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横恋慕

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 綾音と横田氏が両思いになった、ということを、私が初めて知ったのは、木々の若葉が深みを増した緑に変わっていった高三の五月の終わりの頃だった。
 いつものように合唱部の練習を終えて、私が帰り支度をしていると、後ろから綾音が嬉しそうな、恥ずかしそうな顔をして、私の横へ立った。
「どうしたの、綾音。そんなに嬉しそうな顔をして……」
 綾音に、尋ねる。
「うん、あのね……」
 綾音はそう言いかけて、恥ずかしそうに下を向いたが、すぐに私のほうをにこやかに見て呟くように言った。
「私ね、横田君と両思いになったの」
 そう言うと、綾音は又恥ずかしそうに俯いた。綾音のその表情が、少し眩しい。目を瞬かせながら、私は綾音のほうを見、そして、綾音の言葉が嘘ではないことが分かると、顔を少しだけにこっとさせた。
「おめでとう。良かったじゃないか」
「ありがとう。怜美ならそう言ってくれると思った」
 そう言って再びにこっと笑う綾音のその顔は、夕日が柔らかくあたっている所為か、ぞくっとするほど奇麗だった。
 綾音が、三年四組の横田のことが一年のときからずっと好きだった、ということは、私も薄々感づいてはいた。綾音とは、一年のときに合唱部へ入ってからの友達付き合いだが、そのくらいはすぐに分かった。
 綾音と別れ、夕日に照らされた道を一人帰りながら、横田氏と綾音のことを色々考える。確かに、横田氏は勉強は出来るし、スポーツはまあまあだし、三つの部の部長もしている。ピアノが上手く弾けて、美人で、才媛の綾音には、正にぴったりの恋人だと思う。
 そんなことを考えながら歩くと、何故か私まで幸せな気分になってくる。ただ、胸の中に一つ、小さいしこりがあるような気がしたが、その時の私は、そんなことは別に気にもしなかった。

 梅雨が明けた七月、わが校では恒例のクラスマッチが行われていた。
 私はバレーボールに出場したが、前評判通り一回戦で惨敗した。
 暇になり、校庭をぶらぶらと散歩していると、思いがけなく綾音の声らしきものが聞こえてくる。私の足は思わず一番端のコートへ向かった。
 丁度、綾音のチームと私のクラスの女子のチームとがバレーボールの試合をしている。私は、コートの隅にちょこんと腰を下ろして、綾音のプレーを見物した。
 綾音がサーブを打ち、レシーブする。小柄なので、スパイクやブロックはあまり決まらないみたいだが、こぼれ球をしっかり拾い、味方が打ちやすいようにトスを高くあげる。綾音が発する声は、チームの皆を勇気づけ、疲れを忘れさせていた。
 試合のほうは、フルセットまでもつれこんだが、私のクラスのほうが、チャンスをうまく利用して綾音のチームに勝った。
 負けた悔しさで泣いている綾音を見たとき、私の胸は切なく揺らいだ。

 何故、綾音のことが気になるのだろう。
 それからというもの、私の心はその疑問で一杯だった。
 綾音も、私も、『女の子』なのに。

 十月、落ち葉が風に飛ばされる中を、私は一人とぼとぼと家に帰っていた。
 不意に、誰かが背中をポンと叩いた。振り向いて、私は思わず鞄を落としそうになった。そこには、綾音がにこにこ顔で立っていたのだ。
「久しぶり、怜美」
 綾音はそう言うと、私の横に並んだ。
 そういえば、合唱部を九月に引退して以来、綾音とは全然逢っていない。クラスも、綾音が文系クラス、私が理系クラスだから、時間割の関係上なかなか会えない。
「どうしたの、怜美、元気無いわね」
 綾音が、私の顔を覗き込んで言った。心配そうな顔がよけいに綾音の顔立ちを引き立て、どきっとする。私は、綾音から目をそらすと、感情をぐっと抑えて言った。
「それより、綾音、今日は横田氏と一緒じゃないの」
 綾音が横田氏と一緒に登下校していることは三年中の噂になっていた。
「ああ、高雄君はね、今日、風邪で休みなの」
 綾音が、横田氏のことを何のてらいもなく名前で呼んだことに、私の心はずきっと痛む。が、まあ、付き合っているのだから当たり前か。私はそう思い返した。
 風が、綾音のセミロングの髪を優しくまきあげ、私の胸をあやしくざわめかせて通り過ぎていく。私と綾音は、落ち葉がはらはらと落ちる駅までの道を、二人並んで歩いていった。

 歩きながら、私は何度綾音に『告白』しようとしたかわからない。
 が、口をついて出る言葉は、当たり障りの無いおしゃべりだけ。
 第一、この『告白』は、綾音を戸惑わせるだけだ。

 ただの『親友』でもいい、ずっと側にいたかった。

 幾許もしないうちに、駅に着く。
「じゃあ、私、これから高雄君の家にお見舞に行くから。じゃあね」
 制服のスカートを翻した綾音は、その言葉を残し、軽くステップを踏んで去っていった。
 その様子を、私は、まるで映画のワンシーンのように切なく見ていた……。

 そして何事もないまま季節は巡り、私も、綾音も、横田氏も別々の大学に合格し、進学した。
 私と綾音は、合唱部のOB会で時々顔を合わせるが、綾音は、横田氏とうまくやっているのだろう、いつ逢っても幸せそうだ。
 綾音の幸せそうな笑顔を見る度に、私は、その顔が当惑に変わるのを見るのが怖くて、そっと、自分の気持ちを心の奥底に押し込み続けた。
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