未来』の可能性だった。

 ラシェルは、思わず湯気の立つ茶器に視線を落とす。
 カップの中の紅茶が、かすかに揺れていた。
 それは、ラシェル自身の揺れる心のようでもあった。

(私は……もう同情からじゃなくて、この国で、シルヴィア様を、お支えしたいと思っている)

 血ではなく、名家の出ではなく、親友でいてくれる人。
 氷の中で育ったラシェルにとって、それは眩しすぎるほどの炎だった。

 だが、ラシェルは視線を横に動かし、もう一人の少女を見つめた。
 リアナ。
 品位と美貌、そして政治的立場のすべてを備えた、もう一人の王妃候補。

(……ううん、もう炎も氷も関係ないわ。……この方が、王の寵愛を得たなら。もし、陛下の御心がこちらに傾いたなら……)

 その未来を想像した瞬間、ラシェルの胸に、鋭い痛みが走った。
 誰に嫉妬しているのかも分からないまま、奥歯を噛みしめる。

「リアナ。ようこそ、ヴァロニアへ。……ここが、あなたにとっても良き場所となりますように」

 王妃の言葉に、リアナが笑顔で頷いたその瞬間、ラシェルは心の奥で誓っていた。

 ――王妃に仇なす者は、誰であろうと許さない。
 たとえ、それが『正しい手順を踏んだ女』であっても。
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