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第三章 優しい悪夢
第四十五話 終わりの始まり
しおりを挟む花風が、柔らかく走り抜けていく。
俺の足元に咲いたシロツメグサが、穏やかに揺れ動く。まるで再び咲き誇れることを喜んでいるかのように。俺は思わず微笑んだ。エーデルワイス、パンジー、ライラック。目に入ってきた鮮やかな花のすべてが風に靡きながら、訴えかけてくれる。
ああ、わかっているよ。
花言葉は、忘れていたことに対する優しい恨み事だ。
祝福に満ちた純麗な光が、色彩あふれた世界に降り注いだ。天使が微笑んでくれたようだった。俺たちは生き残った。生き残ることができたんだ。この暖かさは、生の喜びそのものだと思えた。
「……メンター」
椿が、ふらふらとこちらに歩いてきた。
返り血に塗れた顔で、柔らかく微笑みながら。
倒れそうになった彼女を抱きとめる。
「……ありがとう」
俺は彼女の頭を撫でながら言った。
花びらが、ふわりと舞い上がった。
「椿のおかげで、みんな生き残ることができたよ」
「……はい」
「怪我はないか?」
「ちょっとかすり傷があるくらいなので、大丈夫です」
「……そうか」
俺は、安堵の息をこぼした。
良かった。――俺たちは生きている。
抱きとめる椿の温もりが、柔らかさが、教えてくれる。俺は唇を噛み締めて、身体を震わせた。溢れ出す感情は、瞳から露のように溢れる。涼花。生きているよ、俺は。俺たちは、生きているんだ。
「……泣かないで」
椿が、俺の耳元を優しく撫でた。
「……大丈夫。あなたの大切なものは、私以外の何者にも奪わせないわ」
「……」
「だから、大丈夫よ」
静かに頷いた。
俺はようやく――ようやく取り戻したんだ。
生き続ける意味というものを。そして、守りたいと心から思えたのだ。彼女たちとの静謐な美しい日々を。
「イケメンター!」
いつの間にか元の姿に戻っていたネコヤナギが、俺たちの側に駆け寄ると叫んだ。
「抱き合ってる場合じゃないでしょ! スノーちゃんがまだ……!」
「大丈夫」
俺は、力強く言った。
「俺たちは、勝ったんだ」
「は? ……それってどういう」
リンドウがネコヤナギの肩に手を置いて、指を差した。泣き笑いを浮かべるリンドウの目を見つめて意味を察したのだろう。ネコヤナギは、くしゃりと顔をゆがめて、リンドウの指さす方を見た。
「はっ……俺を置いて……いちゃつき、やがって」
スノーが、悪態をつきながら現れた。
血塗れの顔で笑いながら。
「……スノーちゃん」
ネコヤナギはふらつきながらスノーに駆け寄った。
「良かった……生きていたんだね」
「ああ……なんとかな」
「良かった、本当に良かったよ……」
ネコヤナギが、涙を浮かべ抱きついた。
「いっ、いててっ! いきなり抱きつくなっ……! 全身傷だらけなんだぞ、こっちは……!」
スノーは顔をしかめて抗議の声をあげたが、泣きべそをかくネコヤナギを見て、やがて諦めたように溜息をついた。ネコヤナギの頭を撫でて、これまでに見たことがないほど優しい笑みを浮かべる。
「……え、単独で撃破したにゃ? 上級を?」
リリーが顔を引き攣らせながら尋ねた。
「俺がここにいるってことは、そういうこったろうが。……なんだその目は?」
「いや……相変わらず頭おかしいなと思ってにゃ。武装解放してないのに……」
「るっせーな。てめえらこそ……よく生きていたな。正直、二体目を見たときは、もう駄目かと……思ったぜ」
「……メンターのおかげだね」
リンドウが目元の涙をぬぐって、口を開いた。
「ボクたちは皆殺しにされる寸前だったんだ。でも、メンターがすごい力でボクたちを復活させてくれて」
「ああ……感じたぜ。……なんだあの力は? ただの回復能力じゃねえ、よな?」
