C'est la vie

伊藤コギト

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C'est la vie (1)

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   一

  私が高校を卒業するのと同時に、母方の祖母が脳卒中で倒れて亡くなった。
  私が大学に入学したのとほぼ同時に、母が車のアクセルを踏み抜いて死んだ。彼女の鞄からは遺書が見つかったと、警察から聞いた。

  父はどこかへ消えた。
  連絡をしようとは、思わなかった。どうせ繋がらない。私はそっと、携帯の連絡先の中から、父だった男の電話番号を消した。

  奨学金の申請をし、大学には通い続けることができていた。節約とバイトで稼いだお金で生活も人並みに出来ていた。だから父に連絡する必要も無いと、判断した。
  大学生活はそこそこに楽しかった。学部での友人はいなかったけど、音楽について気の合う友人ができたし、飲み会もセックスも、飽きない程度にできていた。クラブハウスは好きだった。暗闇で誰の顔もよく見えない。キラキラと光るライトは星のようで、酒に酔えば無重力状態。音楽に包まれた宇宙で、歌って、ダンスして、男とも女ともハグをして、キスをする。血管の中をアルコールとミュージックが流れ、心臓はビートに弾み、私は命を実感した。

「タオちゃん」
  朝、クラブハウスから出ようとした時、私のあだ名を呼んで、フユキがすり寄ってきた。
「フユキ、帰ってなかったの」
「軽く潰されちゃって。ラウンジの方でちょっと眠ってた」
「そう。変なことされなかった?」
「されたよ!もう、頭くる!口の中に舌まで入れられてさあ、気持ち悪かった。噛み付いてやったよ」
「ふうん、そいつ、誰?どんな奴?」
「あんまり覚えてないけど、なんかダサい格好してたよ。それよりさ、ね?」
  フユキの顔が近付く。
  唇を重ねると、彼女は勝ち誇ったような顔をした。
「お清めってやつね」
「余計に穢れただけだと思うけど」
「そんなこと」
  細い指が、私の左手に絡まり、親指に嵌められた指輪をなぞった。
「中でタオちゃんといた男の人さあ」
  歩き出しながらフユキが言う。私はフユキにぶつからないように、真っ直ぐ歩くように努めた。
「かっこよかったよね」
「ハルくんことかな。好みのタイプだった?」
「うーん、そうかも。ちょっとタオちゃんに似てたし。あと、DJやってる時って、余計にかっこよく見えることない?」
「ああ、あるね。フィルターかかって見える現象」
「そうそう、ほぼ幻覚だけど」
  
  冬支度を始める朝。空は白く、空気が冷たい。音楽とアルコールで火照った体は、フユキの家に着いた頃には通常の体温を取り戻していた。
「上がってく?少し、寝ていけば」
  彼女の甘いお誘いに、少し迷いつつも片手を振って断った。
「いや、いいよ。食パンの賞味期限が今朝なんだ。食ってから寝ないと、勿体無い」
「そう。またお金なくなったら、ごはん食べに来て」
「ありがとう。じゃ、おやすみ」
  そう言うと、フユキはふふっと柔らかい笑い声を上げた。
「もう朝なのに、おやすみって、変なの」
「確かに。なんて言えば正しいんだろう」
「おやすみでいいよ、今の私たちには」
「ちょうどいい?」
「うん」
  彼女につられて私も噴き出す。そんな私をフユキは愛おしそうな目で見るから、その瞳を覗かずにはいられない。
  もう一度「おやすみ」を交わして、扉の閉まる音を背中で聞きながら、私はそのアパートから離れた。

