午前四時のヒグラシ

伊藤コギト

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1.踏んだり蹴ったり

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 午前六時、起床。枕元のテレビリモコンをとって適当にチャンネルのボタンを押し込む。テレビがつく。液晶画面の向こうで、昨年ネットでバズったご意見番と、何かの専門家と、芸人と、タレントと、人気の高い女子アナが、ニュースをまとめたパネルを前にベラベラと議論を続けている。かなりの喧しさだが、寝起きの頭にはこれくらいがちょうどいい。俺は五分かけて布団から這い出して、キッチンへ行き、ケトルを火にかけた。紅茶のティーパックを取り出そうと戸棚に手をかけたら、飛び出していた木のトゲに指が引っかかった。
 この朝から俺はツイていなかった。指に巻いた絆創膏は何故か剥がれやすくて二枚ほどダメにした。就職の面接では答えようと思ったのに舌が回らず、口が動かず、しきりに手汗を膝に染み込ませていた。面接官が「もう、大丈夫です」と言った。会場から出て五分くらい歩いたところで突然雨が降ってきて、近くのコンビニで傘を購入したところで雨が止んだ。千円無駄にした。しかも持ち歩くには傘というものは絶妙に邪魔になる。大きなため息を一つ吐いた。
 もう何もかもが嫌になった。家にも帰りたくなかった。自分の部屋の机の上に山積みになった就活書を見るのも嫌だった。「数多くいる養殖種の中から第一志望を勝ち取るには」なんていう文字は、もう沢山だ。
 養殖種の人間が特別だなんていう時代は終わった。今じゃ世界の半分以上の人間が、胎児カプセルの中で人工的に作られた受精卵から産まれ、卵子の持ち主と精子の持ち主も知らぬまま、施設で育ち、教育を受け、社会に出ているのだ。一方で、野蛮で奔放な印象を持たれていた天然種が、今では希少で、特別な存在として見られている。負の印象も独創性として評され、アーティストやクリエイターとして活躍している者が多い。あのデカい看板になってる若手歌手のヒット曲をプロデュースしたのも、天然種の人間だと、この前ノンフィクション番組でやっていたのを観た。
 「ん?」
 俺はその看板を見て気が付いた。降りる駅を乗り過ごした。ああ、もう。どうしようもなくイライラして、両手で頭を掻き毟る。しかしすぐ、いや、と思い直す。家に帰るのも嫌なら、このまま行くところまで行ってしまおう。親指の爪ほどの大きさのイヤホンを耳に差し込み、電子パネルを操作する。そして目を閉じる。どこに着くかは、目が覚めてからのお楽しみ。
 肩を叩かれて目を開けた。どうやら本当に眠ってしまっていたようだ。耳に大音量で流れる音楽が蘇ってきた。顔を上げると車掌さんが何か言っている。「お客さん、終点です」音楽の向こうから、うっすらとそう聞こえた。
 プラットホームの数が、信じられないくらい多い。改札口がいくつもある。東口、西口、南口、新南口……。階段を降りても、上っても、どちらにも改札口があるらしい。駅の見取り図を見てみたが、階段やフロアが複雑に入り組んでいて、まるでダンジョンだった。よくみると、改札口が別の路線のホームに繋がっているものもある。俺はここを無事に脱出出来るのか。地元の人間からすればほとほと馬鹿らしくなるような不安感が湧き上がる。ポケットから取り出した電子パネルを操作して、ここの駅のマップを開くと、さらにこの駅の巨大さを思い知った。画面を拡大したり縮小したりを繰り返しながら、なんとか地理を頭に入れようとしていたら、東口の近くに聞いた事のある地名を見つけた。ここに行けば、なんとかなるかもしれない。俺は東口に向かって済ました顔で早歩きで向かった。
 東口を出るまで二十分かかった。途中で自分が駅の中にいる事すら忘れるくらいだった。そしてそこから見えた光景に戸惑った。日が沈み始め、夜を迎えた街に灯りだすネオン。如何わしい文字列、下品な配色、際どい衣装を纏った女性の看板。目のやり場に困り視線を落とすと、地面には吸殻だの空き缶だのよく分からない液体だのが一面に広がっている。いかにも治安が悪そうな、劣悪な場所だった。
 引き返そうと思った。別にこの場所じゃなくたって、いくらでも行く場所はあるじゃないか。けれど、先の面接で踏みにじられたちっぽけな自尊心が今更になって再び首をもたげてきた。俺は今、自暴自棄になっているんだ。普段やらないようなことまでやってやろうじゃないか。駅へと戻ろうとしていた足を無理やり前へ踏み出し、目映い光に包まれる繁華街へと進んでいった。
 いよいよ空が暗くなった頃、街を歩く人がみるみる増えていった。すれ違う人の視線を感じる。チラッ、チラッと行く人来る人が俺に視線を送る。なんだ、と思って視線を追うと、自分の右手の小指に行き着いた。小指の爪。養殖種である証の黒い爪。よく見るとこの街にいるほとんどの人の右手の小指の爪は黒くない。なるほど、と合点がいった。道理で環境が悪そうな街なわけだ。その時、向かいの歩道から渡ってくる二人組の男の一人に目が行った。艶のある黒髪に、クリっと丸い大きな目。どこかで見たことがある。はて、どこだったか。初めて来るこの街に知り合いなどいないはずだが。しかも天然種の人間しかいないこの街に。
 ハッと頭に電気が走った。そうだ、テレビで観たのだ。ニュースでやっていた「行方を眩ませている養殖種」。朝の情報番組でも取り上げられていた。本当にあの彼だとしたらすごい発見だぞ!俺は興奮してきた。警察に情報提供すべきか。それともマスコミ?いや、ネットに上げれば物凄く話題なるかもしれない。俺は電子パネルのカメラモードをオンにして既に人混みに紛れてしまった彼を探した。隣にいたあの金髪の男の後頭部を見つけた。そして彼らはしばらくして人混みを抜け、細い路地へと入っていく。
 しかし、俺がその路地に入ったときには彼らは既にそこからいなくなっていた。路地の向こうも人混みの波だ。完全に見失った。肩を落とし、仕方ないと振り返ると、そこにはさっきの二人組がいた。
「こんな汚い街を撮影?」
《行方不明》の彼が言う。
 突然のことに声が出ない。彼の半歩後ろでじっとこちらを見つめる金髪男が、ズイと目の前にまで出てきて、
 そこから俺の意識は暗転した。
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