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第6話 新しい犬生
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アニマルハピネスは15匹を引き取り、活動拠点である兎山さんの別宅に一時保護をした。健康診断やトリミングを終えてから、預かりボランティアさんの所で里親が見つかるまで生活をする。
「初めてなのに厳しい現場に連れてきてしまってすみませんでした」
泣きじゃくる私に吟君は謝る。
「この子達がつらい思いをしていたんだと思うと……涙が止まらなくて」
嗚咽まじりに答えると、吟君は私の手を掴み、人気のない所へ連れていく。いつの間にか買ってくれていたペットボトルの水を渡してくれた。
「奈々子さんは優しいんですね」
吟君はそっと私の隣に座る。彼の腕が私の腕に触れるほど近い。
「あの子達は今まで辛い生だったかもしれないですけど、これからは新しい生が始まるんですよ。悲しいことじゃないです、彼らの門出は笑顔で見守ってあげましょう」
「新しい生……」
ハッとした。彼らは辛かったと思う。だからレスキューされたのはあの子達にとって幸せを掴む第一歩になるかもしれない。
そうだ。私が彼らの過去を思って泣いたところでどうしようもない。あの子達はこれからも生きていくから。
「そうだよね、笑顔でいてあげなきゃ」
人の感情は犬に伝わる。私がめそめそしていれば、彼らも思い出したくない事を思い出してしまうかもしれない。
「まぁ、俺は奈々子さんのそういう優しいところ好きですけど」
「えっ!?」
「犬に対して優しい人って、人に対しても優しい気がするから。俺は好きですよ」
これは告白ではない、私の性格の一部が好きだと言っているのだ。評価だ。
自分に言い聞かせるが胸の高鳴りはおさまらない。
「だから俺の前では泣いてもいいんですよ」
ふわっと彼の香りが鼻孔をくすぐる。あの一軒家に入っていたはずなのに、吟君はとてもいい香りだ。なんて思っていると、いつの間にか抱き締められていることに気付く。私の頭に吟君の頬が乗せられている。太く逞しい腕で私を抱き寄せていた。
私は彼の胸に顔をうずめる。真っ赤になっている事に気付かれたくなかったから。
◆◆◆
翌日。休日だったので私は兎山さんの別宅に足を運んだ。
今日はトイプードル達のトリミングをするらしい。吟君からメッセージをもらった時には掃除でも何でもやるから手伝わせてとお願いしていた。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
吟君に連れられ、別宅に入ると既に兎山さんと吟君のお姉さんがいた。
台には一頭のトイプードルがいて、兎山さんと吟君のお姉さんがバリカンで毛を刈っていたところだった。
「こちらこそよろしくね。昨日に続いて大丈夫?」
「はい、問題ありません」
「そうだ、椿ちゃんとは初対面だよね? 吟君のお姉さんでトリマーさんだよ」
初対面ではないが、椿さんは何も言わなかったので私も黙っておく。
白々しく挨拶をすると、彼女は柔らかく笑ってから作業に戻る。
私は視線を椿さんから床に落とす。たくさんの毛が落ちていて臭いがきつい。
「私、床掃除します」
「お願いします」
「助かるよ」
箒を借りて床を掃く。ちりとりに入った毛玉はとても重い。台に乗っているトイプードルは細くて小さいのに、こんな重りをずっとつけていたのか。
トイプードルは震えているけど、体がすっきりしていくのと、兎山さんと椿さんの優しい声かけのおかげで大人しく座っている。
椿さんが顔の毛にはさみを入れていくと、可愛い目が見えた。つぶらできらきらと輝く瞳。
不安はあるだろうけど君にはこれから楽しい事が待ってるよ、と笑いかける。
床の掃除を続けながらトリミングとシャンプーが終わった子達にご飯をあげた。
みんな良い子で怖がっているけど、人間を噛もうとはしない。
人に酷いことをされていたのに彼らは恨んでいないのだろうか。