  自宅の鍵は空いていた。中に誰がいるのか、この時点でもう分かる。冷たいドアノブを回して中に入ると、人のベッドに我が物顔で寝転んでいる奴が、一人。
「おう、おかえり」
「いつの間に来たんだい、ハルくん」
「お前がフユキといちゃいちゃ歩いてるうちに」
「疲れてるんだけど。ベッドから退いてくれる?」
「俺も疲れてる。だから自分ちより近いお前の家に寄ってるんだろうが」
「偉そうにしないで。あと、ハルくんの分の朝飯用意出来ないよ」
「その食パン、一枚くれよ。九時が賞味期限って書いてあった」
「目敏いな…分かったよ」
  これ以上彼と言い合いをする気にもなれず、私はジャケットとジーパンだけ脱ぐと既に侵入していた男をベッドの端に押し退け、布団の中に体を滑り込ませた。酒のせいで痛む筋肉が弛緩していくのを感じる。軽く伸びをすると背骨が軋んだ。
「酒臭え」
  ハルくんが顔をしかめた。
「お互い様。嫌ならベッドから出るんだな」
「嘘、嘘。ベッド有り難いなあ」
 取ってつけたようなお礼を述べ、彼は携帯ゲームに視線を戻した。
「そういえば、フユキがさあ、ハルくんのこと、かっこいいって」
「お、マジ?」
  弾んだ声が後頭部に返ってくる。私は重い瞼を素直に閉じて、微睡みの波に乗りながら「マジ」と続けた。
「それで?何だって?」
「タオちゃんに似てるから好みだなーって」
「ちぇ、結局は『タオちゃん』かよ」
「あと、DJやってるとかっこいいって」
「ああ、フィルター現象な」
  ハルくんが笑う。私も意識が眠気にほとんど持っていかれそうになりながら、微かな笑い声を漏らした。右肩にハルくんが頭を乗せた。
「寝るの?」
「寝るよ…もう」
「アラームは?」
「………八時」
「オッケー」
  肩に頭を乗せたまま彼が携帯を操作する。その圧迫感と振動が気持ち良くて、ますます私は微睡みの海に深く潜っていく。完全にその海に沈む直前に、項に柔らかいものが当たった。

   ***

  あなたがお腹に宿った時、私は初めて、生きてて良かったって感じたのよ。
  お父さんや義父母たちはあまり協力的じゃなくて、悪阻も酷くて、妊娠中はとにかく大変だったけど、それでもあなたの存在だけが私を幸せな気持ちにしてくれた。予定日ぴったり、あなたは健康な状態で生まれたの。体も泣き声も他の赤ちゃんより大きくて、それが嬉しくて、幸せの絶頂だった。あれほど冷たかったお父さんも、あなたを腕に抱いた時、涙を流して喜んでた。家事を手伝ったことのないお父さんが、進んであなたの沐浴やオムツ替えをして、ベビーベッドも一緒に見に行ってくれて、あの人にも誰かを愛することができるということが知れたのも、幸せだった。とにかくあなたが生まれたことは、とても幸福なことだったのよ。 

