最期の願い

touma

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病室にて

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もう長くはありません。
それは死刑宣告と同じでした。
その言葉を聞いた嫁は息子と遺産の話を、私のすぐ近くでしています。
ほとんど反応のない私を、意識がないと思っているのでしょう。
そして、「死んだ時に連絡してくれ」とだけ医師に告げて、さっさと帰って行ってしまいました。

薄暗い病室で、誰も見舞客などいないこの病室で一人孤独に死んでいくのだろうか。
頬を流れるのは涙ではありませんでした。
泣くことすらできず、かろうじて息をするだけの私に周囲の人々の当たりはひどく冷たいものでした。
死んだらどんな人だったかが分かるとよく言いますが、私は"まだ"生きているというのに。

医師や看護婦たちも同じでした。
認知症となった私は時々、いや頻繁におかしな行動をとるらしいですね。
トイレでないところに用を足してしまったり、暴れたりしてしまうこともあるようです。
そんな私に鎮静剤を打って眠らせておけばいいなんて言うのは、仕方ないのかもしれません。

私だって昔は看護婦でした。(ああ、いけない。今は看護婦じゃなくて看護師ね)
だから、どれだけ激務かも鎮静剤を打つしかないことも分かっています。
実際、私は医師の指示の元そうしてきました。
だけど、こうして私自身が看護される側になったら、悲しいと思ってしまいます。
それはエゴなのかもしれないのだけれど、それでも悲しいと思ってしまうのです。

そうするうちに、私は次第に人間らしさを失っていきました。
手や足が動かなくなっていった時は歯がゆかった!
なぜ、動かないの!
その理由を知ってはいるけれど、そんなのではなく…
そのうち"正気"である時間はどんどん減っていきました。
分からない。
それだけが私の中で徐々に広がり、そのうち全て分からなくなるのだろうという虚しさと、でもその虚しささえも分からなくなるという安堵とが、私の中に膨れ上がっていきました。

そして、昨日、私は三度目の脳梗塞を起こして、死刑宣告を受けたのです。
大切に育てたと思っていた息子は、私なんかよりもお金が大事なのだろうか…
忙しいのは分かっているけれど、でもほんの、ほんの少しでいいから手を握って欲しかった
最後に一言「母さん」って言ってくれさえすれば…

ダメですね、歳をとると、つい感傷的になってしまう。
涙も出ないのに、泣いているようです。

見えないはずの目でそっと窓の外を見てみました。
今の季節なら梅が綺麗な頃かしら。
私の名前と同じ花、ウメ。
梅の香りがした気がして、ほんの少し元気を取り戻したようです。

私は幸せだったのだろうか。
夫にも愛され、息子も生まれ、お金にもさほど困らなかった。
平凡だけど、幸せな人生。
87年も生きることができた。
だけど…
私は贅沢を言い過ぎね。
お医者さんにも看護師さんにもこんなにも良くして下さっているのに。
息子だって来てくれたじゃない。
私は幸せだった。

その時、まばゆい光が見えました。
もう目は見えないはずなのに、なぜ。
その光はお迎えの光でした。
あの可愛らしい子供は天使かしら。
天使は優しい笑顔を向けてこう言った。
「あなたは優しい方でした。神様が特別に最後に一つだけ願いを叶えて下さるそうです。ただし、期限は今日から3日間だけ。何になさいますか?」
息子に会おうか、いや、このままじゃ私は死ねない。
「私を若返らせていただけませんか?」
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