【完結】氷の王と炎の王妃

藤井 紫

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第六章 でも、もう少しだけ

ミュゲの記憶 ※センシティブ(流産)

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 春から初夏へと季節は移り、王宮には久々の静けさが戻っていた。
 昨年、北東部の戦火に追われていたのが嘘のように、今年のランスには、穏やかな陽射しと柔らかな風が流れている。

 王宮の石畳を縁取る庭木には、白く可憐な花が揺れていた。

 ——ミュゲ。
 小さな鈴をたくさんつけたような、白い小花。
 それは王都ランスでも、『五月の香り』として知られている。


 花の香は風に乗り、ゆるやかに政務室の窓辺へと忍び込んできた。
 羽根ペンを止めていたシルヴィアは、ふと首を傾げて鼻先を動かす。

(……あ……この香り……)

 鼻先をかすめたとたん、身体の奥がぞくりと震えた。
 思い出すよりも先に、心が冷たくなる。


 指先がぴたりと止まり、胸の奥に冷たいものが這い上がってくる。
 周囲に誰もいないのを確認して、そっと椅子を離れる。

 寝室に戻ったシルヴィアは、開いていた窓を閉め、ゆっくりとベッドに腰を下ろした。
 窓越しに見えた、小さな白い花。
 香りは、優しく、清らかで、それゆえに残酷だった。



 ——あの日も、この香りがしていた。



 覗き込む宮廷医師や、泣いているラシェルの顔。
 部屋中に充満する薬草の独特の香り。
 抱きしめることさえできなかった、名もなき命のこと。



(……やめて、思い出したくない……)



 あの時の感覚が、脚の奥からよみがえる。
 足元を伝う、生ぬるい感覚。指先の冷え。抜けていく力。

 目の前が真っ白になり、息ができなくなった――

 ……そう、あの時は。





 今のわたしは、大丈夫。そう思っていたのに。

 誰かの前では、もう平気なふりをしていた。
 けれど、たったひとりになった瞬間にだけ、
 その平気は、まるで砂の城のように崩れてしまう。

 涙がこぼれても、シルヴィアは嗚咽すら漏らさなかった。
 ただ、静かに頬を濡らしながら、天井を見つめる。


 ——また、駄目だったのだろうか。
 ——何かが、足りないのだろうか。


 そんなこと、きっと誰も責めていないとわかっていても。
 自分の身体に対する、どこか抑えきれない苛立ち。
 責任感と喪失の境界線で、心がじっと痛む。



「……大丈夫……平気よ……。平気だから……」



 誰に聞かせるでもなく、そう呟いて目を閉じる。
 けれど、閉じた瞼の裏には、小さな命の記憶と、まだ癒えぬ傷だけが残っていた。
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