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数学とクッキーとの関係式
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それは、ほんの些細なことがきっかけだった。
「ねえ、おねえちゃん、ちょっとたのみがあるんだけど……」
冬休みが近づいたある日、私はアルバイトをしている私塾――小学生から高校生までが一つの教室にいる、いたって賑やかな塾である――の生徒の一人である女子高生から声をかけられた。
「何?」
「あのね、今度の期末テストの数学でうちが百点取ったら、何かお菓子作ってきて」
「えーっ!」
お菓子なんて、食べるの専門で一度も作ったことのない私は慌てて断わろうとした。しかし、その子はどうしても『私が作ったお菓子』を食べたかったらしい。
「ねっ、お願い、おねえちゃん。うちも作ってくるから、ね」
そう言われると、ついつい生来の食い意地がでてきてしまう。最後には、半ば押し切られたような形で私は承知させられてしまった。
〈まあ、高校のテストでそう簡単に数学で百点なんて取れるわけないよね……〉
しかしながら、この時私はたかをくくり、安心していた。
ところが。
「おねえちゃん、百点取ったよ」
一週間後、彼女の報告を聞いた私は唖然となった。
「ね、絶対作ってきてね」
「う、うん……」
えーい、こうなったら食物十(ペーパーテストがあまりにも良かったので先生がしぶしぶつけたものと思われる)の成績と、食物検定4級(実技のきゅうり切りで5、6回追試を受けたが)の腕を奮って作ってみるか。
私は覚悟を決めてうなずいた。
冬休みに入ったある日の午後、私は独りで『ロッククッキー』を作ろうと気合いを入れて台所に入った。
が、しかし。
「ちょうど退屈してたんだ」
何故か、中学三年の妹もそう言いながら台所に入ってきたのだ。
〈あ、あのね、あんた、じゅけんせーなんじゃ……〉
私の思いをよそに、妹はさっさと戸棚をのぞき始めた。
「えーっと、ベーキングパウダーはあるっと……」
「あのねえ……。私一人でやるから、あんたは勉強してなさい」
私の言葉も何のその、妹はけろっとした顔で答えた。
「やだ。第一、『ロッククッキー』は私のレシピだもん」
あ、そうだった。私は妹がこの前家で作っているのを見て、簡単そうに思えたからこそ『ロッククッキー』を作ることにしたのだ。そこで何故か納得してしまった私は、妹が冷蔵庫へいこうとしていたので慌てて道をあけた。
「うーん、無塩バターがないわね……。姉ちゃん、買ってきて」
妹が私をあごでこき使うのはいつものことである。私は別に腹を立てずに側に置いてあった千円札をつかんだ。
「いい、無塩バターよ」
妹があまりにも念を押すので、私は冗談まじりで言った。
「むえん? ああ、鉛がないやつね」
「違う! 塩がないやつ!」
「分かった。縁がないやつね」
妹はさらに何か言ったようだったが、私はそれには構わず買い物に行った。
買い物から帰ってくると、妹は既に大きめのボールに小麦粉を二百グラム量り入れていた。
「バター量って。溶かすんだから」
私を見ると、妹はさらに用事を言いつけた。
バターを百グラム私がボールに量り入れると、妹はさっと電子レンジに入れて溶かした。その手際の良さは、さすが、自分のレシピだと自慢するだけのことはある。
次に妹は、ベーキングパウダーの箱を取り出した。
「これ、たくさん入れすぎると苦くなるんだよ」
そう言いつつ、妹はスプーンに山盛りいっぱいそれを入れた。
「そ、そんなに入れると苦くなるんじゃ……」
「いーの。これ、ふるって」
私の言葉を無視して、妹はふるいとベーキングパウダーを入れた小麦粉を私に差し出した。
「それが終わったら、今度は砂糖量ってね」