   ***

  けたましく鳴るアラームを止める。部屋にはじんわりと肌にまとわりつくような熱気がこもっていた。それに加えて汗の匂いと酒の匂い。右腕に乗っかっていたハルくんの腕を退けてベッドから立ち上がり、カーテンと窓を全開にする。勢いよく差し込んだ日光に目を覆う。布団の中からは呻くような声が聞こえた。涼しい風が流れ込んでくる。それに乗って届く、車や人々の足音や話し声、信号機の『とおりゃんせ』。時刻は八時。日曜日とはいえ当然、街は活動を始めている時間だ。
  電気も付けず、まだ寝息まで聞こえる『時間遅れ』な部屋の中で、私はさっと服を脱ぎ浴室に飛び込んだ。ぬるま湯のシャワーをかぶると色んな匂いが自分から立ち上った。なかなかしつこく残っていたのがタバコの匂い。頭皮にまで染み付いているようだった。
  シャワーから上がって下着だけ身につけ、食パンの袋を開ける。一応冷蔵庫の中もチェックする。バターが少し残ってる。ラッキー。マヨネーズ、多分、ギリギリまだ大丈夫。ベーコンかソーセージといった肉類があればいいのだが……残念ながらそれらの食材は見当たらなかった。冷蔵庫を閉め、戸棚を開ける。インスタントスープを発見。確かフユキが実家からたくさん送られてきたからと言って分けてくれたものだ。彼女の顔が浮かび、頬が緩む。水を入れたケトルを火にかけ、バタートーストとマヨネーズトーストを自分とハルくんの分、一枚ずつを焼く。
  スープの入ったカップとトーストの乗った皿をテーブルに並べ、テレビを付ける。どのチャンネルも朝の情報番組。しかも、何処何処で殺人事件だとか、どの国で紛争がとか、芸能人の不倫だとか、代わり映えのない退屈な情報ばかりだ。それでも、まあラジオ代わりにはなるだろうと付けっ放しにしておいて、未だベッドで寝息を立てている男の肩を揺する。
「ハルくん、ごはん」
 うっすらと目が開かれる。
「あ、ほんとだ、良い匂い」
「うん、冷める前に食べて」
「んん…」
  彼はうつ伏せになると土下座するような体勢になって腰を伸ばした。それからベッドの上に正座して両手で顔を擦る。彼のいつもの起床ルーティンだ。
「顔洗ってくる」
  そう言って洗面所に消えていき、しばらく水音がした後、さっぱりした顔で戻ってきた。
「いただきます」
  声を揃えて手を合わせる。私はマヨネーズトーストに噛り付き、ハルくんはスープに口をつけた。二人の視線はテレビに注がれている。火星の人工居住地の開拓が進んでいるというテロップが流れている。
「頭の良い人ってすごいなあ」
  呑気にハルくんが発言する。
「ほんと、どうなってるんだろうね」
  私もスープを啜りながら応える。
「タオはさ、このまま地球に住むのと、火星に住むの、どっちがお望み?」
「火星なんか一部の億万長者しか住めないよ。渡星するだけでも何千万ってするんだから」
「違くて、もっとこう、夢の話として!単純にどっちに住みたいかってことだよ」
「うーん、それなら地球かな」
  テレビでは、人工菜園や人工森林といった、自然豊かな場所が火星でも作られているといった旨の映像が映し出された。そのVTRを観て、芸能人やアナウンサーがオーバーにリアクションしている。
「それはどうして?」
  ハルくんの綺麗な白い歯がバタートーストに沈む。パリッと良い音がした。
「なんか、恵まれすぎ」
「恵まれすぎ?」
「こんな綺麗に整備されてさ、億万長者しか住めないような充実した生活環境があってさ、こんな所に住まわされたら、なんか、『幸せ以外は認めない』みたいな制圧がありそう」
「なるほどね」
「ハルくんはどうなのよ」
「俺は…俺も地球かな」
「うん?何か言いかけたね」
「いや、火星の生物は見てみたいなと思ってさ」
「そんなの、きっといずれ、火星の環境を保ったシェルターとかに入れられて地球に来るよ」
「うん、そんな気がする。それ以外は別に俺も、火星に住む必要性感じないし」
  テレビの中で、『火星居住についてどう思う?』という街頭インタビューに、女子高生二人が「住みたーい!」と可愛らしい声で答えていた。「お、右の子タイプ」とハルくんが鼻の下を伸ばす。「趣味悪」と吐き捨てながら私はバタートーストを平らげる。
「俺はさ、今みたいに仕事しながら、週末はクラブ行ってさ、たまに自分もDJやって、酒飲んで、音楽聴いて、本読んで、映画観て、たまにセックスして美味い飯食って、そういう生活ができれば良いんだよ。他に何も望まねえよ」
  テレビを観ながら、真面目な顔で彼が言う。
  火星の人工菜園で育てられたミニトマトは、地球のものよりフルーティーらしい。
「そうだね」
  首を反らして頭をベッドの縁に乗せる。その顔の上にハルくんの頭で影ができる。目が合うと、合図。今朝、眠る直前に項に触れた感覚が、今度は唇に落とされた。
「タオは、大学卒業したら、就職するのか」
「ああ、まあ、そのつもり」
「ここを離れるのか」
「ああ、そのつもりだ」
「そうか」
  もう一度彼の唇が私の唇に触れる。そして額、頬、首筋と移動して、また唇に戻ってくる。顔が離れる。視線が外れた。
  暫く寄り添ったままテレビを観ていたが、星座占いが始まる頃、ハルくんは食器を片して帰っていった。私の星座は、五位だった。ラッキーカラーは赤色だと言われたので、お気に入りの赤いソックスを履いて、着替えて筆記用具とノートパソコンをバックパックに詰め込み、外に出た。
 
