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第七章 闇の中に溶ける
心の鍵
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年が明けて四日目の午後、シルヴィアはレオナールに案内され、市場近くのグラディス家の別宅に入った。
古い煉瓦造りの邸宅は、周囲の喧噪から切り離されたように静かだ。
敷地の奥にある小さな応接間に、外来の客を招き入れる。
大晦日に出会った、魔女だった。
真っ直ぐな黒髪に、翠の瞳。
西方の血を思わせる濃い目鼻立ちの娘で、年の頃は十九か二十ほどだろうか。
深紅のストールを纏い、グラディス家の古い調度と相まって、その姿はどこか異国の工芸品のようにも見えた。
魔女の瞳には、暖かさも冷たさもない。
ただ、全てを知っているような静けさだけが、そこにある。
――名乗ってもいないのに。まだ何も言っていないのに。
レオナールが退室し、静かに扉が閉じられると、魔女は一つ息をついた。
「……あなたから、あの香りがするわ。『夜薔薇の滴』――あれは以前、グラディス夫人にお渡ししたもの」
その名を聞いて、シルヴィアの指先がかすかに震えた。
花の蜜のような、甘い薔薇の香り。
自分の奥に眠る何かを揺さぶった、あの夜。
「それで? わたくしに話って?」
魔女が軽く首を傾げ、シルヴィアを真っ直ぐに見た。
その瞳には警戒というより、好奇心の光が宿っている。
「『夜薔薇の滴』の効果は、どうだった?」
その問いに、シルヴィアはわずかに瞼を伏せ、微笑にもならぬ表情で答えた。
「……効きました。身体が、あの夜だけ……熱を取り戻したように」
「ふふっ。あれは、身体だけでなく、心を解く薬よ」
魔女の声は、どこか慈しむようであり、同時に試すようでもあった。
「……でも、わたし、子を授かれませんでした」
その言葉は、暖炉の火のように小さく揺れて消えそうな声だった。
魔女はゆっくりとシルヴィアの前に歩み寄り、正面に座った。
「授かれなかったのではないわ」
シルヴィアは驚いて魔女を見た。魔女はその瞳をまっすぐに受け止め、静かに言葉を重ねた。
「あなたが、頑なに拒んでいる。記憶が、心の扉を閉ざしている」
「……心の扉?」
「そう。あなた、怯えているのね。……『命の種』が『月の泉』に届いても、心が揺りかごにならなければ、花は咲かない」
シルヴィアは胸の奥を突かれるような思いで俯いた。流産の日のこと、誰にも語れなかった痛みが、胸の奥からじわりと上がってくる。
「……じゃあ、どうすれば」
「……代価なしで話せるのは、ここまで」
魔女は手を組み、微笑にも似た表情を浮かべた。
「魔女に言葉を求めるなら、必ず代価が必要。それが、この国の古くからのやり方……なんでしょう? お嬢さん?」
「ええ、そうですね。では、代価は何を差し上げれば……?」
「例えば。『あの日の記憶』を、わたくしに預けること」
「記憶を……?」
「ええ。あなたの心の奥にある、その『最初の子の記憶』。それをわたくしに差し出し、……記憶から消してしまえば、あなたの心は再び空白となり、新しい命を受け入れられる」
シルヴィアは小さく息を呑んだ。
「……そんな事、本当に出来るのですか?」
「出来るとしたら? とても良い取引でしょう?」
部屋に静寂が落ちた。薪のはぜる音だけが、二人の間を埋めている。
シルヴィアはゆっくりと首を振った。
「……少し、考えさせて、下さい」
「ええ、もちろんよ。みんな、そう言うわ。不思議ね」
魔女はすぐに微笑み、立ち上がった。薬草の匂いがふわりと広がる。
「わたくしは、いつまでも待てるけれど。あなたはそうではないみたいだから。返事は次の月曜日に。この街の北にある、静寂の館に来てちょうだい」
「……わかりました」
シルヴィアは立ち上がり、深く頭を下げた。
その胸の奥では、流産の日の痛みと、今聞いた提案が重く絡み合っていた。
* * * * *
グラディス低に戻った夜、シルヴィアは伯爵夫人にだけ、今日の出来事を話した。
「ベナ様と無事に会えたのね」
「ベナ様……と言うのですか?」
「ええ、魔女様はご自分から名乗りませんから、おそらく貴族の方に与えられた名なのでしょう。あの方、異国出身の魔女様のようだから、まだこの国には不慣れなの。でも、とても頼もしい方よ。もともと高貴な方なのだと思うわ」
そして、魔女から今のシルヴィアの心が子を拒んでいると告げられたこと。
――流産の記憶を手放せば、再び授かれるかもしれない、と。
「……わたし、すぐに答えが出せなくて……」
「シルヴィア様。悲しみが消えて、新しい命を授かれるなら、それは、とても喜ばしいことよ! 魔女様とは思えないような、好取引ですわ。さすがベナ様! 是非応じるべきよ」
グラディス夫人は、シルヴィアの悩みも、迷いも、言葉にはしなかった。
ただ静かに、シルヴィアの手を取った。