まるでわがままお嬢さまにこき使われる召使いである。が、これがもうわが家の習慣になってしまっている。私はため息をつきながら粉をふるうと、砂糖を七十グラム量るために砂糖入れを手に取った。砂糖が砂糖入れのなかで塊になっているのを、スプーンを使って砕く。しかし、力をいくら入れても、普段あまり使わない砂糖は中々砕けない。そのうち面倒臭くなって、私は塊のまま砂糖をボールに入れた。
はかりの針が七十を少し越える。ま、いっか。妹が見ていないのを幸い、私はさっさと砂糖の入ったボールをはかりから下ろした。
「じゃ、砂糖と卵をかき混ぜて」
私は冷蔵庫から卵を一つ取り出すと、砂糖のボールの中に割り入れ、床の上で足でボールを支えながらかき混ぜ始めた。
「あーっ、もう、下手くそ! ざつっ!」
妹は周りでぶつぶつと文句を言いながら、溶かしたバターと粉をボールに加えている。
やっと粉っぽさがなくなり、なんとか生地らしくなってくると、妹は今度は手で練るように命じた。
「あーっ、もう、不器用! 力がない! ちゃんとかき混ぜなさい。……って、もう、パンじゃないんだから、叩きつけなくてもいーの!」
私がパン作りの要領で生地を揉んだりボールに叩きつけたりしているのを、妹はあきれて見ていた。
「もうそろそろいいかな」
クッキーの生地らしく、少し弾力のある塊になったところで、妹は生地を二十の塊に分けた。
「これをちゃんと丸めるのよ」
私と妹は分けた生地を丸め、手で押してぺちゃんこにして円形のクッキーを作りだした。が、妹のはきれいな円形になっているのに、私のはどうやってもきれいな円にならない。
「あーっ、もう、やり直し!」
妹に何回もこう言われながらも、一生懸命形を整える。が、やがて飽きてきた。私は生地を棒状にすると、くるっと端をくっつけて妹の目の前にひょいっと出した。
「はい、トーラス」
トーラスとは、数学用語でドーナツ型の外面。その形を見た妹は躊躇うことなくいきなりトーラスを叩いてぺちゃんこにした。
「まあ、普通のドーナツ型だね。……本当は丸の方がいいと思うけど」
うーっ、くそーっ。暗に非難された私は心の中で歯ぎしりした。
しかしそれでめげる姉ではない。今度は鼓の形、一葉双曲面を作った。これは、つぶすと瓢箪の形になる。が。
「だめ、却下」
やはりこの形も妹によって却下される。
うーん、それなら。私は諦めずに馬の鞍の形、双曲放物面を作ってみたが、これはつぶすと形が変になったので妹に見せるのはやめておいた。その他、楕円面(球面を互いに垂直な二方向から押しつぶした形)や楕円放物面(放物線をその軸を中心に回転させ、軸に垂直な方向に押しつぶした形)などを作ってみたのだが。
「へん!」
私が作ったクッキーを見て、妹は小馬鹿にしたような顔をした。そのくせ、自分はハート型のクッキーなんかを作っている。よーし、それなら……。と私も四角形や五角形のクッキーを作ってみる。こういうことをしていて、私はふと、一つの考えに行き当たった。幾何学の時間に、これを作りながら曲面の勉強をすれば、よく分かるだろうし、面白いのでわざわざ出席カードに授業の感想を書かせなくても出席率は上がるのではないか……と。
〈しかし、それは自分が教授にでもならない限り誰もしないだろーな……〉
そう思い、私は一人苦笑した。
形を作り終えると、アルミホイルを敷いた天板に生地を並べ、百八十度のオーブンで十五分間焼く。焼き上がってみると、膨らんで円も四角もハート型も何が何だか分からなくなっていた。
「形、整えても整えなくても一緒じゃない?」
私がそう言うと、妹はさっと自分の部屋へ去っていった。
塾にその『ロッククッキー』を持っていくと、頼んだ女子高生をはじめ小学生や中学生も私のクッキーに手を伸ばした。
「うん、おいしい」
「結構いけるね」
私はこのようにして、どうにか先生としての面目を保ったのであった。
