【完結】氷の王と炎の王妃

藤井 紫

文字の大きさ
104 / 182
第六章 でも、もう少しだけ

聖十字のペンダント

しおりを挟む
 六月の宵。その日は、ラシェルの誕生日だった。
 王宮の一室には、揺れる蝋燭の灯が薄絹のカーテン越しに映り、床にゆらゆらと柔らかな影を落としていた。窓の外では、虫の声がかすかに聞こえ、夜の帳が静かに降りていた。

 開け放たれた窓からは、夜風がひんやりと吹き込み、夏の匂いをほんのりと運んでくる。
 夜空にはまだ西の空に薄明かりが残り、鳥の声も遠ざかりつつあった。

 窓辺の長椅子には、シルヴィアが肩に薄手のショールをかけて腰掛けている。
 向かいの肘掛け椅子では、リアナが真面目な顔で薬草帳を開き、横には蒸気の立つハーブティーと、香を焚いた素焼きの香炉が静かに香っていた。

「……ほんの少し、周期が乱れたんだけど。五月から……急に。気候のせいかしら」
 シルヴィアの声は、昼間よりも静かで柔らかく、そしてほんの少しだけ心細げだった。

 リアナは顔を上げ、温かい眼差しで微笑む。
「王妃様、二十歳を過ぎたばかりの女性なら、そういうことはよくあるものです。お身体は、季節にも……心にも、正直ですわ」

「でも……やっぱり心配で」
 シルヴィアは、膝の上で指を絡めながら、ふっと視線を落とした。


「……わたし、本当に、子どもが欲しいの……」


 リアナは、息を呑んだ。
 それは、これまでのどんな発言よりも、正直で切実な響きを持っていた。
 少し驚いたようにまばたきをしてから、リアナは静かに薬草帳を閉じる。
 それは義務や王命のためではなく――この人は、心から『命』を望んでいるのだ。

「……でしたら、わたくしに出来る事は、全てお手伝いします。王妃様に似合う、賢くて美しいお子を授かれるように」

「ありがとう、リアナ……本当に、頼りにしているわ」
 シルヴィアはゆっくりと微笑んだ。



 その時、控えの間から控えめなノック音が響き、扉が静かに開かれた。

「お邪魔します、シルヴィア様、リアナ様」
 ラシェルが笑顔で入ってくる。
 手には花模様の包みを抱え、髪には街で買ったばかりの薄緑のリボンが夜風に揺れていた。

「ラシェル、もう戻ったの? 誕生日なのに、ごめんなさいね、お忍びの任を頼んでしまって」
「とんでもないです! すごく素敵な一日でした」

 ラシェルは、そっと包みを机に置き、中から色とりどりの小さな砂糖菓子を取り出した。
「これは王妃様に。そしてこちらはリアナ様に。広場で買ったんです。お二人の好みに合うかなと思って……」

 リアナは、包みを一瞥すると眉をひそめた。
「砂糖は身体を冷やします。特にご懐妊を望む王妃様のようなご体調には……」
 と言いながら、ラシェルを睨む。が。
「……と、本当なら、言いたいところではございますが。ラシェル様、ありがとうございます。たまには甘いものも必要だと思います。これは、ランスで今流行りのお菓子ですね! 見た目も可愛らしいし、きっと王妃様の心の栄養になりますわ」

 ラシェルは微笑みながら、お茶の器を並べ始めた。
「今日はわたしの誕生日なので、ちょっとだけ、特別な時間をいただいてもいいですか?」

 リアナは一瞬戸惑ったが、ふっと口元を緩めた。
「そうですね。今日だけ、王妃様にも、少しの夜更かしと罪の味を許しましょうか」

 シルヴィアもくすくすと笑い、小さな砂糖菓子を指先でつまんだ。
 それは白い花の形をしており、口に入れるとほんのりと柑橘の香りが広がった。

「それで、ホープ様とのお忍び(デート)はどうだったのですか?」
 リアナがいたずらっぽく尋ねてくる。

 ラシェルは一瞬、言葉に詰まった。
 シルヴィアの計らいで用意された誕生日デート。
 ホープと過ごした、夢のような数時間。
 ……でも、その胸の高鳴りは、自分だけの宝物のように感じていた。

「……とても、楽しかったです」

 視線を落としながら、紅茶の縁にそっと唇を寄せる。

「お菓子を買ったり、教会の裏の庭に寄ったり……。あの、あまり特別なことは何もしていませんが……」

「でも、顔がちょっと赤いですけど? 本当に何もなかったのですか?」
 リアナは意地悪というより、素直な興味でじっと見つめてくる。

 ラシェルは肩をすくめて、小さな声で答えた。

「……あの、誕生日プレゼントに、ネックレスを……いただきました」
「まぁ! ホープ様から!? どんなの?」

 胸元の聖十字のペンダントが、小さく光を反射する。
 リアナの視線がラシェルの首にかけられたネックレスに向かう。

「素敵! クライス信仰の証ですわね。これは……どこかで買っていただいたのですか?」
「それが、ホープ様は昔から二つ持っていたみたいで、そのうちの一つくださったんです」

「それは、ずいぶん特別な贈り物ね」
 シルヴィアが言うと、ラシェルは静かに頷いた。
「私も、大切にしたいと思っています。今日という日も、頂いた言葉も、全部」
 胸元で、小さな十字のペンダントが、蝋燭の光を柔らかく反射していた。