   ***

  覚えていないと思うけど、あなたって健康に産まれたのに乳幼児の時は病弱でね、すぐ熱は出すし、しかも気管支が弱くて、肺炎で入院したこともあったのよ。退院した後もちょくちょく喘息発作が出て、夜間救急に飛び込むのなんて日常茶飯事。気の抜けない育児だったと思うわ。食物アレルギーもあって、それで入院したこともあったっけ。その度に思ったの。ああ、この子の苦しみが私に移ればいいのにって。神様にもお願いした。いい子なあなたがこれ以上苦しみませんように、早く元気になってくれますようにって。小学校に上がる頃には病弱じゃなくなって、一安心したわ。あなたが優しくて素直ないい子だったから。やっぱり神様は見ていてくださるの。運動神経の良さはお父さんに似て良かったわね。運動会でも活躍していて、毎年観に行くのが楽しみだった。

   ***

  ガクンと頭が落ちた衝撃に顔を上げると、目の前の液晶には「rrrrrrr」とアルファベットが連なっている。軽く舌打ちをして文字を消し、新しく文字を打ち込んでいく。
  日曜日だからか、学校の図書館は空いていた。お陰で窓際の席を確保できた。少しでも日光をたくさん浴びて、体を覚醒させたかった。しかし睡魔に阻まれ、手元の課題は二時間経っても半ページくらいから進んでいない。
「戦争反ターイ!」
  突如外から聞こえてきた怒号に窓越しに目を向ける。キャンパスの中央にある広場に十数人の学生団体が拳を掲げている。よくある学生運動だ。
「戦力保持、反ターイ!」
「平和を守れー!」
「命を粗末にするなー!」
「政権崩壊!」
「子どもに人権を!」
  どんどんズレていく論点に、私は笑わずにはいられなかった。全国に名の知れた国公立大学の学生でも、これじゃあな。パソコンの画面には感情のこもっていない、文字の羅列。『統合失調症と時間認識の関係性について』なんて、偉そうに論じている。
「ああもう、馬鹿らしい。やめだ、やめ」
  ファイルを保存して素早くパソコンの電源を切る。
「帰って寝よう」
  怠く、もたつく足取りで図書館から出て、その足でフユキの家に向かった。
  彼女は起きていて、ドーナツを食べながらパソコンで映画を観ていた。四角い液晶の中で、クレオパトラみたいな女がストローなようなもので鼻から薬を吸っている。私も好きでよく観ている映画だ。ドーナツは派手な着色とデコレーションが施されたもので、こんな映画を観る時にはピッタリな食べ物である。
「コーヒー飲むでしょ?」
  マグカップを受け取り、口の中の甘味を洗い流すように、コーヒーを注ぎ込む。じんっと目に血液が溜まる感覚と同時に、瞼が重くなった。やはり、「カフェインは眠気に効く」なんていうのは、迷信だ。
「寝るなら、ベッドどうぞ」ありがとう、じゃあ、お言葉に甘えて」
  フユキの香りがする枕に顔を埋め、布団に体を潜らせる。金木犀のような、甘く、それでいて爽やかな香りが、私は好きだ。パソコンから聞こえてくる銃声とコーヒーの香りも相俟って、ものすごいスピードで私の意識は微睡みに落ちていく。
「そうだ、タオちゃん、あのね」
「ん?」
「起きてからでいいけど、聞きたいことがあるの」
「そうかい」
  私も君に話したいことがあるんだ。
  学生運動って、くだらないよな。
  ドーナツありがとう、美味しかったよ、どこの店の?
  課題が終わらないんだ、ちょっと手伝ってくれないかな。
  君とキスがしたいよ、フユキ。
  唇に触れる、柔らかくて甘い感触。ハルくんとはまた別の。
「おやすみ、タオちゃん」
  おやすみ。
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