15匹のトリミングは夜中まで続いた。明日は仕事があるだろうし、今日はもう帰っていいよという兎山さんの言葉に甘えさせてもらう。
帰り道は吟君が送ってくれることになった。
「綺麗になったあの子達を見ると嬉しくなったよ」
隣を歩く吟君に言うと、彼は笑って頷いた。
「これからあの子達を見続けると分かるんですけど、表情がだんだんと変わっていくんですよ。今は怯えていますけど、愛情を注がれていくと本当に見間違うほどに別犬になります」
嬉しそうに話す吟君の横顔を見て私は聞いた。
「吟君はどうして保護活動をしているの?」
答えは知っている。でも、彼の口から聞いてみたかった。
「ワンコが大好きだからです」
「だよね。思ってた、凄く好きなんだなって伝わるもん」
「ワンコが幸せだと俺も幸せになりますから。あ、あと」
吟君の口から続きの言葉が発せられるのを待つ。
「奈々子さんが幸せだと俺も幸せかな」
風が私の髪を撫でていく。風のせいで聞こえなかったことにも出来るけど、私は。
「私も同じだよ、吟君」
◆◆◆
奈々子を自宅まで送り届けた吟は、そのまま兎山の別宅へと引き返す。
ちょうど兎山の別宅と奈々子の自宅は近かったので時間はあまりかからなかった。
「戻りました」
吟が扉を開けると、上気した顔で兎山がやって来た。
「吟君、ちょうどよかった! 陽菜乃ちゃんが帰ってきたんだよ」
「え?」
懐かしい名前に吟の意識はとまる。
「久しぶり、吟。元気にしてた?」
もう聞くことはないだろうと思っていた声に吟は顔をあげる。
「陽菜乃……何で」
かつて何度も口にした彼女の名前を呟く。最後に呼んでからどのくらい経っただろうと吟は意識の隅で考えていた。
「仕事辞めて地元に戻ってきたんだ。久しぶりにアニマルハピネスを覗いたらみんないたから。もしかしたら吟に会えるかもと思って」
陽菜乃は吟が驚き固まったままでも気にせず話し続けた。
「また仲良くしてね」
陽菜乃は上目遣いで彼を見る。背の低い彼女はいつもこうして吟を見上げていた。
「陽菜ちゃん、こっち手伝ってもらえる?」
「はぁい」
椿の言葉に陽菜乃はくるりと背を向けて去って行く。
吟は彼女の背中に声をかけたかったが、言葉は出なかった。
突然、目の前から消えた元恋人にどう声を掛ければいいのだろう?
「初めてなのに厳しい現場に連れてきてしまってすみませんでした」
泣きじゃくる私に吟君は謝る。
「この子達がつらい思いをしていたんだと思うと……涙が止まらなくて」
嗚咽まじりに答えると、吟君は私の手を掴み、人気のない所へ連れていく。いつの間にか買ってくれていたペットボトルの水を渡してくれた。
「奈々子さんは優しいんですね」
吟君はそっと私の隣に座る。彼の腕が私の腕に触れるほど近い。
「あの子達は今まで辛い生だったかもしれないですけど、これからは新しい生が始まるんですよ。悲しいことじゃないです、彼らの門出は笑顔で見守ってあげましょう」
「新しい生……」
ハッとした。彼らは辛かったと思う。だからレスキューされたのはあの子達にとって幸せを掴む第一歩になるかもしれない。
そうだ。私が彼らの過去を思って泣いたところでどうしようもない。あの子達はこれからも生きていくから。
「そうだよね、笑顔でいてあげなきゃ」
人の感情は犬に伝わる。私がめそめそしていれば、彼らも思い出したくない事を思い出してしまうかもしれない。
「まぁ、俺は奈々子さんのそういう優しいところ好きですけど」
「えっ!?」
「犬に対して優しい人って、人に対しても優しい気がするから。俺は好きですよ」
これは告白ではない、私の性格の一部が好きだと言っているのだ。評価だ。
自分に言い聞かせるが胸の高鳴りはおさまらない。
「だから俺の前では泣いてもいいんですよ」
ふわっと彼の香りが鼻孔をくすぐる。あの一軒家に入っていたはずなのに、吟君はとてもいい香りだ。なんて思っていると、いつの間にか抱き締められていることに気付く。私の頭に吟君の頬が乗せられている。太く逞しい腕で私を抱き寄せていた。
私は彼の胸に顔をうずめる。真っ赤になっている事に気付かれたくなかったから。
◆◆◆
翌日。休日だったので私は兎山さんの別宅に足を運んだ。
