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第14話 二つの納品
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週末に水無月希に「25時の交差点」の傘と額装した絵を納品した早瀬湊は、月曜日から、イラストレーター「H.M.」として、本格的に活動を始めた。
まず、彼は希のポスターデザインを完成させ、データを納品した。彼の「不安定な熱量」と「安定した論理」が融合したデザインは、希から「完璧」という言葉と共に受け取られた。
「H.M.さん、これで私の25歳からのライブは、最高のスタートを切れます!」
希の喜びの声は、湊の疲労を一瞬で吹き飛ばした。この「報酬」は、彼がシステムエンジニアとして受け取る給与とは全く質の違う、感性の肯定だった。
続いて、彼は志村から請け負ったフリーペーパーの挿絵の報酬を使って、自身のウェブポートフォリオを作成し始めた。彼は、自分の描いた絵を、誰かの指示を待つのではなく、自ら「商品」として世界に提示する段階に入ったのだ。
そのポートフォリオには、交差点の絵を始め、日常の中で見つけた「不安定な美しさ」をテーマにしたデッサンを多数掲載した。そして、彼のプロフィールには、「システムエンジニアの視点を持つイラストレーター」**という、二つの世界を繋ぐ、新しい肩書きを掲げた。
しかし、彼のこの「二つの世界」の生活に、早くも影が差し始めた。
週の半ば、湊が担当する重要システムの一部で、小さな異変が検出された。システムの稼働自体に影響はないが、特定の条件下で、データ処理にわずかな遅延が発生するというのだ。
リーダーの関口は、すぐに湊を呼び出した。
「早瀬。君が設計したデータ管理ロジックの一部で、処理遅延が発生している。原因を特定しろ」
「はい」
湊は、すぐにバグの原因を探るために、何万行にも及ぶコードの海に潜った。彼が設計したロジックは、理論上は完璧なはずだ。しかし、彼は、自分のイラスト制作で培った「無駄を削ぎ落とす」視点で、改めてコードを見直した。
そして、見つけた。
遅延の原因は、彼が過去に「安定性」を重視するあまり、過剰に安全策を組み込んだ、一つの冗長なコードブロックだった。論理的には正しく機能するが、システムの効率をわずかに低下させている、「安定という名の贅肉」。
「関口さん。原因は特定しました。過去に俺が組み込んだ、過剰なエラーチェックルーチンです」
「過剰なエラーチェック? 安全性を高めるためだろう」
「はい。ですが、それが結果的に、システムの『美しさ』を損ねていました。このロジックを削ぎ落とせば、処理速度は大幅に改善します。リスクはゼロではありませんが、論理的には問題ありません」
関口は、湊の提案を聞いて、顔を曇らせた。
「リスクはゼロではない、だと? 早瀬、君は今、安定よりも効率を優先しろと言っているのか?」
「俺は、『完璧な論理による究極の安定』を提案しています。無駄な要素を排除し、シンプルな構造で、最高の性能を引き出す。これは、俺がイラストで学んだ『本当に必要な線だけを残す』という美学に基づいています」
関口は、湊の表情の、迷いのない自信を見て、反論できなかった。結局、関口はリスクを承知で、湊の修正案を採用することを許可した。
湊は、すぐにコードを修正し、システムは劇的に改善された。
彼の「不安定な趣味」が、本業の安定性を、さらに高める結果となったのだ。しかし、関口の中には、湊の「安定への過信」に対する、拭い去れない疑念が残った。
その夜、湊は、25時を過ぎた交差点へ向かった。彼には、この成功を希に報告したいという、強い衝動があった。
コンビニのフェンスには、希が待っていた。彼女の足元には、黒いギターケース。そして、彼のデザインしたポスターが、手に抱えられていた。
「H.M.さん。ポスター、本当に素敵です! 今すぐライブハウスに貼りに行きたいくらい」
「水無月さん。喜んでもらえてよかったです。そして、俺からも報告があります」
湊は、システムのエラーと、それを自分の「イラストの美学」で修正した経緯を、希に話した。
「論理的には正しかったはずのコードに、『無駄な贅肉』が潜んでいたんです。俺は、ずっと安定に囚われて、無駄な要素を排除できなかった」
希は、湊の顔をじっと見つめた。
