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赤熊百合の揺れる場所で

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 小径の両脇に並んで揺れる赤熊百合の松明を模したような姿形に、思わず笑みが零れる。
 陽が沈んでもまだ微かに明るい森の中は、夏だというのに涼しく、そして普段と同じように何処か薄ら寒い。その、現在葉月が当主を務めるオーガスト家が長年に渡り所有し続けている深い森の真ん中に有る、何時から其処に有るのか誰も知らない朽ち果てた遺跡へと、葉月の足は急いでいた。この日の為に特別に誂えた白い上着の裾が、不意の風に翻る。薄ら寒い森の空気の中に感じる、それでも明るい感覚は、この古き森が、所有者である葉月を祝福してくれているのだろう。荒れた小径に時折躓く足にもどかしさを感じながらも、それでも見えてきた荒れ果てた遺跡に、葉月はほっと息を吐いた。巨大な石が不規則に並ぶ遺跡の中央に位置する、威厳すら感じられる黒い巨石の傍に所在無げに佇む、仄白い影にも。
 音を立てず遺跡に入り、背後から白く華奢な影を抱く。抵抗無く葉月の方へ寄りかかってきたその温かい影に、葉月は静かに微笑んだ。葉月自身が選んだ光沢のある、それでも指先に柔らかな婚礼用の純白のドレスが、僅かな光に揺れているのが見える。似合っている。簡潔な感想だけが、葉月の心を支配していた。
 それぞれにとって異国であった地で出会い、異なるが故に互いに惹かれ合った葉月の両親は、この人里離れた古い土地で、葉月をこれ以上に無いほど完璧に育ててくれた。両親の細やかな愛情と厳格さが有ったからこそ、葉月は気高さと品格を持つ青年となり、古き家柄であるオーガスト家を守ることができる能力を有した立派な家長へと成長することができた。母から受け継いだ東洋の血を理由に、葉月を当主とすることに渋る親戚も居たが、それでも、今、古き家柄であるオーガスト家が、激しく移り変わる世界の中でたとえひっそりとでも存続しているのは、葉月自身の才覚と手腕があってこそ。葉月はそう、自負していた。
 生きている時も、葉月を育てている時も、そして不幸な事故で同時に命を落としてしまった時も互いに信頼し合っていた両親のように、信頼に足る伴侶を見つけ、幸福な家庭を築き、理想的な人生を送りたい。そう考え、若年の頃から、葉月は世界中を旅して様々な女性に接してきた。だが、探し方が拙かったのか、それとも葉月の理想が高過ぎるのか、葉月を満足させる伴侶に巡り会いたいという願いは叶わなかった。しかし妥協はしたくない。それが、葉月の本音。
 理想とする女性が居ないのなら、作ってしまえば良い。その思考に初めて辿り着いたのは、何時のこと、だっただろうか? 幸い、自己クローンを制作する技術は、既に世界中で合法化されている。作成されたクローン人間に対する権利も保障されている。女性となるよう遺伝子の一部に操作を施した葉月自身の精母細胞を、腹膜に形成した胎盤を用いて育てれば、自分で自分のクローンを産むことができる。女性ホルモンをその身に注入すれば産まれてきた子供に乳を与えることも可能。オーガスト家は貴族と呼ばれる家柄であり、葉月が手掛けている事業も上手くいっていたから、子供の教育に注ぎ込むことのできる財産も十分にある。そして。現代の技術の粋を利用して生まれ、十八になるこの日まで葉月が自分の理想通りに慈しみ育てた少女が、目の前に居る、ピンクゴールドの髪とシアンブルーの瞳の、葉月自身と同じ髪と瞳の色を持つ、気高く魅力溢れる美人。その理想の少女と、今宵、オーガスト家に代々伝わるこの神秘的な場所で、結婚する。これ以上の理想は有り得るだろうか。殆ど自分自身である、腕の中の少女の硬い髪を撫で、葉月は静かに微笑んだ。
 壊れ物を扱うようにそっと、華奢な肩を抱き、その滑らかな唇に自身の唇を重ねる。どこからか漂ってくる甘い香りに、葉月の身体は幸せに震えた。
 だが。急に胸を襲う、冷たい感覚に、はっとして顔を上げる。胸から喉へ、そして喉から口腔へと湧き上がった熱い塊を感じると同時に、身体から力が抜け、葉月は愛しい少女から腕を離した。おそらく葉月が吐いたのであろう、赤黒く見える色が、少女の白い服を醜く汚しているのが見える。
「何故……」
 その葉月を見て微笑み、胸に飛び込んできた少女に、荒く息を吐く。力を無くした腕の中に居る、殆ど葉月であるこの少女が葉月に毒を盛ったことは、葉月にはすぐに分かった。しかし、何故? 戸惑い、狼狽し、動かなくなってしまった頭で、葉月はぐるぐると思考を巡らせた。男性である葉月から作られているこの少女は、遺伝子上の問題により子供を作ることができない。もしかしたら、少女は、葉月が、古い家柄であるオーガスト家を存続させる為とはいえ彼女以外の女を余所に囲っていることに対して、葉月の不実に対して怒りを覚え、このような行動に出たのだろうか? それとも、少女の全てを支配しようとする葉月に不満を募らせていたのだろうか? 葉月自身、幼い頃は、両親の厳格さに微かな不満と反抗を覚えたことも、確かにあるが。……いや、おそらく、違う。葉月の胸に凭れ掛かり、ゆっくりと温かさを無くしていく少女が葉月に見せた、葉月を引きつける優しげな微笑みに、葉月はゆっくりと笑みを返した。そうか。自分と同じように理想を追い求め、頂点を、完璧を目指す彼女だから、二人のこの愛も、完璧なままでいたかったのだ。葉月はようやく理解した。
 この幸せを抱いたまま、息絶えるのも、悪くない。その感情を胸に抱いたまま、葉月は冷たくなってしまった少女の身体を抱き締め、自身も冷たい遺跡の石壁に背を預け、地面に座り込んだ。
 遺跡の周りにも、小径に有ったのと同じ赤熊百合が、松明のような赤い花を揺らしている。ゆっくりと空を見上げると、木々の向こうに、明け始めた薄明るい光が見えた。完璧だ。葉月は腕の中のほぼ自分自身である少女の、自分自身と同じ色の髪をもう一度優しく撫で、そして静かに目を閉じた。
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