今日はトイプードル達のトリミングをするらしい。吟君からメッセージをもらった時には掃除でも何でもやるから手伝わせてとお願いしていた。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
吟君に連れられ、別宅に入ると既に兎山さんと吟君のお姉さんがいた。
台には一頭のトイプードルがいて、兎山さんと吟君のお姉さんがバリカンで毛を刈っていたところだった。
「こちらこそよろしくね。昨日に続いて大丈夫?」
「はい、問題ありません」
「そうだ、椿ちゃんとは初対面だよね? 吟君のお姉さんでトリマーさんだよ」
初対面ではないが、椿さんは何も言わなかったので私も黙っておく。
白々しく挨拶をすると、彼女は柔らかく笑ってから作業に戻る。
私は視線を椿さんから床に落とす。たくさんの毛が落ちていて臭いがきつい。
「私、床掃除します」
「お願いします」
「助かるよ」
箒を借りて床を掃く。ちりとりに入った毛玉はとても重い。台に乗っているトイプードルは細くて小さいのに、こんな重りをずっとつけていたのか。
トイプードルは震えているけど、体がすっきりしていくのと、兎山さんと椿さんの優しい声かけのおかげで大人しく座っている。
椿さんが顔の毛にはさみを入れていくと、可愛い目が見えた。つぶらできらきらと輝く瞳。
不安はあるだろうけど君にはこれから楽しい事が待ってるよ、と笑いかける。
床の掃除を続けながらトリミングとシャンプーが終わった子達にご飯をあげた。
みんな良い子で怖がっているけど、人間を噛もうとはしない。
人に酷いことをされていたのに彼らは恨んでいないのだろうか。
15匹のトリミングは夜中まで続いた。明日は仕事があるだろうし、今日はもう帰っていいよという兎山さんの言葉に甘えさせてもらう。
帰り道は吟君が送ってくれることになった。
「綺麗になったあの子達を見ると嬉しくなったよ」
隣を歩く吟君に言うと、彼は笑って頷いた。
「これからあの子達を見続けると分かるんですけど、表情がだんだんと変わっていくんですよ。今は怯えていますけど、愛情を注がれていくと本当に見間違うほどに別犬になります」
嬉しそうに話す吟君の横顔を見て私は聞いた。
「吟君はどうして保護活動をしているの?」
答えは知っている。でも、彼の口から聞いてみたかった。
「ワンコが大好きだからです」
「だよね。思ってた、凄く好きなんだなって伝わるもん」
「ワンコが幸せだと俺も幸せになりますから。あ、あと」
吟君の口から続きの言葉が発せられるのを待つ。
「奈々子さんが幸せだと俺も幸せかな」
風が私の髪を撫でていく。風のせいで聞こえなかったことにも出来るけど、私は。
「私も同じだよ、吟君」
◆◆◆
奈々子を自宅まで送り届けた吟は、そのまま兎山の別宅へと引き返す。
ちょうど兎山の別宅と奈々子の自宅は近かったので時間はあまりかからなかった。
「戻りました」
吟が扉を開けると、上気した顔で兎山がやって来た。
「吟君、ちょうどよかった! 陽菜乃ちゃんが帰ってきたんだよ」
「え?」
懐かしい名前に吟の意識はとまる。
「久しぶり、吟。元気にしてた?」
もう聞くことはないだろうと思っていた声に吟は顔をあげる。
「陽菜乃……何で」
かつて何度も口にした彼女の名前を呟く。最後に呼んでからどのくらい経っただろうと吟は意識の隅で考えていた。
「仕事辞めて地元に戻ってきたんだ。久しぶりにアニマルハピネスを覗いたらみんないたから。もしかしたら吟に会えるかもと思って」
陽菜乃は吟が驚き固まったままでも気にせず話し続けた。
「また仲良くしてね」
陽菜乃は上目遣いで彼を見る。背の低い彼女はいつもこうして吟を見上げていた。
「陽菜ちゃん、こっち手伝ってもらえる?」
「はぁい」
椿の言葉に陽菜乃はくるりと背を向けて去って行く。
吟は彼女の背中に声をかけたかったが、言葉は出なかった。
突然、目の前から消えた元恋人にどう声を掛ければいいのだろう?
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