「ねえ、早瀬さん。それは、コードだけじゃない。あなたの人生の設計図も、そうだったんじゃない?」
「……ええ」
「安定したレールの上を歩くために、本当は不要な『保険』をたくさんかけていた。その一つが、あの『過剰なエラーチェック』だった」
希は、ポスターを指差した。
「でも、あなたの絵は、無駄な線がない。本当に描きたいものだけが、力強く描かれている。だから、あなたのコードも、それに引っ張られたんだよ」
湊は、希の洞察力に、再び驚かされた。彼女の言葉は、彼の仕事と人生の「本質的なバグ」を、的確に指摘していた。
二人は、「不安定な夢の交換会」の二つ目の議題に移った。それは、「25歳になってから、自分の不安定な挑戦を、誰かに話したか」というものだ。
「私は、あなたに話しました」希が言った。「でも、早瀬さんは?」
「俺は……関口リーダーには話しました。イラストの仕事を始めたと。ですが、彼は俺の挑戦を**『不安定なリスク』**だとしか見ていません」
「では、ご両親には?」
湊は、沈黙した。彼の両親は、公務員と教師という、安定の象徴のような職に就いていた。彼がシステムエンジニアという安定職を選んだときも、心から喜んでくれた。
「話していません。話したら、きっと『バカなことはやめろ』と言われるでしょう。彼らが求めているのは、俺の『安定した未来の設計図』だけです」
希は、優しく言った。
「誰もが、あなたのように、安定という厚い壁を破る勇気を持っているわけじゃない。でも、いつか話すべきだよ。だって、あなたの新しい挑戦は、誰にも誇れることだから」
湊は、希の言葉に、「安定した本音」の重要性を感じた。
「話します。俺も、自分の人生の設計図を、誰にも遠慮せずに提示すべきだ」
そのとき、彼のスマホが鳴った。着信は、関口からだ。こんな深夜に、関口から電話があるのは珍しい。
湊が電話に出ると、関口の焦った声が飛び込んできた。
「早瀬! 今すぐ会社に来い! お前の修正したロジックで、システムに致命的なバグが発生した!」
「えっ!?」
湊は、顔面蒼白になった。彼の「究極の安定」を追求したはずのロジックが、最大の不安定要素になってしまった。
交差点の街灯の下。希は、不安げな表情で湊を見つめていた。
湊は、電話を切り、希に言った。
「水無月さん。俺の『安定した不安定』のルールが、早くも破られたようです」
まず、彼は希のポスターデザインを完成させ、データを納品した。彼の「不安定な熱量」と「安定した論理」が融合したデザインは、希から「完璧」という言葉と共に受け取られた。
「H.M.さん、これで私の25歳からのライブは、最高のスタートを切れます!」
希の喜びの声は、湊の疲労を一瞬で吹き飛ばした。この「報酬」は、彼がシステムエンジニアとして受け取る給与とは全く質の違う、感性の肯定だった。
続いて、彼は志村から請け負ったフリーペーパーの挿絵の報酬を使って、自身のウェブポートフォリオを作成し始めた。彼は、自分の描いた絵を、誰かの指示を待つのではなく、自ら「商品」として世界に提示する段階に入ったのだ。
そのポートフォリオには、交差点の絵を始め、日常の中で見つけた「不安定な美しさ」をテーマにしたデッサンを多数掲載した。そして、彼のプロフィールには、「システムエンジニアの視点を持つイラストレーター」**という、二つの世界を繋ぐ、新しい肩書きを掲げた。
しかし、彼のこの「二つの世界」の生活に、早くも影が差し始めた。
週の半ば、湊が担当する重要システムの一部で、小さな異変が検出された。システムの稼働自体に影響はないが、特定の条件下で、データ処理にわずかな遅延が発生するというのだ。
リーダーの関口は、すぐに湊を呼び出した。
「早瀬。君が設計したデータ管理ロジックの一部で、処理遅延が発生している。原因を特定しろ」
「はい」
湊は、すぐにバグの原因を探るために、何万行にも及ぶコードの海に潜った。彼が設計したロジックは、理論上は完璧なはずだ。しかし、彼は、自分のイラスト制作で培った「無駄を削ぎ落とす」視点で、改めてコードを見直した。
そして、見つけた。
遅延の原因は、彼が過去に「安定性」を重視するあまり、過剰に安全策を組み込んだ、一つの冗長なコードブロックだった。論理的には正しく機能するが、システムの効率をわずかに低下させている、「安定という名の贅肉」。