「……そうだな。あの力は、生命のすべてを元の姿に戻す力だ」
「生命のすべてを……。よくわからんけど、ぜってえやべえ力だろ?」
「だろうな。たぶん……」
俺は言いかけた言葉を飲み込んで、力なく笑ってみせた。
「たぶん、なんだよ?」
「……いや、俺もまだよくわからないんだ。憶測で色々言っても仕方ない」
スノーは釈然としない表情を浮かべたが、追及はしてこなかった。ネコヤナギの頭に手を置いて、「いい加減離れろ。鼻水つくだろうが」と微苦笑を浮かべながら文句を口にしていた。だが、そのわりに頭を撫でる手つきは柔らかい。
……優しいところあるじゃないか。
俺が温かい眼差しを向けていると、視線に気づいたスノーがそっぽを向いた。頬が少し赤いのは、きっと気の所為じゃないな。
「……こっちみんな、ばーか」
「すまない」
「うっせ。あんま……ちょーしのんなよ?」
スノーは弱々しく舌打ちして、憮然とする。親に褒められたのに、素直になれずに拗ねてしまった子供みたいだ。傷だらけのやつにこう思うのは良くないかもしれないが、正直少し可愛らしい。
「あー、メンターが椿姉と抱き合いながらスノーちゃんに見惚れてるにゃ。いけないんだ~」
ニヤニヤと笑いながらピンク猫が余計なことを言ってくれた。
「――え?」
スノーが、瞬きをしながら頬を赤らめる。
いや、ちょっと……予想外の反応しないで。
「メンター? どういうことでしょうか?」
耳元で、凍えるような声が響いた。
「い、いや」
「約束してくれましたよね? 責任を取るって。なのに、他の女にさっそく目移りしているのですか?」
頬に添えられていた椿の手に、だんだんと力がこもっていく。爪が喰い込んでめっちゃ痛い。半泣きになりそうだったが、眼前に迫った椿の黒い瞳を見てさらに泣きそうになった。
「いけませんね。浮気はダメですよ? 浮気は万死に値する罪です」
「――さ、さあ! そろそろみんな戻ろうか! みんな傷だらけだからはやく治療しないと!」
「あ、逃げようとしてるにゃ」
「逃げたらダメですよ、メンター。責任を取るってどういうことなんですか。きちんと説明してください」
リリーがジト目を浮かべ、リンドウが頬を膨らませながら不機嫌そうな声を出す。
「うふふ……。帰ったら、どうしましょう。これ以上、他の女を見ないように誓約書でも書いてもらいましょうか。それとも調教して……」
物騒なことをつぶやき始めた椿に怯えながら、俺は自分の言葉に少し後悔しはじめた。ああ、でも、気持ちに嘘はないからな……。しかし、相手が相手なんだよな……。
俺は泣きそうな顔で笑った。
俺の日常は、こうして少し変化を見せながら、その温かさを変えずに守られた。
この先、どうなるのかはわからない。
わからないが、今はこの安寧に浸っておこう。
俺の使命は彼女たちとともにあり――そして彼女たちとは別の場所を目指さなければならないのだから。
俺は、世界を救う。
そして、開花症候群に侵された妹を救わなければならない。
それはきっと――。
きっと、彼女たちとのどこか壊れた優しい日常に、終わりがあることを意味するのだ。
「……」
仄暗い病室。
規則正しく静寂を揺らしていた心電図の音が、突然乱れた。カーテンの隙間からこぼれる太陽の光が、ベッドに眠る少女の顔に差し込んだ瞬間。
その目が、開いた。
エメラルドの瞳が淡い光を放っていた。長く暗闇を見つめていたからだろうか。陽の光は少し眩しかったようで、徐々に目が細められていく。頭の上に手を置いて、少女はしばし知らない天井を呆然と見つめた。
「……だれ?」
少女は、自分の声を確かめるように声を出した。
「……私は……だれ?」
少女の青い髪はきらきらと輝く。
彼女は、ようやく目を覚ました。
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