【完結】氷の王と炎の王妃

藤井 紫

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第五章 夜の海を揺蕩う舟のように

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 昼の陽射しが硝子越しに差し込む、王宮の温室。
 ひとときの静寂に包まれたその空間で、ラシェルは暖かな空気を吸い込み、赤く色づいた蘭の花にそっと触れた。
 王妃の部屋に飾る花を取りに来ていた時だった。

「ここは、あまり人が来ないのですね」

 その声に、ラシェルは小さく振り返った。
 温室の奥から、レオナールがゆったりとした足取りで近づいてくる。
 ラシェルは驚いたように振り返った。まさかレオナールと二人きりで、話しかけられるとは思っていなかった。

「……お一人で、散歩中ですか?」
「うん。少しだけ、外の空気が吸いたくて」

 レオナールは柔らかく笑った。
 親戚だからか、その目元がシルヴィアに少し似ていて、ラシェルは胸の奥がひやりとした。

「あなたは……王妃様と、昔からのご縁があるのですね」

「ああ、そうだよ。ルビ……ああっと、シルヴィアとは、従姉弟なんだ。小さい頃は、一緒に礼儀作法を習わされたよ」

「……退屈で、変な顔をされていた方ですよね?」
「あはは! その話、ルビから聞いたのか。じゃ、君と彼女、仲が良いんだね」

 ルビという名を口にするレオナールの声音が、どこか懐かしさと慈しみに満ちているように感じて、ラシェルはそっと目を伏せた。

「王妃様が、ヴィンセント卿に選ばれた理由……気になったことはある?」

 不意に問われて、ラシェルは少しだけ戸惑いながらも頷いた。
 兄ヴィンセントの策略なのはわかっていたが。

「はい。王妃様はお若いのに、あまりにも大きな責務を背負っていて……」

「そうだね。だけど、ルビが選ばれたのには、ちゃんと理由があるよ」

 レオナールの声は、真面目だった。

「俺の妹のリアナは、若くて健康で美しいし、知識も知性も、そして気品も備えている。だけど王妃候補としては選ばれなかった」

 ――ああ、やっぱりそう言う事だったのね。
 変顔の人の目的は、リアナを王妃候補として、ヴァロニアへ送り込むこと。

「君の兄、ヴィンセント卿は、リアナではなく、あえてルビを選んだ。何故だと思う?」

「……さあ?」
 あの人が考えてることなんて、わかるはずないし、わかりたくもない。
 それを悟られないように、ラシェルはそっけなく答えた。

「ルビには、芯がある。受け身に見えて、押し流されない。何より……黒髪の王を、真っすぐに見ることができる、そういう情報を彼は全て把握していた」

 その通りだ。
 腹立たしいが、ヴィンセントは、いつも選択を間違えないし、負けたことがない。

「兄の俺が言うのも変だけど、」

 ラシェルは一瞬『兄』と言う言葉にドキッとした。

「リアナはまだ若くて、影響されやすい。それに、俺が兄である限り、王妃の座に就いたとしても、真の意味で王と並び立つことは難しいと思う」

 レオナールの言葉には、苦味もあった。
 けれど、嫉妬ではなく、確かな納得があった。

「だからこそ、ヴィンセント卿はルビを選んだ。力のある家の娘ではなく、未来を信じられる女を、ね」

 その言葉は、ラシェルの胸にじんわりと染み込んだ。

 誰かを信じること。
 それを、ためらわずに言葉にできる人。
 ホープの、あのまっすぐな横顔がふと浮かんだ。

(……信じることを恐れずに口にできる人)

 シルヴィアもまた、きっと、そういう人なのだ。
 この国の王の隣に立つにふさわしい、選ばれた人。

 ラシェルはそっと微笑み返した。

「……ありがとうございます、グラディス様」
「レオでいいよ。王妃様をルビと呼ぶように、ね」

 その茶目っ気に、ラシェルは思わず小さく笑ってしまった。
 温室には、もうすぐ春の、やわらかな陽射しが差し込んでいた。
 けれど、その柔らかな光の奥に、ラシェルはふと、名状しがたい胸騒ぎのようなものを覚えた。あの兄妹が、どこか遠いところで、強すぎる運命を背負っているような――そんな予感だった。
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