【完結】氷の王と炎の王妃

藤井 紫

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後日譚 王の側近と王妃の侍女

あなたは、私の誇り

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 新しい年を迎え、ルークは十カ月になった。

 その朝、アレー村には氷雨が降っていた。

 薄灰色の雲の下、家の軒からはぽたぽたと雨粒が落ちる。
 石畳の土間には、近所の女たちがパンを受け取りに来た足跡が濡れて残っていた。

 炉辺では、ルークが毛布を掛けられて、ぬくぬくと眠っている。
 ラシェルは、静かにその寝顔を見守ってから、テーブルの前に腰を下ろした。

 目の前には、既に開封された封書。そこには、二番目の兄『クレマン・フォン・ラヴァール』の筆跡があった。
 その文面を何度読み返したかわからない。
 けれど、読むたびに、指先が微かに震えた。
 ラシェルはゆっくりと手紙を畳み、深く息を吐いた。

 未婚のまま出産し、ラヴァール家の名を教会の帳簿に記したこと。それが、次兄の知るところとなったのだ。

(……クレマン兄様……。昔は、唯一、私の味方だったのに……やっぱり……)

 父母は既に引退している。だが、次男クレマンは当主だ。
 その当主であるクレマンの許可なく『フォン・ラヴァール』を名乗ることは、本来あってはならないことだ。


『――状況によっては、王家あるいは該当する教会機関に正式な照会を行う所存である。』


 それが、兄の書簡に記されていた最後の一文だった。

(ラヴァール家の『秩序』は、私の息子ルークの存在より重いというの?)

 氷派の家の名が、今まさにルークの存在を否定しようとしている。

 その時、背後で扉がきいと軋む音がした。

「ラシェル、ただいま。この雨だから、今日の作業は中止に……、どうしたの?」

 ホープが、外套に雨のしずくをつけたまま入ってくる。

 ラシェルは一度、手紙を見つめた後、静かに立ち上がり、ホープの方へと向き直った。
 そして、真っ直ぐな目で告げる。

「……ホープ。私、やっぱり、王都に、陛下に会いに行くわ。……一人で」

 ホープの眉が僅かに寄った。

「え……? でも、ギリアン陛下に話すんなら、ぼくが行くよ。これはぼくたち二人の問題だ」

 ラシェルは首を横に振り、言葉を重ねた。

「いいえ。これはラヴァール家の問題なの。それに、あなたは、私の誇り。だから、あなたを弁護する証人としてじゃなくて、私自身の言葉で伝えたいの」

 ホープは、咄嗟に何も言えなかった。
 ラシェルの蒼い瞳に、ラシェルの決意が映っていた。

 ラシェルは、炉のそばで眠るルークにそっと近づき、そっと額を撫でる。

「あなたとルークを守る為に、私はラヴァールの娘として、王の前に立つわ」

 ホープは数歩近づき、その肩に手を添える。

「……これは、ぼくじゃ駄目なんだな。ラヴァールの名を背負ってるのは、君だから」

 ラシェルは静かに頷いた。
 そして、炉辺で眠るルークを愛おしげに見つめた。

 氷雨は、いつの間にか霧雨に変わっていた。
 冬の空気は冷たいが、ラシェルの胸の内にはもう、迷いはなかった。

「……明日の朝、出発するわ」

 その言葉に、ホープは深く頷く。

「わかった。ルークのことは心配しなくていいよ。しっかり見てるから」

 ラシェルは柔らかく微笑んだ。
 頼れる伴侶と、大切な我が子がこの家にいる。
 それが、ラシェルにとっての何よりの支えだった。

 その夜、ラシェルは必要な手紙や身支度を整えながら、久しぶりに『ラヴァールの娘』という名に向き合った。
 あの日、あの家を出た自分が、再び家に向かう意味を、心の底から噛みしめながら。



*   *   *   *   *



 霜の降りた朝、アレー村はすっかり冬の装いだった。
 細い木の枝には白く霜が下り、昨日の雨で轍には薄氷がはっている。

 ホープは、家の前でラシェルを見送った。
 ルークを抱いたその腕には、信じて待つ者の優しさが宿っていた。

「君の帰りを、ルークと一緒に待ってるよ」

 その言葉が、ラシェルの胸に沁みた。
 振り向いて、ルークが不器用に小さな手を振る姿を目に焼き付ける。

 村の中央の小さな広場に行くと、一台の軽装馬車が待っていた。
 荷運び用の粗末な造りながら、中には湯たんぽと毛布が用意され、乗客は一人だけだった。

 ラシェルはフードの付いた厚手の外套を羽織り、襟元を毛布で覆いながら、静かに馬車に乗り込んだ。
 目の下には、眠れなかった昨夜の痕がうっすらと残っている。

 けれど、今回は、一人で行かなければならない。
 王のもとへ、ラヴァール家の問題を自分の言葉で伝えるために。



 馬車は、村の道を静かに出ていく。
 霧に包まれた小道の先には、冬枯れの草と裸木の森。今朝は鳥の声も遠く、朝の静寂が世界を包み込んでいた。

 王都まではこの馬車なら五日ほどかかりそうだ。
 夜の宿は、かつて王妃と廻った修道院を頼れればと思っていた。
 それでも、正式な使者を通さず、突然王の前へ向かうのは、並々ならぬ事だと理解している。

 子どもを、ホープを、守るためには、行くしかなかった。

(……ギリアン陛下は、私の言葉を信じてくれるかしら)

 思い返されるのは、王宮で過ごした日々。
 控え室での何気ない会話。
 晩餐の夜、王妃の傍らで見た王の横顔。

 その冷静な眼差しは、どこか優しげで、それでいて決して心の内を見せない。
 王の本心が何処にあるのか、ラシェルには最後まで掴めなかった。
 長く王の傍に居たホープなら、わかったのかもしれない。

 けれど――


『……本当に困った時は、必ず相談してほしい』


 まだ王太子だった頃、ギリアンにそう言われた覚えがある。
 あれが『幼馴染ヴィンセントの妹』への建前の気遣いだったとしても、今はその言葉に、縋るしかない。

 子を――ルークを守るために。



 四日目に、馬車は石畳の街道に差しかかった。
 その振動が、予定より早く王都が近づいていることを、ラシェルの身体に伝えていた。
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