「ねえ、おねえちゃん、また作ってきて。今度はケーキとか……」
い、いや、それはちょっと……。
「ねえ、おねえちゃん、ちょっとたのみがあるんだけど……」
冬休みが近づいたある日、私はアルバイトをしている私塾――小学生から高校生までが一つの教室にいる、いたって賑やかな塾である――の生徒の一人である女子高生から声をかけられた。
「何?」
「あのね、今度の期末テストの数学でうちが百点取ったら、何かお菓子作ってきて」
「えーっ!」
お菓子なんて、食べるの専門で一度も作ったことのない私は慌てて断わろうとした。しかし、その子はどうしても『私が作ったお菓子』を食べたかったらしい。
「ねっ、お願い、おねえちゃん。うちも作ってくるから、ね」
そう言われると、ついつい生来の食い意地がでてきてしまう。最後には、半ば押し切られたような形で私は承知させられてしまった。
〈まあ、高校のテストでそう簡単に数学で百点なんて取れるわけないよね……〉
しかしながら、この時私はたかをくくり、安心していた。
ところが。
「おねえちゃん、百点取ったよ」
一週間後、彼女の報告を聞いた私は唖然となった。
「ね、絶対作ってきてね」
「う、うん……」
えーい、こうなったら食物十(ペーパーテストがあまりにも良かったので先生がしぶしぶつけたものと思われる)の成績と、食物検定4級(実技のきゅうり切りで5、6回追試を受けたが)の腕を奮って作ってみるか。
私は覚悟を決めてうなずいた。
冬休みに入ったある日の午後、私は独りで『ロッククッキー』を作ろうと気合いを入れて台所に入った。
が、しかし。
「ちょうど退屈してたんだ」
何故か、中学三年の妹もそう言いながら台所に入ってきたのだ。
〈あ、あのね、あんた、じゅけんせーなんじゃ……〉
私の思いをよそに、妹はさっさと戸棚をのぞき始めた。
「えーっと、ベーキングパウダーはあるっと……」
「あのねえ……。私一人でやるから、あんたは勉強してなさい」
私の言葉も何のその、妹はけろっとした顔で答えた。
「やだ。第一、『ロッククッキー』は私のレシピだもん」
あ、そうだった。私は妹がこの前家で作っているのを見て、簡単そうに思えたからこそ『ロッククッキー』を作ることにしたのだ。そこで何故か納得してしまった私は、妹が冷蔵庫へいこうとしていたので慌てて道をあけた。
「うーん、無塩バターがないわね……。姉ちゃん、買ってきて」
妹が私をあごでこき使うのはいつものことである。私は別に腹を立てずに側に置いてあった千円札をつかんだ。
「いい、無塩バターよ」
妹があまりにも念を押すので、私は冗談まじりで言った。
「むえん? ああ、鉛がないやつね」
「違う! 塩がないやつ!」
「分かった。縁がないやつね」
妹はさらに何か言ったようだったが、私はそれには構わず買い物に行った。
買い物から帰ってくると、妹は既に大きめのボールに小麦粉を二百グラム量り入れていた。
「バター量って。溶かすんだから」
私を見ると、妹はさらに用事を言いつけた。
バターを百グラム私がボールに量り入れると、妹はさっと電子レンジに入れて溶かした。その手際の良さは、さすが、自分のレシピだと自慢するだけのことはある。
次に妹は、ベーキングパウダーの箱を取り出した。
「これ、たくさん入れすぎると苦くなるんだよ」
そう言いつつ、妹はスプーンに山盛りいっぱいそれを入れた。
「そ、そんなに入れると苦くなるんじゃ……」
「いーの。これ、ふるって」
私の言葉を無視して、妹はふるいとベーキングパウダーを入れた小麦粉を私に差し出した。
「それが終わったら、今度は砂糖量ってね」
まるでわがままお嬢さまにこき使われる召使いである。が、これがもうわが家の習慣になってしまっている。私はため息をつきながら粉をふるうと、砂糖を七十グラム量るために砂糖入れを手に取った。砂糖が砂糖入れのなかで塊になっているのを、スプーンを使って砕く。しかし、力をいくら入れても、普段あまり使わない砂糖は中々砕けない。そのうち面倒臭くなって、私は塊のまま砂糖をボールに入れた。