 三人の間には、夜の静けさとともに、柔らかな時間が流れていた。
 窓の外では、夏の星が瞬きていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

遺産は一円も渡さない 〜強欲な夫と義実家に捨てられた私、真の相続人と手を組み全てを奪い返す~ (全10話)

スカッと文庫
恋愛
「お前の価値なんて、その遺産くらいしかないんだよ」 唯一の肉親だった祖父を亡くした夜、夫の健一と義母から放たれたのは、あまりにも無慈悲な言葉だった。 四十九日も待たず、祖父が遺した1億2000万円の遺産をアテに贅沢三昧を目論む夫。だが、彼には隠し通している「裏切り」があった――。 絶望の淵に立たされた由美の前に現れたのは、亡き祖父が差し向けた若き凄腕弁護士・蓮。 「おじい様は、すべてお見通しでしたよ」 明かされる衝撃の遺言内容。そして、強欲な夫たちを地獄へ叩き落とすための「相続条件」とは? 虐げられてきた妻による、一発逆転の遺産争奪&復讐劇がいま幕を開ける!

「貧相な小娘」と罵った第一王子へ。番(つがい)は貴方ではなく、国王陛下(お父様)でした

しえろ あい
恋愛
「お父様、わたくし、あの方と目が合った瞬間、分かってしまったのです」 十六歳のデビュタントの夜、ルーセント侯爵令嬢フェリシアを待っていたのは、残酷な罵倒だった。第一王子カシウスは、可憐な白いドレスを纏った彼女を「貧相な小娘」と呼び、己の番(つがい)であることを真っ向から否定する。 会場に響く冷笑と、愛用の刺繍に込めた自信さえ打ち砕くような屈辱。しかし、絶望の淵に立たされた彼女を見つめていたのは、王子ではなく、圧倒的な威厳を放つ「ある男」だった。 魂を焦がすような熱い視線が重なり、静まり返る謁見の間。この出会いが、王室を揺るがす大事件の幕開けになるとは、まだ誰も知らない。自身の価値を否定された少女が、真実の愛によって世界で最も幸福な王妃へと駆け上がる、逆転溺愛ストーリー。 ※小説家になろう様にも投稿しています※

【R18】熱い夜の相手は王太子!? ~婚約者だと告げられましたが、記憶がございません~

世界のボボブラ汁(エロル)
恋愛
激しい夜を過ごしたあと、私は気づいてしまった。 ──え……この方、誰? 相手は王太子で、しかも私の婚約者だという。 けれど私は、自分の名前すら思い出せない。 訳も分からず散った純潔、家族や自分の姿への違和感──混乱する私に追い打ちをかけるように、親友(?)が告げた。 「あなた、わたくしのお兄様と恋人同士だったのよ」 ……え、私、恋人がいたのに王太子とベッドを共に!? しかも王太子も恋人も、社交界を騒がすモテ男子。 もしかして、そのせいで私は命を狙われている? 公爵令嬢ベアトリス(?)が記憶を取り戻した先に待つのは── 愛か、陰謀か、それとも破滅か。 全米がハラハラする宮廷恋愛ストーリー……になっていてほしいですね! ※本作品はR18表現があります、ご注意ください。

【完結】追放された生活錬金術師は好きなようにブランド運営します!

加藤伊織
ファンタジー
(全151話予定)世界からは魔法が消えていっており、錬金術師も賢者の石や金を作ることは不可能になっている。そんな中で、生活に必要な細々とした物を作る生活錬金術は「小さな錬金術」と呼ばれていた。 カモミールは師であるロクサーヌから勧められて「小さな錬金術」の道を歩み、ロクサーヌと共に化粧品のブランドを立ち上げて成功していた。しかし、ロクサーヌの突然の死により、その息子で兄弟子であるガストンから住み込んで働いていた家を追い出される。 落ち込みはしたが幼馴染みのヴァージルや友人のタマラに励まされ、独立して工房を持つことにしたカモミールだったが、師と共に運営してきたブランドは名義がガストンに引き継がれており、全て一から出直しという状況に。 そんな中、格安で見つけた恐ろしく古い工房を買い取ることができ、カモミールはその工房で新たなスタートを切ることにした。 器具付き・格安・ただし狭くてボロい……そんな訳あり物件だったが、更におまけが付いていた。据えられた錬金釜が1000年の時を経て精霊となり、人の姿を取ってカモミールの前に現れたのだ。 失われた栄光の過去を懐かしみ、賢者の石やホムンクルスの作成に挑ませようとする錬金釜の精霊・テオ。それに対して全く興味が無い日常指向のカモミール。 過保護な幼馴染みも隣に引っ越してきて、予想外に騒がしい日常が彼女を待っていた。 これは、ポーションも作れないし冒険もしない、ささやかな錬金術師の物語である。 彼女は化粧品や石けんを作り、「ささやかな小市民」でいたつもりなのだが、品質の良い化粧品を作る彼女を周囲が放っておく訳はなく――。 毎日15:10に1話ずつ更新です。 この作品は小説家になろう様・カクヨム様・ノベルアッププラス様にも掲載しています。

【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております

紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。 二年後にはリリスと交代しなければならない。 そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。 普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

処理中です...