「関口さん。原因は特定しました。過去に俺が組み込んだ、過剰なエラーチェックルーチンです」
「過剰なエラーチェック? 安全性を高めるためだろう」
「はい。ですが、それが結果的に、システムの『美しさ』を損ねていました。このロジックを削ぎ落とせば、処理速度は大幅に改善します。リスクはゼロではありませんが、論理的には問題ありません」
関口は、湊の提案を聞いて、顔を曇らせた。
「リスクはゼロではない、だと? 早瀬、君は今、安定よりも効率を優先しろと言っているのか?」
「俺は、『完璧な論理による究極の安定』を提案しています。無駄な要素を排除し、シンプルな構造で、最高の性能を引き出す。これは、俺がイラストで学んだ『本当に必要な線だけを残す』という美学に基づいています」
関口は、湊の表情の、迷いのない自信を見て、反論できなかった。結局、関口はリスクを承知で、湊の修正案を採用することを許可した。
湊は、すぐにコードを修正し、システムは劇的に改善された。
彼の「不安定な趣味」が、本業の安定性を、さらに高める結果となったのだ。しかし、関口の中には、湊の「安定への過信」に対する、拭い去れない疑念が残った。
その夜、湊は、25時を過ぎた交差点へ向かった。彼には、この成功を希に報告したいという、強い衝動があった。
コンビニのフェンスには、希が待っていた。彼女の足元には、黒いギターケース。そして、彼のデザインしたポスターが、手に抱えられていた。
「H.M.さん。ポスター、本当に素敵です! 今すぐライブハウスに貼りに行きたいくらい」
「水無月さん。喜んでもらえてよかったです。そして、俺からも報告があります」
湊は、システムのエラーと、それを自分の「イラストの美学」で修正した経緯を、希に話した。
「論理的には正しかったはずのコードに、『無駄な贅肉』が潜んでいたんです。俺は、ずっと安定に囚われて、無駄な要素を排除できなかった」
希は、湊の顔をじっと見つめた。
「ねえ、早瀬さん。それは、コードだけじゃない。あなたの人生の設計図も、そうだったんじゃない?」
「……ええ」
「安定したレールの上を歩くために、本当は不要な『保険』をたくさんかけていた。その一つが、あの『過剰なエラーチェック』だった」
希は、ポスターを指差した。
「でも、あなたの絵は、無駄な線がない。本当に描きたいものだけが、力強く描かれている。だから、あなたのコードも、それに引っ張られたんだよ」
湊は、希の洞察力に、再び驚かされた。彼女の言葉は、彼の仕事と人生の「本質的なバグ」を、的確に指摘していた。
二人は、「不安定な夢の交換会」の二つ目の議題に移った。それは、「25歳になってから、自分の不安定な挑戦を、誰かに話したか」というものだ。
「私は、あなたに話しました」希が言った。「でも、早瀬さんは?」
「俺は……関口リーダーには話しました。イラストの仕事を始めたと。ですが、彼は俺の挑戦を**『不安定なリスク』**だとしか見ていません」
「では、ご両親には?」
湊は、沈黙した。彼の両親は、公務員と教師という、安定の象徴のような職に就いていた。彼がシステムエンジニアという安定職を選んだときも、心から喜んでくれた。
「話していません。話したら、きっと『バカなことはやめろ』と言われるでしょう。彼らが求めているのは、俺の『安定した未来の設計図』だけです」
希は、優しく言った。
「誰もが、あなたのように、安定という厚い壁を破る勇気を持っているわけじゃない。でも、いつか話すべきだよ。だって、あなたの新しい挑戦は、誰にも誇れることだから」
湊は、希の言葉に、「安定した本音」の重要性を感じた。
「話します。俺も、自分の人生の設計図を、誰にも遠慮せずに提示すべきだ」
そのとき、彼のスマホが鳴った。着信は、関口からだ。こんな深夜に、関口から電話があるのは珍しい。
湊が電話に出ると、関口の焦った声が飛び込んできた。
「早瀬! 今すぐ会社に来い! お前の修正したロジックで、システムに致命的なバグが発生した!」
「えっ!?」
湊は、顔面蒼白になった。彼の「究極の安定」を追求したはずのロジックが、最大の不安定要素になってしまった。
交差点の街灯の下。希は、不安げな表情で湊を見つめていた。
湊は、電話を切り、希に言った。
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