はかりの針が七十を少し越える。ま、いっか。妹が見ていないのを幸い、私はさっさと砂糖の入ったボールをはかりから下ろした。
「じゃ、砂糖と卵をかき混ぜて」
私は冷蔵庫から卵を一つ取り出すと、砂糖のボールの中に割り入れ、床の上で足でボールを支えながらかき混ぜ始めた。
「あーっ、もう、下手くそ! ざつっ!」
妹は周りでぶつぶつと文句を言いながら、溶かしたバターと粉をボールに加えている。
やっと粉っぽさがなくなり、なんとか生地らしくなってくると、妹は今度は手で練るように命じた。
「あーっ、もう、不器用! 力がない! ちゃんとかき混ぜなさい。……って、もう、パンじゃないんだから、叩きつけなくてもいーの!」
私がパン作りの要領で生地を揉んだりボールに叩きつけたりしているのを、妹はあきれて見ていた。
「もうそろそろいいかな」
クッキーの生地らしく、少し弾力のある塊になったところで、妹は生地を二十の塊に分けた。
「これをちゃんと丸めるのよ」
私と妹は分けた生地を丸め、手で押してぺちゃんこにして円形のクッキーを作りだした。が、妹のはきれいな円形になっているのに、私のはどうやってもきれいな円にならない。
「あーっ、もう、やり直し!」
妹に何回もこう言われながらも、一生懸命形を整える。が、やがて飽きてきた。私は生地を棒状にすると、くるっと端をくっつけて妹の目の前にひょいっと出した。
「はい、トーラス」
トーラスとは、数学用語でドーナツ型の外面。その形を見た妹は躊躇うことなくいきなりトーラスを叩いてぺちゃんこにした。
「まあ、普通のドーナツ型だね。……本当は丸の方がいいと思うけど」
うーっ、くそーっ。暗に非難された私は心の中で歯ぎしりした。
しかしそれでめげる姉ではない。今度は鼓の形、一葉双曲面を作った。これは、つぶすと瓢箪の形になる。が。
「だめ、却下」
やはりこの形も妹によって却下される。
うーん、それなら。私は諦めずに馬の鞍の形、双曲放物面を作ってみたが、これはつぶすと形が変になったので妹に見せるのはやめておいた。その他、楕円面(球面を互いに垂直な二方向から押しつぶした形)や楕円放物面(放物線をその軸を中心に回転させ、軸に垂直な方向に押しつぶした形)などを作ってみたのだが。
「へん!」
私が作ったクッキーを見て、妹は小馬鹿にしたような顔をした。そのくせ、自分はハート型のクッキーなんかを作っている。よーし、それなら……。と私も四角形や五角形のクッキーを作ってみる。こういうことをしていて、私はふと、一つの考えに行き当たった。幾何学の時間に、これを作りながら曲面の勉強をすれば、よく分かるだろうし、面白いのでわざわざ出席カードに授業の感想を書かせなくても出席率は上がるのではないか……と。
〈しかし、それは自分が教授にでもならない限り誰もしないだろーな……〉
そう思い、私は一人苦笑した。
形を作り終えると、アルミホイルを敷いた天板に生地を並べ、百八十度のオーブンで十五分間焼く。焼き上がってみると、膨らんで円も四角もハート型も何が何だか分からなくなっていた。
「形、整えても整えなくても一緒じゃない?」
私がそう言うと、妹はさっと自分の部屋へ去っていった。
塾にその『ロッククッキー』を持っていくと、頼んだ女子高生をはじめ小学生や中学生も私のクッキーに手を伸ばした。
「うん、おいしい」
「結構いけるね」
私はこのようにして、どうにか先生としての面目を保ったのであった。
「ねえ、おねえちゃん、また作ってきて。今度はケーキとか……」
い、いや、それはちょっと……。
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