「シルヴィア様。自分の意志で、選びなさい」
その声に背を押され、シルヴィアは小さく頷いた。
古い煉瓦造りの邸宅は、周囲の喧噪から切り離されたように静かだ。
敷地の奥にある小さな応接間に、外来の客を招き入れる。
大晦日に出会った、魔女だった。
真っ直ぐな黒髪に、翠の瞳。
西方の血を思わせる濃い目鼻立ちの娘で、年の頃は十九か二十ほどだろうか。
深紅のストールを纏い、グラディス家の古い調度と相まって、その姿はどこか異国の工芸品のようにも見えた。
魔女の瞳には、暖かさも冷たさもない。
ただ、全てを知っているような静けさだけが、そこにある。
――名乗ってもいないのに。まだ何も言っていないのに。
レオナールが退室し、静かに扉が閉じられると、魔女は一つ息をついた。
「……あなたから、あの香りがするわ。『夜薔薇の滴』――あれは以前、グラディス夫人にお渡ししたもの」
その名を聞いて、シルヴィアの指先がかすかに震えた。
花の蜜のような、甘い薔薇の香り。
自分の奥に眠る何かを揺さぶった、あの夜。
「それで? わたくしに話って?」
魔女が軽く首を傾げ、シルヴィアを真っ直ぐに見た。
その瞳には警戒というより、好奇心の光が宿っている。
「『夜薔薇の滴』の効果は、どうだった?」
その問いに、シルヴィアはわずかに瞼を伏せ、微笑にもならぬ表情で答えた。
「……効きました。身体が、あの夜だけ……熱を取り戻したように」
「ふふっ。あれは、身体だけでなく、心を解く薬よ」
魔女の声は、どこか慈しむようであり、同時に試すようでもあった。
「……でも、わたし、子を授かれませんでした」
その言葉は、暖炉の火のように小さく揺れて消えそうな声だった。
魔女はゆっくりとシルヴィアの前に歩み寄り、正面に座った。
「授かれなかったのではないわ」
シルヴィアは驚いて魔女を見た。魔女はその瞳をまっすぐに受け止め、静かに言葉を重ねた。
「あなたが、頑なに拒んでいる。記憶が、心の扉を閉ざしている」
「……心の扉?」
「そう。あなた、怯えているのね。……『命の種』が『月の泉』に届いても、心が揺りかごにならなければ、花は咲かない」
シルヴィアは胸の奥を突かれるような思いで俯いた。流産の日のこと、誰にも語れなかった痛みが、胸の奥からじわりと上がってくる。
「……じゃあ、どうすれば」
「……代価なしで話せるのは、ここまで」
魔女は手を組み、微笑にも似た表情を浮かべた。
「魔女に言葉を求めるなら、必ず代価が必要。それが、この国の古くからのやり方……なんでしょう? お嬢さん?」
「ええ、そうですね。では、代価は何を差し上げれば……?」
「例えば。『あの日の記憶』を、わたくしに預けること」
「記憶を……?」
「ええ。あなたの心の奥にある、その『最初の子の記憶』。それをわたくしに差し出し、……記憶から消してしまえば、あなたの心は再び空白となり、新しい命を受け入れられる」
シルヴィアは小さく息を呑んだ。
「……そんな事、本当に出来るのですか?」
「出来るとしたら? とても良い取引でしょう?」
部屋に静寂が落ちた。薪のはぜる音だけが、二人の間を埋めている。
シルヴィアはゆっくりと首を振った。
「……少し、考えさせて、下さい」
「ええ、もちろんよ。みんな、そう言うわ。不思議ね」
魔女はすぐに微笑み、立ち上がった。薬草の匂いがふわりと広がる。
「わたくしは、いつまでも待てるけれど。あなたはそうではないみたいだから。返事は次の月曜日に。この街の北にある、静寂の館に来てちょうだい」
「……わかりました」
シルヴィアは立ち上がり、深く頭を下げた。
その胸の奥では、流産の日の痛みと、今聞いた提案が重く絡み合っていた。
* * * * *
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「ベナ様と無事に会えたのね」
「ベナ様……と言うのですか?」
「ええ、魔女様はご自分から名乗りませんから、おそらく貴族の方に与えられた名なのでしょう。あの方、異国出身の魔女様のようだから、まだこの国には不慣れなの。でも、とても頼もしい方よ。もともと高貴な方なのだと思うわ」
そして、魔女から今のシルヴィアの心が子を拒んでいると告げられたこと。
――流産の記憶を手放せば、再び授かれるかもしれない、と。
「……わたし、すぐに答えが出せなくて……」
「シルヴィア様。悲しみが消えて、新しい命を授かれるなら、それは、とても喜ばしいことよ! 魔女様とは思えないような、好取引ですわ。さすがベナ様! 是非応じるべきよ」
グラディス夫人は、シルヴィアの悩みも、迷いも、言葉にはしなかった。
ただ静かに、シルヴィアの手を取った。
「シルヴィア様。自分の意志で、選びなさい」
その声に背を押され、シルヴィアは小さく頷いた。
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